caguirofie

哲学いろいろ

                  第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

深追い記

14 共同主観をわれわれのものに!

個人:集団=信仰:宗教=共同主観:共同観念

信仰は どう考えても 個人のものである。誰かと同じ信仰だという場合にも 互いに話しあってみると 共通のことがらが多いというほどの事情ととらえたほうがよいように思う。複数の人びとが わたしたちの信仰はうんぬんと表現したとしても 一人ひとりの信仰を ただ便宜的にまとめて称したものにすぎないのではないだろうか。
このように言うのは 信仰が違うということを 個人が一人ひとり人格が違うというのと同じ意味に用いていることに由来する。信仰を持たないと表現する人がいることをも とうぜん 含めた意味である。
教義と組織〔の運営〕そして両方にかかわる儀礼制度を伴なう宗教は 信仰から 少なからず 離れると思われる。教義も組織も儀礼もすべて完全に自由なばあいにも――無宗教という場合にも―― 社会の慣習とそのなんらかの力学は 個人の考えと努力から離れたものになっている部分が大きい。
倫理とは くせ・ならわしを言うとするのが分かりやすいと思われる。思惟・内省=生産・行為の形式であるが その思考とて 個人のくせから始まっているようなものである。
もしそうした場合 ここでも 個人の問題と社会の次元との違いが生じている。個人の倫理と共同体のそれとは 互いに異なっているようになっている。
個人の信仰と集団の宗教とを対比する仕方のほかに この倫理についても 個人の主観共同体のならわしとの対比としてとらえる仕方を用意しておきたいと思う。
共同体の総体的なくせは 共同観念と呼びたい。
日本教としての・儒教としての・ヒンドゥー教イスラームユダヤ教キリスト教等々としてのそれぞれの共同観念があると見るわけである。主観が これら共同観念に異議を唱えるという場合 それは個人から発せられるのだが その主観内容には共同性・普遍性がないことにはあまり現実的なものではない。ある共同観念に代わって 人びとの妥当がくせになりうる倫理であることが必要だ。したがって 共同観念なる集団の倫理に対比する個人主観の倫理は 共同主観とよぶことにする。
次元の上で個人と社会との対比として 非経験・超自然のことがらが含まれる場合 信仰と宗教とであり おおむね経験思考の範囲におさまることがらの場合には 共同主観と共同観念とである。

共同主観と共同観念の用語としての使用例

たとえばこれまで取り扱った主題のなかでは 倫理の極限化の果てに 倫理の崩壊が見られるといった場合 それは 単純に言って 共同主観が 共同観念の強固な壁ないし誘惑に屈することを言っている。

  • 特定の人どうしの間で その個人的な裏切りが起こるといった問題であるのだが その契機は 往々にして 社会のならわしとしての共同観念が個人の主観を凌駕するという事例だと考えられる。

あるいは 天使にかんしては 共同主観は その座ではない。天使の存在を欲して 思想内容を告げられるのが 共同主観である。その共同主観を 時に《伝統》と見なされる共同観念は 先取りすることが起こる。具体的には ひとりの個人が 共同観念の立ち場から そのような先取りとして 光の天使を装うものと考えられる。
殺すなかれという掟は 共同主観であると同時に 共同観念でもあると捉えられる。共同観念も 元は・そしてその原形は 共同主観であったと考えられる。
一般にも 共同観念が 共同主観に対して優勢である状態を 鉄格子の世界と言うのだと思われる。あたかも脅迫するかのように 倫理の極限化を促す共同観念が一方の極にあり 他方には あらゆる論理思考とその答責性をなし崩しにするような倫理の負の極限化を 暗黙のうちに 誘導しているかに思われる共同観念がある。

  • 共同観念なるくせ・ならわしは ムラ(村)イスム・ナシオナリスムとも呼びうる。
  • また 個人のであれ 社会集団のであれ そのくせのあり方が 善もしくは悪として捉えられ扱われる場合も見られる。
あらためて議論を起こしつつ

古い議論をふたたびたどりながら すすめよう。
吉本隆明によれば

ニーチェによれば 《新約書》の世界は けちな背徳にこだわる卑小な男たちの世界である。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.151)

このとき 卑小な男たちは けちな背徳の起こる倫理を擁する共同観念に対抗して 自分たちの信仰ないし共同主観を主張したということになる。ニーチェの共同主観はどうだったかについては こだわらない。
あるいは

また マルクスによれば余計な負担を人間の観念に負わせようとして 人間を脅迫する《倫理》の世界である。・・・この網の目のような世界を脱出するには キリスト教的な世界を 観念的にか現実的にかひっくり返すより仕方がない。
(同上 承前 p.151)

ここでは 背徳の倫理を裏で(?)暗黙の内に(?)許容する共同観念に対抗していたキリスト者の共同主観が あらたな共同観念と見なされて また 実際に社会の現実となっていって これは 余計な負担を脅迫的に負わせようとする倫理であるから 新しい共同主観をもって対抗し 覆さなければならないと主張しているという見方となる。
だから わたしの考えでは 吉本は――もしくは吉本のとらえたニーチェマルクスは―― 個人にかかわる共同主観を 社会共同の観念と取り違えてはならないと言っているということである。もしくは 共同観念を 個人の主観そのものと同じだと捉えてはいけないということである。信仰と宗教とを混同してはならないのだと。もし さもなければ 吉本らが この混同と取り違えを犯しているものと思われる。
とくに かの《中間状態》に居を構えて つまり 天使の視座を自在にあやつるかのようにして 世の中の善と悪 倫理と反倫理 誠実と背徳 信頼と裏切り 等々を 超えると称して それら互いに両者を均衡させつつ 《人間にとって本来の倫理》などという第三の種類の主観を打ち出してくるという場合が それである。

共同観念に抵抗する三種類の主観形式

共同観念もしくは ほとんど同じことで 慣習となった宗教にもとづく倫理(それは社会的な心理共同)が 人間関係において 強固な・時に伝統的な力学を形成している。いわゆる常識となっていて 無防備の個人の主観を呑み込んでしまう。むろん常識となった共同観念に従う人びとにとっては その主観があたかも この社会力学に一致しているということである。
所謂良心を保持しようとするとき 主観は この支配的な共同観念に従えないという場合が起こる。ここで 第一の種類の主観は とにかく文句を言う。この場合の良心は しばしば利害関係という意味あいが強い。法律上も主権の存する市民であり 人権は貴い かつ 倫理上も 何ものにも替え難き生命とその人間存在である。建て前としてでも このことを 共同観念もうたっている。人権とその利益が損なわれるならば 主観は これに異議を唱える。
同時に 第二の種類の主観として 当然のごとく この利害関係の情況のすべてについて 科学的に明らかにしようとする。これら二種類の主観は やはりとうぜんのごとく同じく科学的な主観を伴なった共同観念の側と 話し合いをおこなう。
第三の種類は 大きくは すでに現行の共同観念を 丸ごと新しいものに変えたいという立ち場にかかわる。いづれにせよ 思想を形成する。
その中で 天使の能力を欲する中間状態に拠る主義主張がある。それは 特に共同観念が市民個人にその倫理を強要する傾向のある情況において 発生する。また  情況を異にしている場合にも そのように発生した中間主義・天使主義を 真似て派生することがある。
いわく この世の倫理としての善と悪とを超えようと。(経済体制の問題だという議論は 捨てることとする。)

人間の《倫理》は 他者との個的な あるいは共同的な関係から発生する。しかし ロートレアモンは 《他者》との関係としてのじぶんという位相を捨ててしまっているはずである。それならば 通常いうところの《倫理》も《反倫理》もロートレアモンにとっては成立しないはずである。《善》だとか《悪》だとかいう倫理的な概念は 具体的な個人とか 現実の共同社会とかを背景としてはじめて成立するものである。そうだとすれば ロートレアモンにとっては《善》だとかその反対概念としての《悪》だとかは無意味でなければならない。・・・
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.153)

まずここで言っていることは 自分の主観を共同主観として提示するというとき 一方で 共同観念との真正面からの対立のかたちに入るのではなく 他方で あたかも他者に自己の主観を押し付けるかたちになるのではなく 全体としてこれらのことを避けてのように 自らを――少なくともその視点を―― 空中に揚げることをなす。観念の操作としては 善と悪など二項対立の状態を超える もしくは その二項を均衡させるということである。吉本の言葉では 《生きていない》と《死》との中間状態だという。総じて広く 天使の座だと捉えられると思われる。単純に 純粋概念・純粋思想と言ってもよい。
前掲の文章にそのままつづいて――

それにもかかわらず 《マルドロールの歌 (角川文庫クラシックス)》がいやおうなく響かせている《倫理》 つまり悪徳やざん酷を讃美するかのような響きや これでもかこれでもかというような背徳のイメージと形象は どこから由来するのだろうか。それは たぶん 《善》と《悪》とが対立概念として成立するような世界の《彼岸》で ただ《倫理》が本来的な倫理そのものである世界からの反響(こだま)としてであるようにみえる。・・・

  • 《本来的な倫理》に 原文では 傍点が付されている。

この本来的な《倫理》によれば 人間はただ人間であるということだけで 決定的な《悪》である。つまり 《人間というこの野獣と こんな虫けら》(マルドロールの歌 (角川文庫クラシックス))であり それを生み出したのは 《創造主》《全能者》《神》の摂理というものである。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.153−155)

《本来的な倫理》は 善悪の対立しあう世界の彼岸にあって なおかつその彼岸から送ってくるかのような反響としては 悪徳・背徳を讃美するような内容だという。おそらくは――つまり この中間状態を 天使の座に喩える限りでは―― 正負のあい対立する二項を均衡させようとするかたちで それは 善悪の倫理を 人間の判断で 最終的に決定的に決めてはいけない部分があることを指し示しているのだと考えられる。共同観念で すべてを決定してはいけないのだと。共同観念は その国その文明において およそ偶有的に成立したただの観念であるかもしれない。あるいは およそ普遍的な共同主観と同一である(たとえば《殺すなかれ》)とすればその観念が しかしながら われわれ人間の根拠であったり推進力であったりするのではないと示唆しているものと考えられる。
そのようにして いま 吉本隆明は ロートレアモンにかかわって 天使の座に喩えられる中間状態を提示し説明してきている。
われわれの言おうとするところは はじめからの主張のごとく 天使の存在を欲することはあっても その天使の能力を欲して自らが空中に翔け昇っていくことではない である。人間は天使ではないからである。むしろ神が肉となり人間となったと表現することはあっても 天使は人間として生きることは出来ないからである。
上の引用箇所の最後のところに関して言えば 天使たる中間状態から見れば 人間は人間であることじたいにおいて悪であり 野獣と虫けらにしかすぎないのであって この人間を生み出したのは 全能者たる神であるというとき このような共同観念を生み出したのは 誰かという問題なのである。
共同観念から自己の個人としての共同主観を区別し確認し保持していけばよいという問題なのである。わたしがわたしであれば その共同主観は――支配的な共同観念に対して弱くむしろ無力であるが――それこそ永遠であると言ってよいのである。善悪などの二項対立を――そうしても かまわないであろうが――わざわざ均衡させることもないはずだ。もともと 共同観念としての倫理と 自己の主観の倫理(くせ)とは 基本的に 別だと言っているのだから。信仰は 実際問題としては 宗教とは一致しえないと言っているのであるから。
だから 中間状態の思想は 神殿の前を徘徊していると言ったのである。あたかも 天使なる純粋思想の箒で 前庭を掃き清めているかの状態である。
これは しかし 危険な主観であろう。人間であることを脱して あたかも永遠であるかたちだからである。それは 空中の権能である悪魔もしくはその手下である悪鬼のことにほかならない。
野獣で虫けらなる人間として 共同主観の持続過程としてこそ われわれは――人間の論法でいえば――永遠なのである。死を経験する前だろうが後であろうが 一貫していくこととなる。この弱き無力の生の永遠が 時に歴史の或る時点において 共同観念との関係を柔らかな・さらには自由なものとして 死を――死の制作者である悪魔に打ち勝ち――飲み込むであろうと考えられた。その状態がどういうものであるかは いまわからない。

吉本隆明ロートレアモン論の原文に沿って見ておこう

この名づけようのないロートレアモンの《倫理》の位相には 絶望も希望もなく ただ 無機的な《自由》の渇きのようなものがある。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.156)

このように批評する著者じしんの視点は 必ずしもまだ明かされてはいない。むしろどこまでも吉本隆明の主観としては 明かされない。この中間状態の紹介における対象となった表現者やあるいは読者との饗宴が つづく。
次がロートレアモン論の最終の部分である。

そうすると いったい どういうことが起ることになるのか?ロートレアモンの《倫理》は人間がその時々にあって もちえた 《倫理》的な様式のどこに鎮座していることになるのか?・・・
人間からじぶんを類別してしまった 《人間》(――天使もどき〔引用者註〕――)というロートレアモンの位相は もっともちかい位相を 比喩的にかんがえてみれば 死者と生者の関係である。

  • 中間状態――《〈生きていない〉と〈死〉との中間状態》 これは むろん上の括弧つきの《人間》のことである――が ここで《死者と生者の関係》とも表現された。

ある日 蘇った《死者》が ふとパリの街衢にあらわれた。ひとびとは青白い痩せた貧血な青年として この《死者》を眺めて気にもとめなかった。この《死者》のほうも べつだん ひとびとに関心をもたなかったし どうということもなかった。かれはこの世界の人間をただ《眺め》にきたのだから。すでにそれ以前に この《死者》は 《全能者》《神》《創造者》とのあいだの格闘に精力をつかい果していたので 疲れ切った貌をしていた。特徴といってもなにもなかった。ドストエフスキーの《カラマーゾフの兄弟》では こういうふうにやってきた一人の男キリストは すぐひとびとにそれとわかってしまう。だがロートレアモンの《マルドロールの歌》では この《死者》つまり《他界》からの観察者は けっして身元を気づかれることはない。かれは なぜ《倫理》的と呼びうるのだろうか。もちろん かれは生者から類別されてしまった《生者》 いいかえればわたしたちが呼んでいる《死者》だからである。《死者》を葬る行事が倫理的であるのとおなじように 生者から類別されている《生者》 つまり《死者》という位相自体から ロートレアモンの《倫理》はやってくるのだ。そしてあまりに《倫理》的であったので ロートレアモンは いまも人間のふしだらさを予言しつづけている。
Le Fils de l'homme enverra ses anges, qui arracheront de son royaume tous ses scandales, et ceux qui commettent l'iniquité: et ils les jetteront dans la fournaise ardente, où il y aura des pleurs et des grincements de dents.(MATTHIEU)
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.156−157)

これによって ロートレアモン論が締めくくられている。《日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書》フランス語訳の引用は 十三章四一-四二節である。

《人の子》は天使たちを遣わし すべて罪に陥らせる者と悪を行なう者とを 自分の国から集めさせ 燃え盛る炉の中に投げ込ませるのである。かれらは そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 13:41−42)

これはまず――《人の子》はキリスト・イエスのことであるが――むろんのこと 吉本の文章の続き具合からあるいは推し測られるような読み 《ロートレアモンが 人間のふしだらさを予言している》から起こるというもの ではない。
ただ吉本も かれがロートレアモンに触れて 《本来的な〈倫理〉》の世界を考えるとき 《倫理――だから そこに悪を含む――》の世界には このような――必ずしも目に見えなくとも――過程ないし結末が 見通せるということを かれ自身ここで明らかにしたかたちのものでなければよいのであるが。《そうすると いったい どういうことが起こることになるのか?》
読者をつねに―― 一面では この天使もどきの中間状態を紹介しつつ――あの善悪の網の目からなる鉄格子の世界に留まらせて そこにじゅうぶん饗応の世界も繰り広げられるその共同観念の やがての崩壊を かれ自身が 予告しているというのでなければ いいのだが。そのような衝動をいかんともし難かったのだろうか という推測をはねのけてくれればよいのだが。かれ自身嫌った《倫理的な脅迫》を 自らおこなうはめになったというのでなければよいのだが。
総じてこの書物の解体学は 単なるフィクションなのだろうか。そう読めば とくにひどいとも思われない。
いかに理性的な魂も この著作における吉本隆明を直接に論じる資格を持たないように思われる。底無し沼の如くではないだろうか。

なしうべき推測として――
  • 吉本隆明は 《すべて罪に陥らせる者と悪をおこなう者とを 自分の国から集めさせ 燃え盛る炉の中に投げ込ませる》ように 《人の子すなわちキリスト・イエスから使わされた天使たち》の一人を 自認して こういう文章を書いたのであろうか。
    • そうすると いったい どういうことが起こることになるというのか?
  • 神を見た人は この天使たちの遣わされることを 中間状態として 先取りした見せたのであろうか。
  • この天使この中間状態人間――《死者》とよぼうと――は 《疲れきった貌をしている》という。《全能者》との格闘をよほどおこなってきたからだという。それでは 天使ではないようでもある。
  • この《死者》つまり《他界》からの観察者は 《けっして身元を気づかれることはない》という。これも 天使のことではない。共同主観の思想を告げにやってくるのが 天使であるから。
  • 格闘をして神を知ったのなら その古き人を脱ぎ――中間状態の天使もどきになるのではなく――新しき人を着ればよかったものを。そうして みづみづしい貌になって出直していればよかったものを。 
  • ちなみに 

《霊の人》は いっさいのことを判断しますが その人自身はだれからも判断されることはありません。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 2:15)

というから 《身元を気づかれない》ことは 天使のことではなく まさにキリスト者の共同主観の問題として言っているのだろうか。もっとも ただちに

神の栄光を そのからだで現わしなさい。
コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 6:20)

というからには やはり この人間の問題でもあてはまらないであろう。

  • けれども このような《身元も気づかれない》ような中間状態は もしそれを勧めているとしたならであるが もっとも嫌った倫理の極限化ではないのか。これは 見当ちがいか。
  • 《人間のふしだらさを予言する》というのは 自分のこととしてでなくとも よく言うよと言わざるをえない。

信仰もしくは共同主観の徒として われわれは 共同観念の古き館の中で つねに空しくされるが すでに光といのちを与えられている。共同主観の生きる道を指し示されている。
(つづく)