caguirofie

哲学いろいろ

              第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

補考

8 さまよえるアハスウェルス??

かれらはかれらの出来る範囲で 創造主の永遠性――私たちはこの創造主においてこそ生き動き存在する(使徒行伝 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 17:28)――を知解した。かれらは 造られたもの(時間的なもの)をとおして神を知りつつも神を神として崇めず また感謝せず 自ら賢者であると称しながら 愚かなものにされた(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 1:20−22)。
アウグスティヌス三位一体論 4:17〔23〕)

この漂泊の魂は 彷徨えるユダヤ人 アハスウェルス*1とよぶにふさわしい。

  • その女性版は たとえば空蝉だと思われる。源氏物語の空蝉である。しかるべき振る舞いを心がけつつ 自らの意思決定が迫られているときには判断中止の状態になる場合である。《関係》から身を退くというよりも そもそも関係の外にすでに位置している。

吉本隆明書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》から 第二論考《モーリス・ブランショ》の第一章《死》を取り上げたい。

《夢》のなかで不可能が象徴されているように《死》は 他者の《死》よりほかに目撃することができないし 自己の《死》は他者によってしか体験することができない。

  • 《関係の絶対性》は なにゆえであったか。しかし――(引用者。以下同じ。)

かりに体験できたとしても体験の終り としてしか体験することができない。

  • これだけでも 《死》つまり《生》は 人間にとって現実であると実際には言いうる。しかし――

これは一般的にいえば だれでもわかりきったことにおもえるが 本質的に問いつめてゆくとあまり手易い問題でないことがわかる。

  • そのように 著者みずからが 問題を故意に設定している。自らの誤謬へわたそうとかかるかのように見える。つまり――

何といっても かつて自己体験したこともないもので つねに可能性をもっており しかも個体にとっては一切の終りとみなされるという矛盾をはらんだことについて いったん問いを発したうえは はっきりとこたえなければならないとしたら 困難なのは当然である。

  • たしかに 困難だ。

ブランショは文学的な自問のはじめにまずこの《死》をリルケに則してとりあげ こたえをつくる過程でリルケを深く読み変えている。
・・・
ブランショの《死》へのこたえは すべて出揃っている。いくらかわたしの言葉で反訳してみればこうなる。
《死》とはまず《観念》である。するとじぶんの身体の《死》は体験できないとしても 《観念》としての《死》は体験することはできる。そのためにじぶんの《死》を じぶんの外へとそらせることによって対象化するよりほかない。そのときあらわれる《死》のすがたは 大なり小なりじぶんの 《死》(死体あるいは死人ではない)を意味している。なぜ《われわれ》は死を忘れることができるのか。それは《われわれ》の観念が《死》にたいして《放心》しているとき拡大できる 《観念》の世界の総体は 《観念》としての《死》よりも もっと遠くまでゆくことができるからである。
《死》が一切の終りだというけれど このばあいの《観念》の《死》はなにを意味しているのか。高々 個体の身辺を離れずに凝固してしまう世界ではないのか。

  • そうではない。しかし――

《観念》としてならば 人間の世界は 《死》のむこうへも しばしば超出しているとみなすことができる。

  • この可能性〔の指摘〕は 何も物語らないであろう。

この超出された世界(――ああ 人はこの視点を避けよ――)から あらためて 《死》をみてみれば 《死》はたんに曲り角のひとつであり 結節点であるにすぎないともいえる。

  • 鉄格子の世界が まったくの平板であって 生の 死との間の時間的存在が 金太郎飴のように 凡庸不変だなどと思うなかれ。

ブランショの読み変えにもかかわらず 《マルテ》にあらわれる《死》は いわば主観的な覚悟性ともいうべきものに帰せられる。《死》はいつも 《生》とともに 主観的な覚悟として存在しなければならないのは確かだとしても

  • それだけで なぜ いけないのか。

高々品位や追憶がよび醒ました慣習にしかすぎない。

 (pp.81−84)

まず吉本の文章(認識)は 本質的に延々とつづくと言わなければなるまい。
《死が 主観的な覚悟性である》なら それだけでよいではないか。

  • もちろんそれは この第一の直観から始まって それがより豊かに省察され論じられても行くという意味においてである。

《高々 品位や追憶がよび醒ました慣習にしかすぎない》であろうがなかろうが この直観から出発することが問題ではないのか。出発点を まず提示し いくつか掲げ しかし次にはこれを否定してみせる そうしてその原点の回りをつねに徘徊する魂 これは 人間の寛容の及ばないところだと考えられる。

  • 要するに コミュニケーションが取れないということである。

《本質的に問いつめてゆくとあまり手易い問題ではないとわかる》その出発点(テーマ別に複数である)から 自己がどう進んだか どこまで到達したか これを著わすことが 問題ではないのか。
《死》のテーマについてさらに吉本が次のように議論をすすめるとき それは かれが自己を進めるのではなく 自己の漂泊する魂をなぞらえようとしていると言ってまちがいではない。リルケに対して ハイデガーを出し ブランショは 両者をかれなりに綜合しようとしていると論じ進む。

・・・それならば《死》は気まぐれに とある日 人間をおとずれる《可能性》であろうか?・・・ハイデガーはこの問いにたいして 《死》は突然ある日 または徐々にある日 人間をおとずれる気まぐれではなく 人間(現存在)はすでに実存しているときに かれの《死》に引き渡されており またそのために《世界・内・存在》に属しているものとかんがえるのである。そこから《先験的覚悟性》というハイデガーの中性的な倫理があらわれる。《先験的覚悟性》は 人間が《死》にたいして覚悟を固めなければならないという概念ではない。《死》にたいする覚悟性は すでに人間が生まれたときに 可能性として存在していたものであり ただ《死》にたいしてまぎらわそうとしなければ足りるものだということを意味している。リルケの《死》や《不安》はそうではない。主観的な覚悟性であり だから いつも《時間》をともなってあらわれる。・・・
ブランショは《死》の概念をハイデガーから借りて リルケを理解しようとする。ブランショによれば《死》はいつも《わたし》の生を喰ってもっとも内実のところで生きているものである。あらゆる自覚と意識の背後には《死》がある。そして放心しているときにだけ《死》を追い越して生きていることがありうる。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.85−86)

ありていに言えば 吉本はここで リルケハイデガーそしてブランショの 《死》のテーマに対するかれらそれぞれの自己の弁証 つまりそれぞれかれらの魂を 自己(吉本)と同じ漂泊する魂としている。まるで これらの魂の饗宴の場が――また それゆえに よりいっそう説得的であるかのように――そこに実現しているかの感を一見与える。概念の分類 その認識じたいには そこに実体(意味)があると言わねばならぬ。(そうでなければ ここで取り上げる意味がない。)それをありもしない架空の場に引き込み そこに自己がおるとし その魂の高きを享受していると言おうとするものなのである。しかしこれは 出発点から進もうとするのではなく その周囲を――もちろん時には 出発点に当たりつつ―― 空虚な思弁によって埋めよう・徘徊しようというにすぎない。かれは ここで その埋め尽くした情況・その証拠を示せれば 自己の弁証が成ると信じ込んでいる。魂を取り戻しうると信じて栄光の堂々巡りを敢行している。
ところが この作業(知解)は まったく不必要なことだ。それ以上に 誤謬に満ちている。ありもしない場所に――もしくは まったく疑義を生じることなく いわゆる物書きという一つの想定された場所に―― はじめに 自己を設定しているからだ。
これでは 百科事典のように知識を整理して提出することはできるかもしれないが 言いかえると 《〈表現されたもの〉と〈表現したもの〉と腑分けして》 そのような概念としての実体を あたかも料理するかのごとく 提示することはできても またそうして 書物の解体学はなるほど進むかもしれないが それは 自己という書物も すでに初めに解体されていることを物語るほかのことにはなるまい。
われわれは この微妙な問題には 微妙なかたちによってしか いわゆる内在的な批判を為すことはできないと 考えた。言われている個別的な内容は 正しいと思われるのである。しかし 徘徊しつつ 漂泊しつつ 正しいのである。
この意味で――なお原理的な観想にわれわれは逃れなければならないと言ってのように――次のふたつの認識は正当にも述べられるべきであり そのうちの後者から一般の知識と知恵とが汲み出されるべきだ。

したがって 人間は自分の中心点

  • また中間点としての自己自身。つまり その設定としては ありもしない場所としての・もしくはありうべき位置の前段階ともいうべき場所としての 自己

をとおしてでなければ どうして最高のものから最低のものへかくも遠く移り行くのであろうか。常に同一に留まる知恵の愛を無視して 可変的・時間的なものの経験から知識が欲求されるとき 知識は膨れ上がり 徳を建てない。かくして 重圧された精神の力は いわば自己の重さ(重さとは 意志である)によって浄福から放逐され 自己の中心性の経験をとおして自己の罰によって 自己が捨てた善と犯した悪との間にある径程を学び知り そして悔い改めへ召し罪を赦す その創造主の恩恵によらないなら その力は弛緩し失われているゆえに 還り得ないのである。われらの主イエス・キリストによる神の恩恵を他にして 誰がこの悲惨な魂をこの死の身体から解き放つであろうか。(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 7:24−25)
アウグスティヌス三位一体論 12:11〔16〕)

  • この主観 なんなら《主観の覚悟性》をここに提示するのは しかし 論証的な精神による ただ沈黙しないがための 立言にすぎない。神の恩恵は その恩恵が与えられるとともに むしろ観想的な精神によって 生きた主観の中に持たれるべきである。だからいま 吉本批判は ただ沈黙しないがための立言をおこないつつあるにすぎぬ。沈黙は承諾であると受け取られることを嫌うべきである。

かれらは自分自身の力によって浄められると高慢にも主張するが その理由はかれらの或る人は精神の眼ざしを被造物全体の涯にまで到達させ 変わらざる真理の光にたとい小部分であっても触れ得たからである。そこでかれらは現在 信仰によって生きている多くのキリスト者は まだこのようなことをなし得ないのだと嘲笑する。しかし 不遜な人にとって また このゆえに木(十字架)の船に乗るのを恥じる人にとって 遠くから海を越えて存在する故国を望みみることが 何の役に立つであろうか。逆に あの不遜な人がそれで運ばれるのを軽蔑する木の船に乗って

  • 十字架上で われわれの古き人も キリストとともに死んだのだとわれわれは言おうとしている。そのように おしえられる。だから 死のテーマの原点は ここにあるのだと言おうとしている。 

祖国に行く謙遜な人にとっては このように遠くから祖国を見ないことがどうして不都合であろうか。

  • だから 百科事典の 航海図というよりは 目標像の提出と了解は 不可欠の必要物ではないであろう。しかし リルケ ハイデガー ブランショは それぞれ自己の航海図を著わそうとしたのだ。それらの饗宴を差し出すことは また饗宴そのものは悪いものでないとしたら 自己をありもしない場所から 言いかえると 航海の目標地点を先取りするかのごとくその場所から 航海を仲介しようとすることは そのやり方じたい 誤謬に満ちている。《関係を拵えあげることなど出来ない》からだ。

アウグスティヌス三位一体論 4:15〔20〕)

このわれわれの論争の挑みが この最後の点で 主観の域を出ないことは 百も承知である。見解の相違として もしくは嘲笑がさらに大きくなるかもしれないことも 承知していないわけではない。ところが これに沈黙していることはできない相談である。《私は 書物を書くことよりは 読むことに専念したいということを どうか信じてください》と われわれの魂が述べているとするからには つまり われわれは 吉本の書く書物を読ませられることを欲しないとは 正当にも言いうる。しかもかれは あの永遠にたとい小部分であっても 触れ得た存在である。
次節でもう少し具体論を継げると思う。

9 生死観としての歴史の見方

おそらくここからは より多く具体的な歴史観の問題に人は入るであろう。また 入らなければ いたづらに信仰を吹聴したにすぎないものとなる。しかし われわれが これを怠ってきたわけではない。歴史観に ことさら入らなかったわけは かれらの側に責めがある。歴史観を具体的に述べるのではなく(また それを述べるときも やはり以下のようなのだが) 架空の自己の主観(それも かれらの信仰ではあろう)によって 祖国を先取りするかのように これを望み見ようと いたづらに膨大な知識をふりまくことが それだ。
以上のように アハスウェルスを批判する主観が どんな歴史観を持つか(あるいは どんな歴史観によって その主観を形成したか)について さしづめ 次のような概観を得れば われわれはじゅうぶんであろう。


すなわち このわれわれ〔の主観〕が寄り頼む祖国・神の国は 歴史的に次のふたつの姿において捉えられる。

この移り行く時の中にあっては 《信仰によって生きつつ》 不信の子らの間に寄留しているが 
かしこにあっては 揺るぎない永遠の座に確く立っているのである。
アウグスティヌス神の国 1 (岩波文庫 青 805-3) 〔1:序〕)

このふたつの姿は このように綜合される。つまり

神の国は この永遠の座を いま 《忍耐して待ち望んでいる》。しかしそれは 《正義が裁きに変えられるまで》であり 続いて与えられる最後の勝利とまったき平和との中に完全に受け継ぐであろう時までである。
神の国 1 (岩波文庫 青 805-3) 同上)

これは わたしは敢えて言うと 単なる思い込みであるとか あるいは熱狂であるとかとは無縁である。なぜなら このアハスウェルス批判として 引き出されたものにすぎないのだから。もしこうであるなら 人は 次の文章の中に 信仰とよぶにはあまりにも科学的な・しかし信仰とよばないとあまりにも非科学的な認識となる 歴史(生死・時間)にかんする主観が述べられているのを見出すであろう。

この神の観想は 私たちに すべての行為の終局として また すべての歓喜の永遠(とわ)なる完成として 約束されている。

  • 《終局として 完成として 約束されている》のであるから われわれは 時間的・歴史的に 将来すべきものとして のぞむのが正しい。

私たちは神の子らである。しかし 私たちが将来どうなるのかはまだ現われてはいない。私たちは知る。キリストが現われたまう時 自分たちがかれに似るものになるであろうことを。キリストの真の御姿を見るからである。
ヨハネによる第一の手紙 3:2)

神は その僕モーセにそのことを 《私は 有りて有る者である。イスラエルの子らに 私は有るというお方が 自分をあなたがたの所へ遣わされた と言いなさい》(旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 3:14)と語られたのである。私たちはこのことを永遠に生きるであろう時 観想するであろう。同じく主は 《永遠の生命とは かれらが一つの真の神でいますあなたと あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります。》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 17:3)と語られるのである。これは 主が来臨されて暗きに隠されているものを明るみに出し(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 4:5) 私たちの可死性と腐敗の暗闇が移ろい行くとき 生起するのである。

  • だから《死》はただ経験的なものとしてでもなく またただ《観念》の中においてでもなく  《生》とともに ここにある。〔ここまでは ハイデガーの見解が参照される。しかし〕 ないし《生》がやがて《死》をのみ込むであろうと言う。(本書 第三部 五章など。)《可死性と腐敗の暗闇が移ろい行くとき・・・》。

・・・私はこの観想について  《御子が父なる神に国を渡される時》(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 15:24) 言いかえると 今 信仰によって生きつつ 神と人との仲保者 人間キリスト・イエスが支配している正しい人びとが父なる神の観想へ導かれる時 と言われていることを理解するのである。・・・また私たちが あの神の観想に到達するときも これとは別のものを問い求めないであろう。しかし 私たちの歓喜が希望においてある限り この観想は今はないのである。《見られる希望は希望ではない。なぜなら 見るものを誰が望もうか。しかし もし私たちが見ていないものを望むなら 忍耐して待望しよう。》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 8:24−25)。《王がその椅子に坐るまでは》(《雅歌》1:11)。かの時は 《あなたは御顔をもって私を歓びに満たすでしょう》(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 15:11)と記されていることが成就するであろう。その歓びはさらになお求められないものである。なぜなら そこにはさらになお求められるものはないであろうから。御父が私たちに示され 私たちは満ち足りるであろう。
アウグスティヌス三位一体論 1:8〔17〕)

《満ち足りること》が 思い込みとか熱狂でなくして われわれのいのちであると ひそかに――そして この場合 自然に(無償で)――信じていることなのである。この《愛をともなった信仰》(コリント人への手紙第1 (ティンデル聖書注解) 13:13)が 人間にとってのすべての知恵と知識の 方法なのです。そのとき 信仰〔にかんする言葉・議論〕は 信教の自由のもとに 消えているはずである。《さらになお求められるものはない》のに かれは 自己の信仰を他者に強要することを求めるはずはない。
しかしわたしは敢えて言いますが 永遠の観想がいまはないというとき この《愛をともなった信仰》において 《躓きがない人は〔すでに〕完全な》のです。《使徒ヨハネが 〈自分の兄弟を愛する人は光の中に留まり かれには 躓きがない〉(ヨハネ第一の手紙 2:10)と言って 兄弟愛を勧めていることに注意を向けよう。使徒が義の完成を兄弟愛に置いていることは明らかである。というのは 躓きがない人は たしかに完全であるからである。》(アウグスティヌス三位一体論 8:8〔12〕)
この歴史観(ただし 社会科学的なそれは いまは俟ってほしい。もしくは 別の人がこれを論じるであろう。)でさしづめ われわれの事は足りるであろう。
だが この〔歴史的な過程としての〕愛の議論は いづれ場所をあらためて取り組まなければいけなくなった。

(つづく)

*1:アハスウェルスAhasverus:伝説だが 思惟・内省の形式による人間類型を認識できると思われる。→http://www.kyy.saitama-u.ac.jp/~yagi/kadai/akutagawa_992.html