caguirofie

哲学いろいろ

                  第一部 第三の種類の誤謬について

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補論

10 《いと高きところ》とは・・・

ジャン・ジュネ》の章からあらためて――《関係 / 死 ゆえに生 / その根拠》などをめぐる――議論を起こしたい。例によって 途中に批評をさし挟む。

《書く》という行為は密室の作業である。

  • 《精神の秘所 / 心の奥の院》といった意味で 《密室》というなら われわれも同感である。――引用者。以下おなじ。

そして 《書く》ことにいつまでも固執すれば やがて密室の扉のむこうに また密室がつくられる。

  • これはありえない。もしくは 意味がわからない。人が その精神の同一に留まる限り そしてそのおおきな意味あいにおける限り さらに扉があって別種の部屋にみちびかれるとは思えない。
  • しかし何なら 密室の扉の向こうには われわれの精神を超えた存在が 或る密室のさらに奥なる座のように見えてくることもあるのかも知れないと言っておこう。

その挙句に連れてゆかれるところは どこまでいっても際限のない密室である。

  • と言うのは――その内容・実情がいまひとつわかりかねるが―― ひとつの見解であろう。

この作業にはどんな比喩も可能ではない。《坑道を掘りすすむように》《観念の迷路をゆくように》《黄泉への暗い通路のように》というような《直喩》を どんなにならべてみても 《書く》という行為は これらの比喩によっていいあてられない世界に属している。

  • 先ほどの一見解によるこの表明は なにか《物書き》ということを 特殊な人間の才能のように〔その限りでは そうであろうが〕 固定視しようとしているとしか思われない。それはまず無意味だ。

そのうちに この世界全体がかれのなかで転倒してくる。

  • 初めの一見解の・その限りでのひとつの必然的な結果だ。

《書く》ときにだけ生きている実感があって そのほかのときは生きていないたるみ(弛み)の実感しかないというように。この状態が《死》と同義でないことはたしからしくおもわれる。かれは死んでいないのだ。では 《生きていない》という状態はなにを意味しているのだろうか。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) 〈ジャン・ジュネ〉――〈風景〉p.106)

もしこのひとつの見解に あの関係の絶対性の世界において お付き合いを続けるとするなら 次のように《沈黙しない》ことを示さねばならぬ 神の愛の佑助を得て。つづいて

この問いには応えにくいところがある。

  • 初めの一見解をみづから吟味することが 理論的作業だ。しかし ここではもはや それを既定の大前提として 議論が始められると言おう。かれの議論は――光に触れ得た見識が表わされるとともに――日常経験の部分的なことがらに及ぶときには 得てして 堂々巡りになるとすでにおことわりした。

かれは確かに喰べ 排泄し 口をきき 生活している。かれは稼ぎ 巣を作り そして他者との関係づけをやっている。

  • ほんとうは この現実世界と 先の《書く》という行為の世界への一見解との対応が問い求められてしかるべき。

しかし これはいったいなにをしているというべきなのだろうか。

  • 次には そのなされてしかるべき対応と吟味がある。あたかも かれ吉本の言う《密室の作業》としての《〈書く〉という行為》の側から。

つまり かれは《生きている》と自覚しているか 《生きていない》と《死》との中間状態に浮かんでいることになるのだ。

  • この《中間状態》を 《生きている》の側から見ることが問題なのだ。吉本は 逆を行なっている。もしくは 両者を区別しつつ 同等・同列にみなしている。

この中間状態は すべての倫理 意味づけ そして価値感(《感》は原文のまま)が《中性》である状態といっていい。

  • 《密室》という語の意味を 冒頭に示したようにわれわれのように解するなら たとい吉本の認識が正しいとしても この《中間状態》《価値感が〈中性〉の状態》が まず 基軸とはならないであろう。認識の一基軸になったとしても 現実の基軸や核とはならないだろう。この領域へとわれわれは からだごと 連れていかれるというのではあるまい。

そしてここに わたしたちが《日常》とよんでいる状態の核がかくされている。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.106−107)

  • 《生きている》《日常》・現実の《核》は われわれは そのような密室状態のさらに秘所なる状態であるとは考えない。これが まず一点。むしろこの倫理中性の領域をとおして その核はこれをなんとかして見ようとすることはあっても そこに《かくされている》ものではなかろう。つまり視点の方向が逆だと考える。
  • けれども 仮りにこの《〈日常〉とよんでいる状態の核》が われわれの存在の根拠(その意味での神)であったとした場合を考えておかなければ批評にならない。しかしそうであったとしてもわれわれは この《核》に寄り縋ることはあっても(これは粗雑な表現であるが) いまその神の顔を見たとは言えない。まずこの条件をつけなければいけない。
  • 《かくされている》と吉本は表現している。《書く》作業に携わる人びとは 自分たちの知解行為が ある種の神体験にまで及んだと言おうとしているのかも知れない。そこで確かに獲得された見解であるとした場合 ただ だとしても そこから表現されてくることがらは まず基本的に言って どうしてもわたしには 承服しかねるものである。――
  • 密室の作業だと考えられる《書く》行為をつうじて さらに奥の密室の扉が開かれていくと ときに《〈生きていない〉と〈死〉との中間状態に浮かんでいることになる》という。この中間状態は《すべての倫理 意味付け 価値感が中性である状態》であり じつは《〈日常〉とよんでいる状態の核》であるという。このとき この核はかくされていると表現しているので 単純に《神》の想定につながる場合があるととらえ これを吟味する。
  • もしこの《日常の核》が物書きに与えられた神体験の結果得られた見解だとした場合 しかし人はそのとき このわれわれの存在の根拠を 愛し 愛してなんとかして表現において自己あるいは他者に指し示そうとすることはあっても だから同じことで言いかえると その核への道をみづから問い求め それをどう問い求めどこまで到達したかを 《生きている・日常》の世界で 表現することはあっても このいわば天使としての見解のまわりを もったいぶって徘徊する気遣いはない。
  • 吉本の次につづく文章をわれわれはすでに先取りしているかもわからないが 重大な問題が横たわると考えているところである。
  • われわれの存在の根拠であるという場合には その核への愛あるいは神直視を 吉本は先取りして論じ進んでいるのだと捉えられる。先取りしたことがらは 間違っているか あいまいである。曖昧であることのほうが 危険は大きい。遠隔対象を求めるこころと精神の伸びが 中途半端に終わることの弊害である
  • また わたしの見るところ 吉本のこの議論の姿勢を見るかぎり それは 《生きていない》と《死》との中間状態に――それはここで言う物書きの世界に――自己を閉じ込めることを意味する。これはまた 一方で 大きくは天使(神のメッセンジャーである)の作業でもあり 他方では しかしながら 神への礼賛(つまり 人間なる自己への愛)では必ずしもなくて 中間的な天使の礼賛を意味する。天使への礼賛は 自己への愛であるか人間への愛であるかあるいは何への愛なのか はっきりしない。永遠にはっきりしない。
  • われわれのいのちは 存在の核を告げる天使(確かに告げる存在だ)にではなく 存在の核じたい(神 その力その知恵)に潜む。かんたんには《価値感が中性の状態》という表現が いわば《天使》のことを表わしている。だから この天使の領域をあつかって 核なる神の国の周囲を徘徊する。というべきではあるまいか。

中断したかたちになったが 吉本の文章は続いている。

文学は《書く》という行為を核心としているために この《中性》の状態を忌むことになる。とくに初期ではそうなる。文学はなにがなんでも《生きたい》のであり そうでなければ 《死にたい》のだ。

  • そのとおりだ。

そのために 当然 《生きていない》と《死》との中間状態にたいして いつも確固とした見解を要求されるといってよい。

  • そのとおりだ。

きみは この中間状態をどうかんがえているのか? 《生きていない》のなら どうして《生き》ないのか あるいは 《死》なないのか? それは怠惰のためであるのか 怯懦のためであるのか? あるいは習慣からか?

  • 中性的な《天使の礼賛》は 書くという行為が 《やがて密室の扉のむこうに また密室をつく》ってしまうとき この天使の存在を欲するのではなく 天使の能力を欲するがごとく この中間性から もっとも高きところへ・しかしいわゆる日常性の動物が悦ぶもっとも低きところへ 堕ちていってしまうことはありうることをわれわれは 知っている。次が吉本のひとつの解答である。

こういうときせき込んだ問い詰めにたいして 始原状態の文学は ひたすらうろたえる。

  • われわれはむしろ 後続の第二次状態の文学がだと言うであろう。――後述。

もっとひどいばあいは弁解する。《生きる》ということは いずれにせよ そんなにラディカルなせき込んだものではない きみにもやがてそれが判ってくる年齢がやってくる というように。

  • わかってたまるかとさえ この《もっとひどいばあいの弁解》に対して 言っておくべきであろう。しかしわれわれはかれらの策略を知らないわけではない。《祖国》を先取りした地点から ものを言っているのである。

しかし問うものはけっしてそんな弁解では納得しない。

  • 納得するかしないかの問題ではなかろう。《問い詰め》は 文学行為という生きること自体の問題にかかわっている。時間的・偶有的・どうでもよい経験世界であるから ラディカルになりうる。弁解の納得ではなく 経験の納得を要求している。

できるならば生存しているかぎり 《生きていたい》とかんがえ そのためには極度の自己の 《生》を凝集させようとせき込み

  • せき込んだ結果は むしろ吉本のものであろう。《祖国》を掴んだと思い込み この若いせき込みは すでに卒業しているのだと確信しているようである。

ほかの部分は削除してしまいたいと意欲し

  • われわれは 《ほかの部分》〔としての鉄格子の世界〕にいま寄留していることを知っている。

その意欲を実現するためには どんな奇怪な倒錯も辞さないとおもっているものにとって 《生きていない》と《死》の中間状態は とうに抹殺されているからだ。

  • われわれは 抹殺せず これを《天使の領域》と見 これをもとおして 現実に生きたいと言っている。これを放棄することはできない。――逆に 《抹殺された》ものがそこにあるとするなら それは 《天使の領域》としての中間状態ではなく 人間のただ自己〔の中心性〕という中間状態である。《抹殺》ということばは 不似合いだが この世〔の自己・とくに旧い自己〕を死せるものと評価することはありうるという意味で 初めの文学の出発者は この中間状態をたしかに抹殺していると言ってよい。また人は 人生の或る事件のあとでそのことが わかるのだ。

わたしならば ひとまずこう応えるかもしれない。《生きていない》と《死》の中間状態だけが たぶん人類が長い歴史時代をとおして保存せざるをえなかったもっとも重要な状態なのだ それだからこそこの状態だけが《いと高きところ》におかれるに価する というように。

  • これへの批判はすでに為した。
  • つまり このばあい吉本は 中間状態を 天使の領域と把握しているのだ。しかし 存在の根拠を告げる者(人間の精神においてであろう)と 存在の根拠じたいとは異なる。後者は 人間(肉)であっても 前者に勝ると。つまり 中間状態よりも 生きているの状態のほうが とうとく より一層たかいところにみちびかれる。

この応えは もちろん せき込んだ問い詰めを納得させないだろうが しかし 問い詰めるものへの問い詰めを含んでいる。

  • 《せき込んだ問い詰め》に対しては あるいはそうかも知れない。

きみは どこに《いと高きところ》をおいているのかを開示してみせなければならない きみの怠惰も資質も才能も赦されはしない ただ きみはどこへゆこうとするのか どこに《いと高きところ》をおき なにによって登高しようとしているのかを応えなければならない というように。

  • 吉本隆明が 《いと高きところ》に置くそれが誤謬でないことは それではどうして判るのか。《人類》は 生きていないと死との中間状態をこそ はたして いと高きところへ置いて生存してきたのであろうか。
  • われわれも《存在の根拠》を はいこれですと示して見せるわけには行かないし 《存在の根拠》の理論的な根拠を すべて論証しうるとは思えない。しかし まちがった《いと高きところ》に存在の根拠を置く見解に対しては 明確に議論を挑まなければならない。あるいは まちがった存在の根拠をいと高きところに置く見解に対しても 警戒しなければならない。なぜそれらが誤謬であるか これについては いくらかを説き示すことが出来る。いまおこなっている。
  • かれらは 《せき込んだ問い詰め》と《あたかも問い詰めを終えたがごとく中間状態に浮遊し停滞するかれら自身》との関係しか この関係の絶対性の世界に見てはいないのだ。かれらの頭には それしかない。若者のせき込んだ問い詰めが――つねに世代の交代として――ある限り かれらの物書きとしての仕事はなくならないであろうと信じるように。ここには 存在はあるかもしれないが 存在の根拠〔の問い求め〕はない。《いと高きところ》はどこにもない。せいぜい 人間は 他の動物とはちがうのだから 人間という最高の動物なのだと言っているようである。

もちろん 問い詰めるものへの この問い詰めも 応えを期待することはできない。応え自体が《生きていない》と《死》との中間状態を許容するか あるいは《死》にいたるかの何れかを要求しているからだ。

  • これはそのまま 自己の解体つまり 自滅を それを超出させるかのように 述べているとしか思われない。そのほかに はじめに《生きている》の状態があったではないか。

このような問いにたいして ジャン・ジュネの中核にあるのは 自己の《生きていない》と《死》との中間状態を《風景》とみなすこと という応えの世界である。ジュネの《盗み》《放浪》《乞食》《殺人未遂》《男色》・・・これらの常習性には背徳の匂いも悔恨も 倫理への憧憬も 社会へ復帰する願望も存在しない。ただ これらの汚辱は《生》の 中間状態にある自己を《風景》とみなしたときの点景のひとつひとつなのだと考えられているようにみえる。

  • かれらは 自己の密室の領域 これに対するかれら自身のはじめの見解 これを 絶対的な大前提とする以外に 《書く》ことはできない。この中間状態の領域に かれの魂 きみの魂を引き込むのだ。《中間状態にある自己を〈風景〉とみなしたときの点景のひとつひとつ》が ジュネの文学であったなら かれは この《風景》が――中間状態であるからには――どのように《いと高きところ》へとつながっているのか あるいはまた 地上の生きている日常とどうつながっているのか これを考えたはずである。
  • ここでの著者・吉本は この論考をそのあと行なっていないのではない。ただ 結論を先に言ってしまうなら かれは この自己の中間状態(これを 《いと高きところ》だとするのであるから やむをえないのであるが)から 他者の〔文章の中の〕やはり中間状態をしか見ない。また それで事足りるであろうとも言う恰好である。だから ほかの人びとの魂も すべてこの空中に浮かぶ一領域に ねじり入れるように取り込む。この中間状態から 帰るがごとく なぜ生きないのかの問いを すでにねじり伏せてしまったからである。ジュネの悪行の《常習性には背徳の匂いも悔恨も 倫理への憧憬も 社会へ復帰する願望も存在しない》とたといしても だからジュネが《生きよう》としなかったとは断定できないはずだ。してはいけないのではないか。以下 例証すべきであろう。

書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.106−108)

11 天使は 人に仕えるもの

吉本が次のように言うとき それは 正しい。

〔ただ〕頓馬たちは 日常性の反対概念が非日常性であり 日常性の抹殺が非日常性だと錯覚している〔だけである。〕日常性のなかに非日常性を 非日常性のなかに日常性を 《視る》ことができないとすれば この世界は《視え》はしない。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.117)

  • 《日常性》は《生きていること》として 《非日常性》は《〈生きていない〉と〈死〉との中間状態》としてそれぞれ読んだ。
  • そのとき 条件節の意味は 《日常性のなかに・そして非日常性をとおして 地上の状態でもなく中間状態でもないわれわれの言う《いと高きところ》が 存在し 見られるというべきだが それが出来ないとすれば》となると考える。

しかし 吉本は もっと初めに開示しているべきであった。しかし この視点のここでの開示が 《核》に当たらないかのごとく または当たってもただちにその周辺なる中間状態に帰るがごとく――なぜなら この非日常性なる中間状態を いと高きところに置いた結果だが―― そしてすぐに続けて 《〈視え>ない存在はどこへゆくのだろう?》などという疑問を投げかけているように この視点の展開はこれを為し得ず この視点(一種の原理)の一段下の領域 空中の浮遊する状態へと 自己およびいま論じる対象(ジュネ)をいとも簡単に連れ去ってしまう。
かれは ジュネから文章を一節引いて その注解をおこなう。われわれも この注解の批判的な注解をおこなうことによって 論議を進める。

終身懲役のことから聖性を語り出したのでは すっぱい糧に不馴れなあなた方にさぞかし歯ぎしりをおさせすることでしょう。でもわたしが生きている生活も 教会と寺院がかれらの聖者に要求する地上の事物にに対するあの諦めを同じく要求してやまないのです。

  • 囚人ジュネの文学は この一文からも明らかであるだろう。つまりかれは このように<生きている》。

それにこの生活は 夢幻に対する窓を無理にもこじ開けて見せてくれます。それにまた聖徒というものは 次の事実によっても見分けられます 即ちそれが犯罪の道によって天国へ導いてくれるという事実です。
ジャン・ジュネ:《薔薇の奇蹟》堀口大学訳。ジャン・ジュネ全集

もしも 地上の《聖者》が天上への通路をみつけるために さまざまの地上的な欲望を《諦め》なければならないとしたら

  • これは もしそのようであるとしたら それは かれが 能力によってそれを為しえない(つまりその意味で《諦める》)のだと言わなければならない。これが キリスト者の《生きる》道である。繰り返そう。《天上への通路をわざわざ自分の努力で見つけるために 地上の欲望を慎む》ことは 信仰の道筋ではない。そうではなく 信仰が与えられた・すなわち表現上 天上への道が知らされた このゆえに地上の欲望は慎むようになる・そういう能力も人それぞれに与えられるということである。――そうであるとしたら

このことの本来的な構造は 人間が 《いと高きもの》に祭りあげた自分自身に出遭うために 大なり小なり《現実》にたいする自己を統制することが必要ということに帰せられる。

  • それは 敢えて言うなら こう《帰せられる》とする見解を別として 《自己を統制することが必要ということ》にはならない。誰も 《能力によって為しえない統制(その意味での統制)》の前に 《現実に対する自己の統制》を為しえないから。必要・不必要というのは 人間的な次元・人間的な尺度で 人間もしくはあの中間状態の思考が 考えるのである。
  • 聖徒たちの信仰 つまり キリスト史観は 倫理ではない。むろん かれらの存在・生は 倫理を含む。ないし 現実の倫理のなかに生きているのではあるが。

人間はもともと地上と天上をもっている存在だから

  • だれが そういうことを言うのか。《天上》とは何か。それはあの《中間状態》ではあるまいに。《〈神〉とは自己意識の上限にしかすぎないし 〈神への怖れ〉とは 〈天上>へまで延びた自己意識にたいする自己の怖れ以外のものではありえない》と吉本は言っていた(§1)。――しかし もともと地上と天上をもっている存在だから

だれでも現身を地上に 観念を天上にあずけて生きている。

  • これは 正しくない。このような《現実に対する自己の統制(把握)》は 中途半端な《風景》の点景でしかありえない。《地上の現身が 時間的に 天上なるわが身として導かれることを欲する 正当にも欲する》といわれるにすぎない。
  • 人は 《観念》を必ずしも現実だとは思っていない。中間状態の《観念》は あちらから天使によって(それは本を読むことをとおしてでもよい) 告知されるにすぎないし ここに存在の根拠はおろか 現実がそのまま見出されるとは言えない。あちらから選ばれて 自己の能力によって為しえない自己統制の時間過程を与えられるのだ。

ただこのばあい天上にあずけた観念は《聖化》することができないだけだ。

  • そのとおりだ。《聖性》が 予感によってであれ 見出されるのは ジュネの獄中生活をとおしてにしろ 現身の知恵が試練を通過することによって 能力となって与えられた結果である。
  • そしてなんなら人は このために信仰を保持し 信仰によって清められずには この存在の核を見まつることはできない。《心の清い人は 幸いである。かれらは 神を見るであろう。》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書 5:8)《観念を天上にあずける・預けない》とは別の次元が存在するのだ。

この自己観念を《聖化》するためには 現実的な触媒がいる。これが宗教者の精進の構造である。

  • この《宗教者の精進の構造》とは 比喩である。《わたしが生きている生活も 教会と寺院がかれらの聖者に要求する地上の事物に対するあの諦めを同じく要求してやまないのです》と服役者ジュネが語るとき かれが《宗教者》でなかったとは言えない。他者の魂の平安を 誰が厚かましくもなお あの空中の中間状態の浮遊へと 強引に連れ込むであろうか。あるいはどうして その状態の視点から 断罪できるであろうか。

書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.124−125)

だから これらはすべて 観念の遊戯である。きみよ 原点たる視点(日常性のなかに・そして非日常性をとおして いと高きところを見る――ふたつ前の引用文)を保持したまえ。この周りを 自己の中心性によって うろつくことなかれ。しかし もしきみが この原点を見たのなら きみはすでに神に知られたのである。この形相に 寄りすがるがごとく 固着せよ。たとえ背徳の常習の中にあってもである。いまの身分を去らず 聖霊によるキリスト・イエスバプテスマを受けたまえ。ここには しかし 《宗教者の精進の構造》があるのではない。(それは ジュネが《精進》しつつ 犯罪と監獄生活を送ろうとしたのではないように。)ただそこには われわれ時間的な存在の その存在の根拠を問い求める 心清らかな呻きがあるだけだ。
人は これによって 魚が網に捕らえられるごとく すくわれるに過ぎない。このすくいを きみよ どうか信じてください。あの中間状態の光(理性)によって それをとおして 知解することを問い求めてください。いまはまだ――視力の弱いわれわれは―― この光の源を内なる眼でも見ることは出来ません。その試練をともなった愛 《愛》による試練に われわれは耐えることが出来ません。しかし きみは 人を愛させよ。そうしてそこでも あの《存在の根拠》の知解は かなわないでしょう。しかしきみは この愛を見るなら 鉄格子の世界の中でこの愛に捕捉されるごとく固着して愛を見るなら すでに神を見るのです。これ以上に明解な 人間という書物の建築学はないようにわたしには思われる。また 論証することに努めたというよりは さらに批判を受けて誤りを指摘されたいと思うことに努めた。この窓はちょうど吉本氏も開けているというように。
人はどうか このわたしの論考を疑ってください。なぜなら 疑っているということ自体は あなたの存在自体であると考えられるからです。しかし これを考えるところに その思考じたいとして 自己が存在するとは思わないように。疑いと思考という呻きじたい やはり人間の現実ではあるのですが 吉本氏からもそうされたように あなたは《いと高きところ》をどこに置くのかと それだけでは まだつねに 問い返されるでしょうから。ですから どうか 疑いを続けてください。 《書物を書くことよりは読むことに専念したいということを どうか信じてください》とわれわれの現身が ささやき叫ぶともしするなら。その上で そのあなた方の中から もし才能を得て 《書くという行為》 あの精神の秘所たる密室にかかわる作業におもむく人びとがいるなら おおいに力を発揮してください。書物の解体学を続行しつつ あの愛の建築学を遂行するために。きみよ どうかここから出発されんことを。


さて最後に 結びの言葉として パウロアウグスティヌスからそれぞれ 一節づつを採って掲げた。はじめに 《ヘブライ人への手紙》からの引用は あの《天使》が何であって何でないか これをくどいように あらためて確認しておきたいためであり 《三位一体論》からの一節は――したがって この天使に対するわれわれの正しい立場を受け継ぐようにして―― われわれの基本的な姿勢が語られているように思う箇所である。後者の文章に神学・信仰の言葉が含まれていようとも その《宣教という愚かな手段》(パウロコリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 1:21)の枠組みをさえ はずして(《文字は殺し 霊は生かす》(コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:6)から) 読むことによって われわれの現実をわれわれが内面へ向き変えられてのように 思うべきである。

また〔神は〕天使たちにかんしては

神は その天使たちを風とし
自分に仕える者たちを燃える炎とする
詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 104:4)

と言われ・・・ました。〔しかし〕
・・・
神は これまで天使のだれかに向かって

わたしがあなたの敵を征服して
あなたの足台とするまで わたしの右(《いと高きところ》)に坐っておれ。
詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 110:1)

と言われたことがあるでしょうか。天使たちは皆 奉仕する霊であって 救いを受け継ぐことになっている人びとに仕えるために 遣わされたのではありませんか。
(ヘブル書 1:7 / 1:13−14。ヘブル書・ヤコブ書 (聖書の使信―私訳・注釈・説教)

  • 《遣わされた》のなら その天使たちの高みよりもっと高いところに 《いと高きところ》はあるはずです。天使angelosとは 使者という意味であって 遣わす人から聞いて知ることでないなら その告知すべき内容の何をかれらは 保持していると言うべきか。《中間状態》は まさしく中間の状態へと帰すべきです。

謙虚の模範を与えるため かつわれらに対する愛を明らかにするため 神がわれらのために人間として造られたことを私たちが信ずるとき 私たちの思念はこの知識によって形成されるのである。
神は謙虚にして婦人から生まれ死ぬべき者たちから多くの恥辱を受け 死にたまうたのであるが この謙虚こそ私たちの高ぶりの腫脹を癒す最高の医薬であり またそれは私たちの罪の縄目を解く尊貴なる秘蹟(sacramentum)であるということを信じ かつ堅固不動なものとして心で保持することは 私たちのとって有益である。
かくして 私たちは全能とは何かを知るゆえに 全能なる神について 神の不思議な業と復活の力を信ずる。
そして本性に生得のもの あるいは経験によって集められたものであれ 事物の種的・類的な知識によって 私たちは この類いの出来事について私たちの信仰が虚偽ならざるように思惟するのである。
アウグスティヌス三位一体論 8:5〔7〕)

最後の一文は われわれの広い意味での日常生活のことにほかならない。いと高きところを中心として表現しているというに過ぎない。

(つづく)