第一部 第三の種類の誤謬について
もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513
追記
12 倫理の問題を超えましょう
追記の必要を感じた。
《書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》第四篇〈ロートレアモン〉の第二章〈倫理〉において これから引用するような文章(認識)に出遭った。これまで バタイユ ブランショ ジュネの各論考について それぞれは まとまった一篇であるとわたしは考え また言いかえると その中でも第一篇〈ジョルジュ・バタイユ〉の項目の全体を参看すれば いわば吉本隆明のその人と思想は あたかも他の諸篇でも金太郎飴のように同じであるごとく 認識できると考え その意味での部分を知れば 全体として知ることができるとたかをくくっていた。この方針は これまで間違っておらず 従って 全体として批判をおこなうという作業の目的は達せられたと考える。
ところが その後 上に触れたように次に掲げようとする文章の一節に出遭ったとき これは 金太郎飴より悪いと悟った。次である。
著者はまず 《倫理》の問題を扱った著作の中の著作として 《歎異抄 (岩波文庫 青318-2)》と《マタイ伝(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書)》を挙げ それぞれそのさわりの一節を引用して 論を進めようとする。この導入部分をいまは省略して論議してよいと思われるのだが それを承けて 読者は次の文章に出くわす。それは 独立して一個の認識をなしていると思われる。
人間は《倫理》が破壊されるまでに追いつめられたとき 宗教的な《救済》や イデオロギー的な《救済》におもむくより仕方がないのか。
これに昂然と反旗をひるがえしたのは ニーチェとマルクスである。ニーチェは こういうように宗教の形で追いつめられてゆく人間の《倫理》の 矮小な 観念を呪縛し 息苦しくさせるような 極限化の世界を ささいな背徳に眼くじらをたててほじくりかえす侏儒(こびと)どもの世界だ と罵倒した。ニーチェの背後には 健康な正常な人類の幼児期であるギリシャの面影がひかえていた。
マルクスの考え方では この種の《倫理》的な極限化が 一見 正当らしく提起されるのは 人間のそとに 客観的に根拠や原因をもとめられるべき欠陥を 個々の人間にぜんぶ背負わせようとする途方もないキリスト教の仕業で それがこの種の《倫理》の極限化を促す理由であり 根拠になっている。人間の《倫理》を こういう形で極限化することのなかに すでに錯誤がふくまれており この錯誤はキリスト教に 一般的に宗教に 固有なものであることに気づいた といってよい。
ニーチェのようにでも マルクスのようにでも 徹底的に異をたててゆけば キリスト教的な《倫理》は すくなくとも理論的にはけしとんでしまうことは疑えない。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.148−149)
いじょうの文章である。
- 信仰は 倫理から自由である。《から自由》というのは 《を含みうる》と言っている。宗教は 組織・集団・一定の範囲の社会あるいは広く文明にかかわるから 習慣を初めとする倫理・道徳が少なからず含まれている。信仰は 地上の世界にあって これに甘んじる。
- だから 宗教としてのキリスト教と 個人におけるキリスト信仰とは ときに 互いに似ても似つかないものとなる。
- 信仰の過程で 倫理の極限化をおこなう例が見られるばあい それは 時に迷いによる場合をも含めて 一般に試練の過程である。信仰へのいわば助走の段階で 倫理の極限化に努めるというばあい それは その人の信念のしからしめたものであろう。
- 信仰は 掟としての律法 その倫理道徳の要請に 人間の能力と努力とによってはこたえることができないというところから そもそも出発している。
- 宗教としてのキリスト教やその教義によって 倫理の極限化を促される人びとがいる。その人たちの勝手であるが 信仰とは似ても似つかない事態である。神によってではなく 人間の力によって 立派な人間になれると考えているのであるから それも 人に迷惑をかけるのでなければ 自由だというほかない。
- 《人間の〈倫理〉を ――ひとも自分の倫理内容と同じように振る舞えというためにこそ――極限化することのなかに すでに錯誤がふくまれており この錯誤は 一般的に宗教に 固有なものであること》 これは マルクスが《気づ》こうが誰が気づこうが わかりきったことである。そしていわゆる宗教に限ったことだろうか。後述=(13)。
- 鉄格子の世界だといわれるこの世の中における《欠陥》について その根拠や原因を《人間のそとに 客観的にもとめるべき》ものとそうでないものとを区分けすることは かんたんにできるのだろうか。あるいは 《根拠や原因を人間のそとに 客観的に求める》とは どういうことか。さらにあるいは 仮りに求めえたとして その欠陥を《個々の人間にぜんぶ背負わせようとする》とは わかるようでわからない。
- そのように個々の人間に欠陥の責めを負わせるという教義が キリスト教にあるのだろうか。《教義》は 救われると言っているのではないのか。――日本教はその不文の教義で 世間に従えと促し もし欠陥が現われれば この世間に倣わない者に責任の一切を 暗黙のうちに・かつ悪役に任せつつ 押し付け苛めるのではなかったか。この錯誤に気づくのにマルクスの頭脳など要らない。悲しいかな われわれは無力である。
- 《錯誤を含む倫理が 理論的には簡単に消し飛んでしまう》というのなら そのあとの事情にもただちに考慮をはらっておくべきである。
- 倫理が破壊されたと思い為し 《宗教の形で追いつめられてゆく人間の倫理》は 《矮小な 観念を呪縛し 息苦しくさせるような 極限化の世界》であるのかもしれないが さらにこれを《ささいな背徳に眼くじらをたててほじくりかえす侏儒(こびと)の世界だ》と言いたいというのなら 言わせておけばよい。ギリシャには《健康な正常な人類の幼児期の面影》があると言いたいのなら もっと研究すればよい。
- そもそも 《倫理が破壊されるまでに追いつめられたとき 宗教的な救済におもむく》とは どういうことか。わかったようで わからない。初めの倫理は 宗教の促す倫理ではなかったのか。
- そもそも人間にとって《倫理が破壊されるまでに追い詰められる》とは 何を言うのか。倫理が破壊されるというのなら 極限化も何もないではないのか。極限化の末に 破壊されるというのなら もはや経験思考に非ずという意味では信仰の問題であって まったくおかしくないのではないか。宗教の場合には 破壊されたあとさらに倫理を再生させこれをあらためて極限化するというのだろうか。
- 倫理の極限化は 人にはやさしく自分に厳しくと言って 自らにこれを課していると思っていても 人がこの倫理を実行しないからいけないと思っていたり あたかも足並みを揃えて一緒に倫理の向上をはかろうと暗に思っていて 人をどうしても巻き込もうとしたりする場合が しばしばである。この錯誤は 果たして《宗教に固有なもの》か。
ニーチェにおいてしろ マルクスにおいてにしろ ここでかれらにおいて自分の理論の根拠を求め たとえばいわゆるキリスト教徒を含む広く《キリスト者》の――現実に生きているキリスト者の――《欠陥》を 同じキリスト者の《個々の人間にぜんぶ背負わせようとする途方もない教義とその仕業》は いったい誰のものか。結果的にそういう意図をもつ文章であろう。その批判 そのような欠陥の指摘じたいは よいのであるが むしろ歓迎であるが その結果は たとえばわが日本社会の欠陥はどうなるのか むしろこれを覆い隠し まわりまわって助長していると見るべきではないか。――わたしは個人的に 吉本隆明であるなら そのくらいは わかっているとたかをくくっていたのである。この不明を恥ぢなければならない。
あるいは この種の文章(認識・判断)によっては 倫理の極限化ではなく 逆方向の極限化すなわち極端な弛緩が うながされることになりはしないか。吉本が言っているのだから 日本教なる多神教とその社会も捨てたものではないということになる。
わたし(=吉本隆明)は 《歎異抄 (岩波文庫 青318-2)》の考え方のほうが好きで 《マタイ伝》の考え方には ある脅迫が感じられて好きではない。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.148)
が
このふたつは わたしの知見の及ぶかぎりでは 人間の《倫理》を極限まで追いつめて その崩壊のすがたを露出させているという意味で 人類史がうみだしたもっとも優れた言葉に属している。
(同上 p.147)
と言い放っている。
- 因みに 極限まで追い詰めた倫理が崩壊のすがたをあらわすというのは いと高きところの問題であったのだから そのことをこそ明確に触れていなければいけない。
こういう議論の運び方では ――おそらく人びと一般は 倫理の逆極限化=ゆるめること=わが社会の伝統(いわゆる無原理無原則)に対する自信の確認と増長には 促されることもないとは思うが―― 思潮が改まらないという結果は免れないと危ぶまれる。
けれども そもそも 《歎異抄 (岩波文庫 青318-2)》はいざ知らず 《日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書》は 人間の言葉と行動としての《倫理》を扱ったものなのか。《倫理を極限まで追い詰めたときのその崩壊のすがたを露出させている》というのは どういう意味か。崩壊と言っているゆえ 倫理を扱ったものではないと言っているのだろうか。それにしても 聖書記者マタイは この倫理の極限化を図って 読者を《脅迫》しようとしていると言うのだろうか。崩壊が顔を見せているということは マタイの説く文章には 結局のところ あやまった倫理の極限化という錯誤はないのだが 一方で この福音を読みこれに従って生きるキリスト者には この《宗教的な錯誤》が見られる――実際これは キリスト者に限らず ありうる迷誤であろう――と言いたいのであろうか。
- われわれは つねにあやまちをおかすが ばかは休み休み言わなければいけない。たとえ言っていることが 妥当であったとしても その結果は じゅうぶん錯誤となる影響を及ぼすことがある。それは 《方法意識》ということでは その妥当なことを語った人がそのまま負うべき責任だと考える。
金太郎飴ではなかった。部分的には あやうい悪を孕む文章がある。
もし取り上げるには及ばなかったという場合には この追記を記して お詫びを請わなければならない。これまでの批判の過程で われわれの手による解体の作業の中にも 少しでもわれわれ自身の建設的な主張を提出しえたとも思われるので このほうを多として 発展的に取り扱っていただきたい。
13 かれは神を見た!?
追記の追記である。
吉本隆明という人物にかんしていちばん厄介なのは かれが――しかしながら――神を見たという点である。だから たとえば前節の議論として言えば そうは言うものの 《宗教的な救済》をおれは全面的に否定しているわけではないのだよと べつの認識*1をも並べて 議論の内容を均衡させるところである。これは 常習だと考えられる。この逆説を並べての均衡は ふつうの(?)均衡ではなくて かの空中の天使の座から発信してのように 浮遊均衡させるといったかたちである。
われわれは 一般に欠陥とその責任というものを むろん個体としての自己あるいは他者に全面的に背負わせるという意味での錯誤を含むような倫理の極限化を説かないし そもそも倫理の問題として出発することもない。けれども 批判をなすということは 自らの状態をも含めてその相手に倫理の向上をうながすということを行なっているということであろうか。今の課題はけっきょく 議論の中味について その妥当性の極限化をこころがけること このように考え いましばらく再再度の続行をすすめる。
前節の議論を引き継ぐ。イデオロギーによる救済をふくめて宗教的な救済 これの持つ錯誤をめぐってである。
宗教 / 救済 / 倫理などの正確な定義をいま措くとして あらためて 焦点は次にある。倫理の極限化といったことは その負の極限化(=倫理のなし崩し)もありうる だとすれば その極限化がもつ錯誤は 宗教の問題にかぎらないのではないか。集団にかかわって固定した教義と儀礼にもとづかざるを得ない宗教と そして 個人の信仰とは そもそも別だ。救済というのなら 倫理の極限化の果てに倫理が崩壊したあとには むしろまさに問題の核心になるのではないか。
さて 表現の問題で争わないとすれば 吉本の個々に指摘する内容は 妥当であると考えられる。ごく一般的に《マタイ伝》に《宗教的な救済》はある そしてそれは 吉本の言うように 《人間の倫理を極限まで追い詰めて その崩壊の姿を――だから キリスト史観は 倫理ではなかったと確認しつつ―― 露出させているという意味*2》にとって よいと思う。人間の尺度で捉えて そうだと思う。そのさらに向こうに 宗教的な救済があると言って――それは確かに単純にはなるが――よいと思う。《人類史が生み出したもっとも優れた言葉に属している》と言いうると思う。
ところが この《宗教的な救済》を 上に少し触れたように あとでは全面的に否定しているわけではないのだよと言いつつ その救済の過程に時に見られる《錯誤》を 眼の敵としてのように また個人的な欠陥に帰してのように・ということは 自分の個人的な反感を言葉にして用い尽くすようにして 次のように言い張る。
しかし それとはかかわりなく
- とはどういうことか?
ある種の人間が キリスト教のように
- 《マタイ伝》はキリスト教ではなかったのか?
一般的には宗教的に 《倫理》を追いつめることをやめないのも確かである。これはニーチェにもマルクスにも充分わきまえられていた。だから人間が政治的に解放されさえすれば 宗教からも解放されるはずだから 政治的な解放の課題に目を閉じて 宗教的にだけ解放されたいと願うのは虫のいい話だ というラディカリストたちの考え方を マルクスは一見ラディカリストを装った 馬鹿気た見解にすぎないと批判したのである。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.149)
このあと 《芸術が 宗教以外から人間の〈倫理〉に接近してゆく経路はかんがえられないのか?》とあらためて提起して ロートレアモン論に入る。それはいい。と同時に 入らなくとも ここまでで 同じ問題が持ち上がっているというべきである。
《宗教的にだけ解放されたいと願うのは虫のいい話だ》という議論をここで持ち出しているのは 《宗教的に解放(救済)される》ことだけでも大きなことだと 吉本がまず考えているということを物語る。しかも それを 倫理の極限化をともなうと思われ脅迫を受けると感じるような《宗教》には 求めたくないと言おうとしている。繰り返すなら 《宗教的な解放を 宗教には求めたくない》と言おうとしている。一言でいえば 《わたしは 宗教から解放されたい》と言っている。
つまりたとえば あの《中間状態》を提出していた。ふつうに日常生活している《生きている》状態は じつはその極限化をしなくとも倫理が窮屈な鉄格子の世界であると見た上で それではというので 《生きていない》と《死》との中間状態を持ち出してきたのである。単純にわれわれは これは天使の座のことであろうと見た。ときには 空中の権能に仕えることになる危険を孕んでいるのだと。天使の存在を欲するのではなく 天使の能力を自らに欲するのなら それは なるほど光の天使のようであっても 空中の権能である悪魔の擬装したものであるのではないかと。
したがって 好意的に捉えるなら 天使の状態の実現(もしくは 言葉による表現においての実現)を 宗教によってではなく 人間の経験合理性としての能力によって・およびその世界のこととして勝ち取りたいと吉本は腐心している。
ここまで考えてきてわたしは はたと困った。吉本隆明さん あなたの見ている中間状態は われわれ人間がわれわれ自身にむしろ仕えさせていい天使の座なのですよ その天使の能力をでなくその存在を欲するからこそわれわれ人間に天使は仕えることになる それもこれも 吉本さん あなたが神を見たからその中間状態が見えるようになったのですよとおしえてやる以外に なかなか人間の言葉による表現は 難しいと思われるからである。
だが われわれは 考察の妥当性を極限化する方向を目指した。わたしは 吉本隆明なる人は すでに救済が成ったと自ら現に言っているのではないかとさえ思えるようになってきた。ただもちろん 経験合理性の問題で考えていかなければならない。
- キリスト史観と題しているように ここでは すでに超自然のことを むしろ悪びれず 表現していこうとはしている。この点もおことわりしておく。
たとえば吉本は宗教的な救済をめぐって 次のような表現を用いている。
《マタイ伝》は これ(=《歎異抄》の考え方)にたいして 人間が人間であることの限界の内側でだけ《倫理》は成立するものであり この限界を超えた情況では 人間はどうすることもできない破産に出遭うほかないことを指摘している。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.148)
ここで吉本は 《限界を超えた情況では 人間はどうすることもできない――破産ではなく――恩恵に出会うほかない》と暗に語っているように思えてくるから面白い。実際 《破産》に出会うのだが その破産に出会うことが 恩恵だと言いたいのではないかというものである。実際 信仰は倫理の問題ではないというとき そのとおりのことだと考えられる。教義にしばられる宗教の場合のことは わたしは知らない。
そもそも 破産といえば
〔十字架上で〕イエスは大声で叫んだ。
《わが神 わが神 なぜわたしを見捨てたのか。(エリ エリ レマ サバクタニ。)》
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 27:46)
というのが 肉となった人間の貌としてのキリスト・イエスの偽らざる姿なのだから。《倫理の破産》は そこで神の貌を浮かび上がらせた。神の言葉としてイエスは自ら欲して十字架上にのぼり 最後の死まで父なる神に従順であったと。いのちの制作者であったから。
それは 死の制作者である悪魔が 征服されるためであった。この空中の権能者に捕捉されている人びとが そこから放免されるためであった。これが 真理であり 神の恩恵である。
悪魔は 死の制作者であるが 死を自らは望まない。または死なない。死ねない。その死が死ななくなっているのである。まったく死んだ状態にあると言ってもよいが この状態の永遠を望んでいる。この死が死んだなら まさに生が再生する。けれども 空中の権能としては その再生はありえず 自身である悪魔のまったき消滅を意味する。おそらくそのような覚悟で悪魔という状態を願い 神から許されたのであろう。
したがって 悪魔にとって 十字架のイエスの死の淵までは 自らがおもむいてくることは出来ない相談だったのである。そこまで追いつめることは いともた易きわざである。イエスが 神から見捨てられて 死を死んだとき 空中の権能にして 自分の権能のなかに無いことが生じてしまった。神が見捨てた・つまり神自らが死を選んで死んだというのだから。
いまでも死の淵へ人を追いつめることは出来るが 死の淵なる場には悪魔はいない そこへは来ることができない。鉄格子の世界が 窓を開く瞬間である。この種の破産であり 恩恵である。
ここは(この知識は) 言ってみれば 中間状態であるのかもしれない。だが なぜ この中間状態にのぼって そこに浮遊して その座の居心地を自らに欲してのように そこからことばを出してくるのか。ここは いと高きところであるかも知れないが 本当のいと高きところは ここではない。空中の権能というだけに この空中で その悪魔が光の天使を擬装することがあるというのに なにゆえこの天使の能力を欲するのか。
宗教からの解放を求めるのは よい。だが 中間状態を非経験思考において捉える信仰をなにゆえ放棄するのか。信仰を好まず 中間状態を経験思考によって我が物としようとするのは なにゆえか。なぜ神殿を徘徊するのか。
信仰を知らないとは言わせない。これが われわれの吉本隆明批判の初めからの契機だったと思われる。
勇み足を恐れないとすれば 次のようにも表現しよう。
神の国は言葉ではなく 力にある。
(パウロ:コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 4:20)
ということであるならば これに努めなければならない。
悪魔が克服されて つまり すでに克服されていた悪魔が それまでかれの捕獲していた人びとを放免し キリスト・イエスを長子とする人間のともがらとして かれらその人びとが立つとき いやつまりわれらが立つとき 悪魔はすでに繋がれて
死の勝利はどこにあるのか。死よ おまえの勝利はどこにあるのか 死よ おまえの棘はどこにあるのか。
(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 15:55←旧約聖書〈7〉イザヤ書 25:8&《ホセア書》13:14ホセア書-ミカ書 (現代聖書注解))
とうたわれた歓喜のなかに――なぜなら 悪魔が死の制作者である―― 《王がその椅子に坐るまで》 この地上の国に寄留しつつ 信仰がつづくと言われる。
わたしが父のもとからお前たちに遣わそうとしている弁護者 すなわち 父のもとから出る真理の霊が来るとき わたしについて証しをする。・・・
その弁護者が来れば 罪について 正しさについて また裁きについて この世の人びとの過ちを明らかにすることになる。罪についてとは かれらがわたしを信じないからであり 正しさについてとは わたしが父のもとに行き お前たちはもうわたしを見なくなるからであり また 裁きについてとは この世の支配者である悪魔が断罪されるからである。・・・
・・・しかし 真理の霊であるその方が来るとき お前たちを導いてあらゆる真理を悟らせる。その方は 自分勝手に語るのではなく 聞いたことを語り また これから起こることをお前たちに告げるからである。その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けてお前たちに告げるからである。父がもっておられるものはすべて わたしのものである。だから わたしは その方がわたしのものを受けて お前たちに告げるといったのである。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 15:26−16:15)
これらは キリスト・イエス自身のことばであり 詰まり 倫理に属していない。かえって謎を濃くしたかにみえるが 吉本隆明は 好く捉えるとするなら このような非経験の世界を展望しようとしているのだと考えられる。
さらなる追記の必要を思う。
天使の座を示すと思われる原文例
空中の権能も擬装しうる天使の座を示唆していると思われる文例がいくつか見受けられるので 掲げておこう。
おおよそ キリスト教的な《倫理》がおわるところから 人間の《倫理》を出発させればよいのではないか。生身の人間ができないことであるなら まず 観念的に対象化し 固定させてしまえばよい。そして そんなことは実行不可能な空想だ という文句が出ない前に 体験の種あかしを あとからつけ加えておけばよいのだ。
(書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.151)
《生身の人間には不可能なことだが 観念的に対象化する》 これが ひとつの前提内容だと思われる。
次の文章では 括弧つきの《人間》を 天使を読めばよい。
・・・じぶんを人間からきり離された《人間》という場所におくこと・・・。
ロートレアモンは じぶんを人間から類別された《人間》という場所に追いあげる。そこは人間を《人間》が眺めることができる場所である。
もちろん 人間は 《自然科学》的にか あるいはじぶんを棚上げするという方法で 人間を《人間》が眺める場所にたつことはできる。しかし ロートレアモンの場所はこのいずれでもない。じぶんを人間から類別しても じぶんもまた《人間》であるという場所なのだ。
この場所では じぶん以外の人間は《他者》として映る存在ではなくなってしまう。あたかも 人間が《鱶》や《鮫》や《蚤》を眺めるように 人間を眺めるという視座にたつことを意味している。・・・
(同上 p.152)
よく天使の座をあたかも表現している。(キリスト信仰の天使のことであるかどうかは 別として。)次の表現も捨てがたい。
人間の《倫理》は 他者との個的な あるいは共同的な関係から発生する。しかし ロートレアモンは 《他者》との関係としてのじぶんという位相を捨ててしまっているはずである。それならば 通常いうところの《倫理》も《反倫理》もロートレアモンにとっては成立しないはずである。《善》だとか《悪》だとかいう倫理的な概念は 具体的な個人とか 現実の共同社会とかを背景としてはじめて成立するものである。そうだとすれば ロートレアモンにとっては《善》だとかその反対概念としての《悪》だとかは無意味でなければならない。・・・
ロートレアモンによれば それは(=《人間にとって本来的な〈倫理〉》は)いまのところ《歌》によってしか指し示すことができないような何かであった。
・・・
この本来的な《倫理》によれば 人間はただ人間であるということだけで 決定的な《悪》である。
(同上 p.153−155)
最後の一文で《本来的な〈倫理〉によれば》は あたかも《天使の視座から見れば》という恰好となっている。
(つづく)