caguirofie

哲学いろいろ

          第一部 第三の種類の誤謬について

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二考

4 神殿を徘徊する魂

吉本隆明氏の思想への批判を継ぎたいと思う。
(これから氏の思想という意味で 敬称を略したかたちを一般にもちいる。)


いったいに 吉本は――論じるなかれ―― かれ自身 悪魔だというのではない。悪霊ではないかもしれない。首長たる悪魔に仕える悪鬼たちのひとりでもない。かれは あの神のまわりをひとり徘徊する霊であるのかも知れない。
第三節の最後に引用した 《〈神〉とは自己の意識の上限にしかすぎないし 〈神への怖れ〉とは 〈天上〉へまで延びた自己意識に対する 自己の怖れ以外のものではありえないから》というかれの言葉は 単純にこのことを物語っている。
いったいに吉本は 自分自身そのまわりをうろつく神への恐れを持っているのだろうか。《〈天上〉へまで延びた自己意識に対する 自己の恐れ》はこれを 持っているのだろうか。かれの《自己意識が〈天上〉へまで延びた》というとき かれは――その自己の同一にとどまる知恵の愛を放棄するかのごとく しかし 地上における自己の肉をもすでに忘れ去るかのごとく―― ここに徘徊することをよしとしたのであるか。
モーリス・ブランショにかんする第二論考はその第一章を《死》のテーマのもとに論じている。
それはたとえば こうであり 上の視点をあるいは裏付けるかも知れない。まず 《ほんとうは 動機ある〈死〉から逃れることは いまでもできていない。わたしの内部で完全に死んだのは動機のない〈死〉だけである》(p.78)とおさえて 次のように考えている。

わたしたちを《死》へゆかせない内在的な理由であるようにみえる《掟》や《愛惜》の感じは 普遍的にいえば 《関係》の総体の世界 その背負わされた重たさ 鉄格子・網の目ではないのか。この世界は人間が好んで作り出したものではなく 好ましくないにもかかわらず不可避的に背負わされた世界であるために これから逃れようとする《死》にたいして つよくけん制する力をもっているというべきかもしれない。

(p.81)

かれは これにかんれんして 《〈関係〉の絶対性》などという概念(視点)をもどこかで提出していたと思うが これはしかし われわれに言わせれば ほんとうは自己意識を超えた存在である神を 《自己意識の上限にしかすぎない》として 有限(時間の間隔)の範囲においてのみ規定することによって――あるいは言いかえると 人間の存在が 有限なる時間的な過程にのみ根をおろすということを ことさら意識的に言いたいがために―― 自己を神の礼拝者とするのではなく 神殿の徘徊者と好んで措定していることを意味する。かれは 上の引用文につづけて 次のように言い放つとき 好んで《自己意識の上限》を破らないように そこから脱け出ない*1ように その徘徊の姿勢に満足しているかのようである。

人間はこの意味では不快な存在であり 存在の梯子のどこかの段にとどまっていて この鉄格子の世界は必要だから作り出したのだとか 役立つから現に残されているのだとか云いふらしている。だが 人間は鉄板の下敷きになって自ら圧死することはあっても 《関係》から圧しつぶされるために《関係》を拵えあげることなどありえない。
(承前 p.81)

いったい誰が 《鉄格子の世界(関係の絶対性)》が不快だと愚痴を並べつつ 言いふらしたというのか。《関係の絶対性――時間的な存在であるがゆえに 各自の有限と有限との時間過程の関係は 〈死〉よりも〈生〉を またある意味で大胆にいうなら 〈神〉よりも〈人間〉を 択びつつ この意味で 〈鉄格子の世界〉だというのに――》は この《不快な存在》を明らめ 《存在の梯子のどこかの段にとどまっている》者に向かって 一段 上へ上がれと促しつつ(だから《鉄格子》は はずれつつ動く鉄格子だ) 生きてゆくのが当たり前だというのに なぜ《〈関係〉から圧しつぶされる》ことのみ 取り立てて見なければならないのか。
《人間は鉄板の下敷きになって自ら圧死することはあっても》 そのこと自体 自己意識の上限を超えた存在である神 神がこれを望みたもうならば われわれの望むところである。だから 《〈関係〉を拵えあげること》が出来なくとも この《〈関係〉を 梯子段をのぼるようにあるいは 段構成を切りかえるように 人間が動かすことはありうる》というよりそれは 日常茶飯事だ。《神が 自己意識の上限にしかすぎない》として徘徊の姿勢を取る限り 《〈関係〉を拵えあげることなどありえない――そのこと自体は正しいと思われる――》などと 自己意識の限界の内部で 堂々めぐりを行なっているのにすぎない。
このような堂々巡り・そして神に対してはその周囲のうろつきが かれの評論なのだ。この評論は ある日常茶飯事の内部周辺的なひとつの円環をなす考察――そしてそれは このテーマをわたし(その論評家)は 論証したのだと言おうとするしろものである――にすぎない。
かれは 肉体の死とは無縁な・だから人間の交わりとは無縁なあの 空中の権能を装いながら しかし その手下としての悪鬼たちの一員でさえないかも知れない。《光の天使》としてのかれは 悪魔の自ら装うそれを着るかれではなく 神に仕えるのでもなく・またその天上から墜落してその軌跡をこそ見せようとする〔堕〕天使でもなく ただ この天上の国の石段を くだらないホウキをもって掃き清めるでもなく汚すでもなく ちゅうちょしつつ徘徊する誇り高き旅人なのかもしれない。かれは むしろ自己意識の上限でない天上の国を どこかで 見ているのだ――語りたい・語っていたいと 問い求めているようなのだ。
かれは この孤り 誇り高き姿勢が むしろかれ自身は あの《関係の絶対性》から離れてその外にあることを余儀なくしている。かれの所謂近代人(たとえば《我れ考う故に我れあり》)としての《旅人》であること その近代人としての・神の礼拝への《ちゅうちょ》が その関係の絶対性=鉄格子の世界の外から その中の読者をかち得ている。
われわれは このような時間的存在〔の思惟・内省=生産・行為の形式〕を 類型的に いや実態的に 《脱魂》〔の症状〕と見ることができるかも知れない。

  • わたしはまだ これから解放されたいという欲求が残っているのかも知れない。
  • 同時代人の多くに読者をかち得るひとりの存在に対して われわれがただ沈黙しないがための防御線にしかすぎないものとなろう。
  • 《鉄格子の世界》という表現は まさに鉄格子のごとく 堅い岩盤である。人と人との関係 あるいは仮りに人と神との関係 これをこしらえることなど人に出来るものではないこと それと この身体をもった存在は有限のものであること これらふたつの事柄が その岩盤のような固さを支えている。だから破る必要はないのだけれど 鉄格子のような網の目となった社会 そのような人間関係なのだと言わせたままにすることも出来ない。精神を離脱した状態をふつうの魂として認めることとなる。
  • 吉本を論じると どうも このような次元の話になる。具体的な事項を論点とするのではなくなる。魂のもんだいとなる。

5 妙に重なるところが・・・

われわれはここで 原理的に アウグスティヌスを引くことができる。かれは《アウグスティヌス三位一体論》の冒頭を 《三種類の病い》を説くことによって始めている。長く引用するが 第三の種類の誤謬(病い)に注目すべきである。

聖三位一体に関するこの私の論述を読もうとする人は何よりも先ず私の筆が 信仰という原理(はじめ)を軽蔑し したがって理性への未成熟にして道外れの愛によって欺かれる人びとの詭計に対して監視しているのを念頭に置くべきである。
かれらのうちで或る人びとは 物体的なものについて 感覚によって経験して知ったものであれ 人間の本性的な能力と鋭い省察によって または学問の助けによって 獲得したものであれ それらを非物体的にして霊的なものへ転用しようと努め その結果 かれらは前者によって後者を測り かつ憶測しようと欲するのである。
また 他の人びとは どのような観念を作るにせよ 人間の精神の本性 あるいはその情態に従って 神についての観念を作り上げる。この誤謬によって かれらが神について論議するとき 自分たちの言説に歪んだもっともらしい規則を打ち樹てるのである。
同じく 神なる不可変的な存在へ眼ざしを向けるために たしかに可変的である被造物全体を超え出ようと努める別の種類の人びとがある。しかしかれらは可死性の重みに抑えつけられているので 知らないことを知っていると思われようと欲し かれらが知ろうとすることを知り得ないとき 自分たちの意見の先取りを一層厚かましくも断定することによって 自分で知解への道を閉ざし 自分たちが主張する意見を放棄せず むしろその間違った考えを訂正しまいとする。
以上のことが私が述べ始めた三種類の病いである。つまり その一は 物体について考える仕方で神について考える人びとの病いであり その二は 魂のような霊的な被造物について考える仕方で神を考える人びとの病いである。
その三は 物体にも霊的な被造物にもよらないが しかも神について誤ったことを考える人びとの病いである。この人びとが考えるものは 物体においても 創造され つくられた霊に置いてもまた創造主ご自身においても認められないという点で かれらは真理から 一層遠ざかっているのである。
神を例えば白であるとか赤であるとか憶測する者はたしかに誤る。しかし この白とか赤は物体において見出されるのである。また 神は 或るときは忘却し 或るときは想い出したりするもの あるいはこの類いの或るものであると憶測する人も同様に誤謬に捉えられているのである。しかし この忘却とか想起は人間の精神(animus)において見出されるものである。けれども 神は自分自身を生むことができると思いなす者はさらに誤る。そのような考えは 神にあてはまらないのは当然のことながら また霊的な被造物や物体的な被造物にもあてはまらない。というのは 存在するように自分自身を生むものは決して存在しないからである。

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論

(1:1〔1〕)

吉本が 《〈関係〉から圧しつぶされるために 〈関係〉を拵えあげることなどありえない》というとき 《存在するように自分自身を生むものは決して存在しない》ことを物語っている。かれは このアウグスティヌスの言う第三の誤謬から離れている。しかしながらかれは 神を指し示さない。その問い求めを中断したのだ。無神論に立つからというよりも ただしく有神論に立ってしかも その神の国の門の前で――もしくは ブディスム風に《無門》を言うことによって 自己意識の限界を盾にして――徘徊している。
《〈関係〉が鉄格子の世界のごとく絶対的》であるならば この世界から逃れてのごとく徘徊者の立ち場を取らず この門を叩けばいいではないか。それは 《〈関係〉を拵えあげること》ではあるまい。《〈関係〉の梯子》を構成(認識)しなおそうと言うにすぎない。鉄格子の世界は そのかれを 歓迎しないことはあっても ムラハチブとはしないであろう。それでも ムラハチブとするなら 《世間に倣うな》(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 12:2)と言ってのように 人は 世間の誤謬を指摘するであろう。
《〈関係〉に圧しつぶされるために》 いや 《〈関係〉がみづからを圧しつぶす如く 閉ざすために》 人は 《関係》を その歯車を取り替えよと説くが如く 再転回(revolution)させる もしくは これを祈るであろう。だから これに導かれない者は 第三の誤謬に 裏返しに 陥らざるを得ないようになるのだ。
つづけてアウグスティヌスは次のように 説き進む。

だから この類いの誤謬から人間の精神が純化され得るように 未熟な者たちと共に歩む聖書はいかなる種類の事物の言葉をも避けなかったのである。そして これらの言葉から 私たちの知解力はいわば段階的に――鉄格子の世界の中でも 段階的に―― 神的にして崇高なものに向かって あたかも育まれたもののように立ち上がるのである。
なぜなら 聖書は神について語るとき 物体的なものから採られた言葉を用いるからである。例えば 聖書は 《あなたの翼の蔭で私を守りたまえ》(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 16:8)と語る。
また 聖書は 霊的な被造物から採られた多くの言葉を神に移し用いて 神が実際にそのようにあられるということではなく そのように語られるのがふさわしいということを意味表示している。例えば 《私は嫉む神である》(旧約聖書 出エジプト記 (岩波文庫 青 801-2) 20:5)。また 《私は人間を創ったことを悔いる》(旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 6:7)のように。
ところが 聖書は 全く存在しないものから或る名称をひき出して 比喩的な語り方をなしたり 謎めいたことを濃くしたりはしなかったのである。だから 第三の誤謬によって神について 神ご自身においても いかなる被造物においても見いだされ得ないことを 勝手に考えて 真理から閉め出される人びとは 一層危険で より空しく滅び去るのである。
アウグスティヌス三位一体論 1:1〔2〕)

だからアウグスティヌスは 同じく第二巻頭の序で これをふたたび取り上げる。

人びとが神を問い求め そして人間的な弱さにとって可能なかぎり 精神の力を三位一体を知解するために向けるとき また近づきがたい光を観ようと努める精神の眼ざし(acies mentis)においてであれ あるいはキリストの恩恵によって栄光を受けて甘美となるためにそこでは魂が磨り減らされるとしか私には思われないような聖書の多種多様な語り方においてであれ 辛苦に満ちた困難を深く知らされたのち あらゆる不分明の雲を打ち払って 或る確かなものに到達したとき このような人びとは かくも深い秘義の考究において誤る人びとに対して寛容であるのは 極めてたやすいはずである。
しかし 人間の誤りには到底 許しがたい二つがある。それは 真理が明らかになる前に 軽率にも先取りすること また すでに真理が明らかになったとき 先取りされた誤りを弁護することである。
アウグスティヌス三位一体論 2・序〔1〕)

だから――とつづけてアウグスティヌスを引いてよいと思われることには 《§1 はじめに》で示したごとく―― 

もし被造物の全体(鉄格子の世界)において支配者たる神に従うなら 神の律法にもっとも善く管理され得たであろう魂が 全体に優る或るものを欲求し(あるいは 《関係の絶対性》からなる世界のあたかも外に出て これを自己の視野に置こうと欲求し) 自分の法によってそれを支配しようと気負い立ち かえって部分的なもの(吉本の扱うものには 意外と 部分的な日常茶飯事なことが多い分野がある。だから悪いと一概には言えないにしても)への気遣いの中に追いやられたのである。・・・
人間は神に寄り縋るにしたがって――初発の近代市民たちもこれをなさなかったとは言えない―― 自分の(私的な)ものを愛しないようになるのだ。ところが自分の権能を験(た)めそうとする欲望によって 自分の或る種の意図のままに いわば中間点としての(自己意識の上限を あたかも固定的に 置くからだが その中間点としての)自己自身へ墜落する。そこで 神のように いかなるものの下にも立つまいと欲するとき かれの中間性そのものによって罰を受けて もっとも低きものの中へ すなわち動物が悦ぶものの中へ投げ出される(――科学・知が そのためにこそ仕えるものとなる――)。
アウグスティヌス三位一体論 12:11)

これで 骨格は批判として出来たと思われる。あとは ここで――いまのテーマにかかわって――われわれが神を問い求めることが残されている。これは われわれが日から日へ変えられるようにして歩む時間過程のつねなる課題である。《つねに聖顔を求めよ》(詩編 (現代聖書注解―インタープリテイション・シリーズ) 105:4)。

6 日の課題としての批判と試練

けれども 使途パウロが次のように語るとき われわれは 批判(誤りの指摘)がどこまで及ぶのか どこまでわれわれ自身の力において気遣いの愛を根絶やさないように留意すべきなのか これを吟味してみなければならない。

実は結ばない暗闇の働きに加わらないで むしろ その誤りを指摘しなさい。かれらがひそかに行なっていることは 口にするのも恥ずかしいことなのです。しかし 誤りが指摘されるものはすべて 光に照らされます。照らされるものはみな 光となるのです。それで こう言われています。

死の眠りについている者 起きよ。
死者の中から立ち上がれ。
そうすれば キリストはあなたを照らされる。

エペソ人への手紙 (EKK新約聖書註解) 5:11−14)

また アウグスティヌスは次のように語る。

精神は悲惨であり しかも浄福でありたいと願望している・・・。精神(人間)が可変的(時間的)であるからこそ このことが起こり得ることを望むのである。なぜなら もし精神が可変的でないなら 浄福から悲惨になるように悲惨から浄福になることは出来ないからである。
アウグスティヌス三位一体論 14:15〔21〕)


そこで 《ヘブル書(ヘブル書・ヤコブ書 (聖書の使信―私訳・注釈・説教))》では 

父が訓練(disciplina)を与えない子があるであろうか。
(ヘブル書12:7)

と言われ さらに同書で一層明らかに 

すべての訓練はそのときは喜ばしいものとは見えず むしろ悲しいものと見える。ところが 時が経つと その訓練をとおして戦う人びとには義の平和の実を与える。
(ヘブル書12:11)

といわれる。
アウグスティヌス三位一体論 14:1〔1〕)

最後の引用節を考えるなら 《死の眠りについている者 起きよ》と言われ 《死者の中から立ち上が》り 《キリストに照らされて 光の子となる》ようなかれらの側の問題ではなく 事は ほかならぬ《訓練》を受けているわれわれ自身の問題であると言ったほうがよい。

  • すでに キリストのバプテスマを通過した人びとの問題であると言ったほうがよい。また基本的には つねにそうだ。

ただ 《関係の絶対性――精神が可変的なるゆえに 一たんかれに意志の或る種の変化が生じたなら つまりそのようにして 関係の相手との付き合いが生じたなら それが終えられるまでは 関係は 〔再度いうが 有限なるゆえに その限りで〕〔必然的となるし〕絶対的である――》は われわれの視点のものでもある。アウグスティヌス

だから 魂は 善き意志によって 私的なものとしてではなく公共的なものとしてこのようなもの(《悦び楽しむ物体的なかたちや動き》つまり 関係をとおした《時間的なもの》である)を愛するすべての人によっていかなる偏狭や嫉みなく清らかな抱擁によって所有される 内的なもの 高みにあるものを捉えようと自分のためであれ 他者のためであれ 気遣うなら 時間的なものの無知によって――魂は このことを時間的に為すから――或る点で誤り そして為すべきようになさなくとも それは人間にとって常なる試練に他ならない。私たちが いわば帰郷の道のように旅するこの人生を 人間にとって常なる試練(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 10:13)が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである。
〔それは身体の外にある罪であって姦淫とは見なされず したがってきわめて容易に許されるのである。しかし 魂が身体の感覚をとおして知覚したものを得るために そしてそれらの中に自分の善の目的をおこうとして それらを経験しそれらに卓越し それらに接触しようとする欲望のために或ることをなすなら 何を為そうとも恥ずべきことをなしているのである。・・・〕
アウグスティヌス三位一体論 12:19〔15〕)

と述べるとき つまり《この人生を 人間にとって常なる試練が私たちを捕捉するように送ることは偉大なことである》と言うとき この試練じたいは 偉大なことである。それは 《鉄格子の世界》の苦悩と光とである。
それでは われわれは 吉本隆明その人に 何と言いうるか。われわれは 何と言いうるか。吉本隆明その人は 個別的なひとりの人であっても これが 日常茶飯事から遥かに遠い存在であるとは言えない。これが はるかに多くの読者を獲得したと思われる場合には。
しかし さらにひるがえって われわれは

要するに 空中の権能が 将来するものを それを告知する天使からであれ 人間からであれ 聞くのである。しかし かれらは 万物が服従せしめられているお方が必要であると判断される限りでのみ聞くのである。多くのことが 或る刺激によって また知らざるままの霊によって 予告される。
アウグスティヌス三位一体論 4:17〔22〕)

と聞くとき ふたたび 《§1 はじめに》の節の《悪魔の克服》の問題にも この試練において立ち帰るのを見出す。問題は 究極に われわれ自身 知らないわけではないかれの《策略》 すなわち《光の天使への擬装》を思念(おも)うことに ふたたび帰する。それが擬装されたものであれ 光の天使であることじたいは われわれの時間過程にも共通とすべきものであって その擬装ということ すなわち 共通する過程的な時間のほかに・それ以上に はみ出ようとした誤謬というものへと渡されないように注意することが ここでの課題である。
そこでわれわれは 最後としてやはりアウグスティヌスとともに この試練の中味 もしくは その相手の手の内 これを 次のように了解して これを乗り越えて進むべきと考える。誤りの指摘(批判)はここにあると考えるのであり そう決断してよいと思われるのである。また この認識の実践は 神の佑助によって――神の佑助によって――具体的な時間過程の中でわれわれの内において なされ示されるであろうと信じなければならない。信じるがゆえに 愛の実践を伴なわなければならない。上の引用文につづいて

だから 私たちは時代の継起とか 死人の復活についてあの哲学者たちに訊ねてはならない。かれらはかれらの出来る範囲で 創造主の永遠性――私たちはこの創造主においてこそ生き動き存在する(使徒行伝 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 17:28)――を知解した。かれらは造られたものをとおして神を知りつつも神を神として崇めず また感謝せず 自ら賢者であると称しながら 愚かなものにされた(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 1:20−22)。またかれらは霊的・不可変的な本性の永遠性へ精神の眼ざしを 世界の創造主・支配者の知恵そのものにおいて時代の展開を見得るほど確固として定着させるのに適しくない。この時代の展開は あの創造主の知恵(それは 無時間=神の貌)においてすでに存在し また常に存在しているのであるが ここで(それは 時間=しもべ〔人間〕の貌において)存在していないように将来するものとして存在している。
さらに かれらは魂のみではなく人間の身体をも含めて それぞれに適しい完成に至るまでの向上を見るのに決して適しくないから 真実な敬虔を賜っている私たちの父祖たちにこれらのものが明示されたように 聖なる天使たちをとおしてかれらにこれらのものが――外側で身体の感覚によるにせよ 霊において表出された内的な啓示によるにせよ――告知されるにふさわしくなかったのである。
私たちの父祖(預言者たち)は 明示されたものを現在する徴しによって あるいは手近なものによって予告した。かれらは予告したように為されたものによって信頼をつくりつつ 時代の終わりに至る遠い将来のことについても信じられるべき権威をもつことが出来たのである。
しかし空中の不遜にして虚偽の権能は たといかれらの占者をとおして 聖なる預言者や天使たちから聞いて 聖徒たちの交わりや都について また真の仲保者について或ることを語ったとしても 出来るなら 自分には無縁なこれらの真なるものをとおして 神を信ずる者をも自分の誤謬へ渡そうとしたのである。けれども神は無知な人びとをとおして真理が遍く 信ずる者には助けとして 不敬虔な者には証言として響き渡るようになしたもうのである。
したがって 私たちは永遠なるものを把握するのに適しくないゆえに また時間的なものへの愛に結びつけられ 可死性の伝播によっていわば本性的に植えつけられている罪の汚れが私たちを抑圧しているゆえに清められなければならなかった。
〔ところが すでに私たちがそこに同化されて拘束されている時間的なものをとおしてでないなら 永遠なるものに同化されるために清められ得ないのである。・・・〕
アウグスティヌス三位一体論 4:17−18〔23−24〕)

《健康であることは病いとは非常に異なるのであるが その中間の治療は 病いに対応してなされないなら 健康に導くことは出来ない。無益な時間的なものは病める人を落胆させるが 有益な時間的なものは癒されるべき人を支え 癒された人を永遠にまで牽き行くのである。さて理性的な精神は浄められるとき その観想を永遠的なものから持つように 浄められるために信仰を時間的なものから持つのである。》(承前)わたしには これ以上に明解な 《書物の解体学》はないように思われるのである。
《もし 私がこの点で誤りを犯しているなら 私よりも明察を持たれる人は 私の誤りを訂正して欲しい。私には これ以外には考えられないのである。》(同。1:8〔17〕)。

だから かれらが私たちに神について問い求めるときに願望する根拠ではなく――なぜなら かれら自身はその根拠を受け取り得ないし またおそらく私たちもそれを理解し 表現することは出来ないから―― 私たちに要求することをかれらが理解するのにどんなに不適格であり不適当であるかということを かれらに論証できる根拠を 時に応じて私たちは述べるのである。しかし かれらは自分たちが欲していることを聞かないゆえに 私たちが自分たちの無知を隠すため悪辣に振る舞っていると思いなすか あるいは 私たちがかれらの知を妬んで意地悪く振る舞っていると考えるのである。かくして かれらは怒り狼狽して去っていくのである。
アウグスティヌス三位一体論 1:1〔3〕)

(つづく)

*1:自己意識の上限:神を自己意識の上限とし 人はその天井を抜け出しえないというとき ふたつのことが混在している。神を超えることはありえないことが ひとつ。いまひとつは 自己意識には生の有限によってあたかも越え得ない天井がある恰好であること。だから 吉本の表現は おかしい。なにを言おうとするのか 定まっていない。ただ わたしが思うには 吉本自身は この自己意識の上限を自ら超え出たことがあるようだ。神にたとい少しでも触れえた――神に指で触れられた――ことがあるのだと思われる。だから妙に強い表現という結果を得ていると思われる。