caguirofie

哲学いろいろ

            第一部 第三の種類の誤謬*1について

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はじめに

1 サタンも光の天使に・・・

《神の意志によって――〈血筋によらず 肉の意志によらず また人間の意志にもよらず 神によって〔生まれた〕(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 1・13)――キリスト・イエス使徒('απόστολος=外交官)となったパウロ》(コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 1・1)は 《悪魔(Satan=中傷する者・訴える者)》について こう語る。

και  ού  θαυμα,  αύτος  γαρ  ό  Σατανας  μετασχηματίζεται  είς  'άγγερον  φωτός.


Et quoi d'étonnant? Satan lui-même se déguise en ange de lumière.


Das braucht euch nicht zu wundern. Sogar der Satan verstellt sich und gibt sich für einen Engel aus!


And no marvel; for even Satan fashioneth himself into an angel of light.


でも驚くにはあたりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 11・14)

《わたしたちは かれ(サタン)の策略を知らないわけではない》(コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)2:11)と語られることに呼応するかたちだ。

さて 自分自身の力によって 神を観想し密接に結合されるほど清められ得ると思っている人びとがある。――とアウグスティヌスは語る。――そのような人びとを汚すのは とりわけ高ぶりそのものである。
かれらは自分自身の力によって浄められると高慢にも主張するが その理由(わけ)はかれらの或る人は精神の眼なざしを被造物の全体の涯にまで到達させ 変わらざる真理の光にたとい小部分であっても触れ得たからである。
〔そこでかれらは現在 信仰のみによって生きている多くのキリスト者は まだこのようなことをなし得ないのだと嘲笑する。しかし 不遜な人にとって また このゆえに木(十字架)の船に乗るのを恥じる人にとって 遠くから海を越えて存在する故国を望み見ることが 何の役に立つであろうか。逆に あの不遜な人がそれで運ばれるのを軽蔑する木の船に乗って祖国に行く謙遜な人にとっては このように遠くから祖国を見ないことが どうして不都合であろうか。〕

アウグスティヌス三位一体論

アウグスティヌス三位一体論

(4:15)

けれどもわたしは ここで 吉本隆明氏の著作 とりわけ

をおもっている。

  • 以前には かれを直接に論じないことが 積極的な氏への批評・批判であると考えていた。一九八一年末 この《書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1)》は その初めの雑誌連載を終えたのちのハード・カバー単行本から 文庫本の一冊としても刊行されることになったのを見 これを取り上げようと感じた。この感覚がこれをつづる理由である。

文庫本の裏表紙と帯とには それぞれ次のような解説(筆者不明)がつく。

ヘンリー・ミラー ユング バタイユなど 欧米の代表的な文学者・思想家九人(ほかには モーリス・ブランショ / ジャン・ジュネ / ロートレアモン / ミシェル・レリス / ガストン・バシュラール / フリードリッヒ・ヘルダーリン――引用者註)を俎上にのせ その悪戦苦闘の思想的営為を 時に辛辣かつユーモラスに 時にあたたかく見守りつつ 縦横に論ずる独創的作家論

西欧における知の本質を鋭い方法意識で問う創見にみちた論考

なおそして 

《書物の解体学》という書名は 《表現されたもの》と《表現したもの》を いくつかの基本的な概念によって腑分けした結果 というほどの意味でつけた。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) 初版のあとがき)

と知りうる。
さてここでわたしは ひとことおことわりせねばならない。上の九人の文学者・思想家の中に分け入って その思想的営為を論じるというのではなく ただ《書物の解体学》の著者・吉本隆明氏を論じるのみとする。結論はすでに提示した。
したがってわたしがここで行なおうとすることは ただ一点 われわれの内なる《書物の解体学者・ムッシュ吉本隆明》 これからの解放 これとする。
悪魔の克服ということ。いったい悪魔とは われわれの中にあるがごとくあって われわれに訴えかける《罪の制作者・死の制作者》であり――これを神がそう命令したというのではなく 神はこれを正当にもゆるした―― しかも この《空中の権能者――なぜなら かれじたいは肉の死と無縁であり 甘く切ない蜃気楼すなわち空中の楼閣(そこでしかしむしろ地上の朽ちるべき饗応が行なわれる)を構成する――》ともよぶべきかれは すでに キリスト・イエスの誕生と〔十字架上の〕死と 〔父なる神による・したがって 子なる神であるキリスト自身にもよる〕その〔肉の〕復活と高挙(――それらの内 あとの二者は 現代のわれわれにとっても むしろ将来すべきものとして これらに臨むべきである〔前二者は われわれにも共通にして経験的である〕が――)によって 〔すでに〕征服されたものである だから この《主》の原理(はじめ)に属(つ)くキリスト者が 人間のともがらとなって 主これをゆるしたもうならばそれにつれて 克服すべきシンキロウであるということ と考える。われわれはこの《策略を知らないわけではない》。

2 方法意識ということで

さて 吉本隆明氏〔の思想〕への批判。――
《人びとには気に入らぬキリストの受肉(神の言葉が人間になった)のなかには 直視し思惟すべき・・・多くの有益な教訓が存在する》(アウグスティヌス三位一体論 13:17)のに

このような不遜な人びとは私たちが肉の復活を信ずることを非難し これらの事柄では自分たちの方こそ信じられるべきだと欲する。かれらは 造られたものをとおして(ローマの信徒への手紙 (ニューセンチュリー聖書注解) 1:20) 超越的にして不可変的な事物の変化についても あるいは世代の連結した秩序についても相談されるべきであるかのように思うのである。
アウグスティヌス三位一体論 4:15)

ところが吉本氏は ジョルジュ・バタイユを取り上げた第一論考のなかの《序》で その結論とも言うべき自らの《方法意識》を次のように明らかにする。一例として

現在のところ 近親姦が禁止された根拠について たったひとつの理由しか述べられないようにおもわれる。一口にいえば 《家族》の共同体が 《氏族》の内部で 独自の 縮小された・内閉的な位相を獲取するようになったこと いいかえれば《氏族》の共同体が 《部族》共同体へと飛躍する契機を獲取するようになったこと それこそが近親姦の《禁止》をもたらしたのだ と。――後で もうすこし異なった云い方で おなじことを云うことができるとおもう。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.21)

近親姦》あるいはその《禁止》が ここでは 問題ではない。《方法意識》ないしその地点から 文章が繰り出されるということ・判断が下されるということ その仕組みと姿勢とが問題である。
われわれは 《家族・氏族・部族》等々の定義を ここで必要としない。
もっとも 《近親姦(婚)》ないしその《禁止》が ここでは テーマではある。

しかし――ただちに言えることは―― 空中の不遜にして虚偽の権能は たといかれらの占者をとおして

  • 占者とは 《あたかも或る人が山の頂上に居て 遠くからやって来る人(これを 《近親婚の禁止された一般の正常な性関係の状態》と読め)を見て 平地に住んでいる近くの人びとに前以って告知する》ごとく占うと言われる このような占者をとおして

聖なる預言者や天使たち(神の使いである)から聞いて 聖徒たちの交わりや都(これが 近親姦と無縁な性関係である)について また真の仲保者(キリスト・イエスつまり そのような《交わり》の仲保者である)について或ることを語ったとしても 出来るなら 自分には無縁なこれらの真なるものをとおして

  • つまり 空中の権能は なお これらの真なる交わりと無縁でないと思っていない だから 自分には無縁なこれらの真なるものをとおして

神を信ずる者をも自分の誤謬へ渡そうとしたのである。
アウグスティヌス三位一体論 4:17)

近親姦とその禁止》を いまなお――取り上げてもよいが――論じることが 間違った姿勢である。いや 家族や氏族や部族はいまどうでもよい。しかし そこに(そのかれらの《交わり》について論じるとき) そもそも《近親姦》のテーマを持ってその《禁止》とか禁止でないとか そのような経験的な規範として 論点を立てて 議論することが 問題なのだ。
《空中の不遜にして虚偽の権能は・・・神を信ずる者をも自分の誤謬へ渡そうとしたのである。けれども神は無知な人びとをとおして真理があまねく信ずる者には助けとして 不敬虔な者には証言として響き渡るようになしたまうのである》とき 《近親姦の禁止としての人間の社会における関係》――なんなら一般に 禁忌(タブー)とよばれる世俗的なもろもろの慣習を含めよ――は 人間の歴史の過程として そのものにおいて獲得されていた(あるいは 与えられた)ものなのだ。何かが理由(わけ)あって 《近親姦の〈禁止〉をもたらした》のではない――《聖徒たちの交わりや都》が仲保者によって与えられたとき だから肯定的な一つの賜物として むろん理性的に もたらされていたのだ。これをなお あの空中の権能に立つ者は 《かれらの占者をとおして 聖なる預言者や天使たちから聞いて》 なおかつ 賜物(それは 聖霊である)を与えられこれを自己のもとに――無知のまま しかし理性の範囲では理性的に――受け取った者たちを たとい《自分の誤謬へ渡そうとし》なくとも 事後的に そう分析するにすぎない。

  • これは――分析・実証の論理は―― 総じて あの近代市民たちと それじたい再生されたかのごときその科学のもつことになった負の一側面である。
  • ただし わたしたちは 論証的な精神による分析的な認識といったかたちでではなく 観想的な精神による行為への指針の認識といった意味あいで 《近親姦の禁止》といった世俗的な事象もしくは観念をとおして 仲保者によって与えれられた賜物 すなわち聖霊なる神を観想し記憶し さらには人間の能力に与えられた限りで これを理性的に知解し 愛する(その限りで行為する)のである。この聖霊なる賜物が 聖徒たちの交わりの推進力だと記憶している。
  • だから 近代市民の時代の勃興(その全体的な側面)と 空中の権能を依り頼む不従順の子らとの誤謬とは ちがう。この古典近代の市民であること(その思惟・内省=生産・行為の形式)と 不従順の子らとなることとは あらためて互いに手を結ばなかったとはいえない。交通の推進力とその道理 これが 無知な人びとにこそ正しく与えられているのでないなら 誤謬は存在しないというのは 不適当ではないのだ。

かくて この両者(徳を嫉む悪鬼たちとその首長(かしら)たる悪魔)は

  • われわれはこれをただしく 不従順の子らつまりアマテラス(社会科学主体)予備軍と呼ぶことにしよう この両者は

真理の照明によって裸にされて いかに自分たちが恥ずかしく無様に いわば甘い果実の葉のようであり しかもかれら自身は結実なくあるかということを見るために開かれた意識の眼をもって 善き業の実なくして善き言葉を織り合わせ 悪しく生きながら いわば上手に語って 自分たちの汚辱を蔽うのである(旧約聖書 創世記 (岩波文庫) 3:4)。
たしかに 魂は自己の権能を愛するとき 普遍的な全体から 普遍性を奪われた私的な部分に滑り落ちるのである。つまり これが《罪の初め(シラ書―集会の書 10:15)》と言われるあの神に背理する高ぶりである。もし被造物の全体において支配者たる神に従うなら 神の律法にもっとも善く管理され得たであろう魂が 全体に優る或るものを欲求し 自分の法によってそれを支配しようと気負い立ち かえって部分的なものへの気遣いの中に追いやられたのである。・・・また物体的な虚妄の像を内に曳き入れ 空虚な思弁によって それらを結合し その結果 魂にとってこのようなものが神的にさえ見えるようになる。自己中心的に貪欲な魂は誤謬に満たされ 自己中心的に浪費する魂は無力にされる。
アウグスティヌス三位一体論 12:8−10)

つづけて

人間は神に寄り縋るにしたがって――初発の近代市民たちも これをなさなかったとは言えない―― 自分の(私的な)ものを愛しないようになるのだ。ところが自分の権能を験(た)めそうとする欲望によって 自分の或る種の意図のままに いわば中間点としての自己自身に墜落する。そこで 神のようにいかなるものの下にも立つまいと欲するとき かれの中間性そのものによって罰を受けて

  • この罰が ただちには明かされず いわば近代市民の時代の繁栄とともに 延び延びになるだけ 無知(実は敬虔・従順という知者)ではあってもあの木の船に乗って故国に行こうとして この巡礼(人生は 旅である)を通過する者たちは この旧時代を乗り越え新時代を開く人間のともがらとして より堅固にされるのだ(この光は 信ずる者にとっては助けとして 不敬虔な者にとっては証言となる いづれにしても新しい人間の栄光としか思われない。すでにこれを獲得したなら こう明かすべきである。) だから 中間性そのものによって罰を受けて

もっとも低きものの中へ すなわち動物が悦ぶものの中へ投げ出される。(科学が そのためにこそ仕えるものとなる。)
したがって 人間は自分の中心点をとおしてでなければ どうして最高のものから最低のものへかくも遠く移り行くのであろうか。常に同一に留まる知恵の愛(それは 《私的》でない《わたくし》=スサノヲだと思われる)を無視して 可変的・時間的なものの経験から知識が欲求されるとき 知識は膨れ上がり

  • あやまって アマアガリすなわちスサノヲのアマテラス(おほやけ)化をなし

徳を建てない(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 8:1)。かくして 重圧された精神の力は いわば自己の重さによって浄福から放逐され 自己の中心性の経験をとおして自己の罰によって自己が捨てた善と犯した悪との間にある径程を学び知り そして悔い改めへと召し罪を赦す その創造主の恩恵(無償で与えられるのである)によらないなら その力は弛緩し失われているゆえに 還り得ないのである。われらの主イエス・キリストによる神の恩恵を他にして 誰がこの悲惨な魂をこの死の身体から解き放つであろうか(ローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 7:24−25)。
アウグスティヌス三位一体論 12:11)

それでは 信仰を自己に強いればよいか。そうではない。この信仰をあますところなく述べ伝えればよいか。ちがう。
近親姦が禁止された――あるいは 禁止されるというように受け取られるようになっていた――根拠について・・・一口にいえば 〈家族〉の共同体が 〈氏族〉の内部で 独自の 縮小された 内閉的な位相を獲取するようになったこと うんぬん それこそが近親姦の〈禁止〉をもたらしたのだ》とこそ たしかに言うべきである。

  • つまり この立論は 《家族》をひとつの人間関係の核として立てるかどうかを別としても 要するに 人間が同じ一個のかれ自身の中に 《わたくし(市民であること。これをわれわれは スサノヲとよぶ)》の領域と 《おほやけ(公民であること。同じく アマテラス)》の領域とを 発見して《スサノヲ》どうしで互いに結ばれるのではなく 《アマテラス》――そしてこれは一般に普遍概念を構成する――の共通項においても・あるいは これを確かに抜きにしてはならないというように 互いに――だからたとえば 《族外婚》もしくは《共同体どうしの商品の交換》というかたちで――結ばれよう・そうしたほうがよいと考えるに到ったというほどの内容を言っている。
  • くどくなるが言いかえると 《近親姦の禁止》が成立する以前には われわれの自己の内なる世界に 《スサノヲ》と《アマテラス》との両領域のあることを知らず つまりあるいはそこでは 両者が混然一体となっていた だから同じことで 実は 《近親姦の禁止》が成立する以前には 《近親姦(自然的な原始的なスサノヲ領域におけるそのままの性結合)》という考えすら 人びとのあいだにはなかったということではないだろうか。さらにくどくなるが しかしもっと正確に言おうとするなら――そうすべきだが―― 原始的なスサノヲどうしの結びつきが 事の実態であったときでさえ人間は原始的なアマテラスとしても これを必ずしもいさぎよしとは思わず これを避ける方向に 潜在的にしろ 動いていた。
  • この潜在者は 人格としては《アマテラス》 神格としてはそのまま《神》すなわち神を知ること・つまり神によって知られることである。だから 人間どうしの《交わり》は 原初的にそして原理的に ここでいわゆる近親婚はこれを避けた。そしてこれは 《文化》的にというよりも 前言を翻すかのごとく  《自然本性》のもとに 自然的にであろう。
  • スサノヲの内に アマテラスの能力があるのは 自然本性のものであり スサノヲがこのアマテラス能力を耕すのは 文化行為である。アマテラスがそれ自体の能力のみによってアマアガリ アマガケルのは 空中の権能に近づくことである。
  • スサノヲは 自身のアマテラス能力の発現とともに やがて近親婚の状態を抜け出していった。自然本性が 自らの文化行為によって耕されてと同時に 自らたる本性の発現を何ものか推進力によって促されてだと考えられる。
  • このようなことを内容としているのだが。・・・

確かに そのようにこそ言うべきである。信仰の次元を押し付けるのではなく こう経験的にこそ言うべきである。言いかえると このように 感覚的なもの・可視的なもの・経験的なものをとおして ものごとを知解する作業を敢行し 一方で 信仰(こころが伸びようとする傾きである)を確かめ合うとともに もう一方で 信仰を社会的(人間関係的)となして 言葉を語り合い共有すべきと言う。
ところが 吉本氏は同じ内容を次のように言う。

それは 《家族》の共同体が  《氏族》の連合体の内部で内閉的になり 凝縮して 独自な位相を占めるようになり

  • つまり スサノヲ領域が 最小単位としての人間の交わりの形態すなわち 《家族》の中において ひとつの落ち着きあるかたちを見出したことによって

もはや 観念の自然過程としての《遠隔対象性》を  《家族》の《壁》のところで阻止しうるまでに強固になったので 近親姦の《禁止》は発生したのだ・・・。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.26)

《遠隔対象性》とは こころの外への・上への伸びのことであろう。したがってここで次には 吉本氏が独自に提出する概念 《観念の自然過程としての〈遠隔対象性〉》について あらたに検討を加えて この小論をつづけなければならない。

3 遠隔対象性をめぐって

そして これがさしあたって 近親姦の《禁止》という観念の内在性を 正当づける いまのところ唯一の根拠であり それ以外のどんな理由も うさん臭いものにすぎない・・・。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.26)

前節の引用文に直接つづく文章である。
われわれは 《それ以外の理由》を提出しようとするものではないが だから上に述べたように この帰結じたいに――いまの文脈に分け入るかぎり――反対しようとするものではないが しかし このテーマないし論点の立て方には 異論がある。またこれが 初めからの課題である。

・・・近親姦の《禁止》という観念の内在性・・・

とかれは言う。このようなある種 大前提を取っ払おうとわれわれは言う。経験的なものごとをとおして論じるべきだとわれわれは言った。しかし 《禁止》といったような経験的なもの(規範)を 大前提として これが論証を企てるべきではない。また それ(規範的なアマテラス概念すなわち律法)が 《観念の内在性》であるとは思っていない。あるいは この《観念の内在性》は それを 論理的な初め=終わりとして論証するというのではなく それを行為の出発点において用いて言葉を文章を発することによって かの空中の権能を克服することができるとわれわれは考える。なぜなら この《内在する観念》などということ自体 ひとつのシンキロウである。

  • それは アマテラス概念であると一度言っておけば 済みとなることでなければならない。

《観念の内在性》を 論証するということは この観念(ないし こころ)が たとえ《聖徒たちの交わりと都》といった自己の信仰(だから 素朴にこころ)であったとしても――なぜなら 律法じたいは 聖であり霊である―― それは 《空中の権能》ないし人間の《自己の中心性かつ中間性》によって この世に自己が立つというほどのことしか語らない。
たとえば 《我れ考う 故に我れあり》というふうに 中間的な自己に自己が立つとそれが 《〔悪魔でさえそれに変身するという〕光の天使》に見えるのである。そこで 自己が世に立ったと思いなす。つまり アマテラス語に強くなったと思いなし これを偽りの力となす場合がある。
だから 《観念の内在性を論証するということ》あるいは 《〔たとえば近親姦の禁止というひとつの〕観念の内在性を初めに大前提とするということ》 これは 空中の権能に捕獲された自己を証すということのほかの事にはならない。それは 別の蜃気楼であり シンキロウの上塗りである。悪魔を論証したことにしかならないし 《そのようにして 内在する観念》じたいが――要するに 近親姦の《禁止》といった一般に《律法》じたいが それを人間の力の及ぶ内在性とのみ見るとき―― 悪魔の所産でしかないことになるからである。

  • 悪魔は 罪の制作者であり 律法は 罪の在ることをおしえるだけのものである。神から与えられたものであるということと矛盾なく そうであろう。
  • 律法は 霊であるが その文字(成文・観念)は 交わりにおける原始的なスサノヲ領域の軽視 逆に言いかえれば アマテラス領域の宣揚のためにのみあるその手段である。手段の宣揚というもっぱら アマテラス領域の側に一方的に立ったその再生産とそのシステムの回りまわって保守とは 自己が悪魔にも属(つ)いているという自己の誤謬を 上手に言ってこれを蔽うと同時に その誤謬へと互いに渡そうとしたものにほかならない。

だから 《観念の自然過程》ないし《人間の観念が持つ〈遠隔対象性〉》などといったかれ独自の概念(方法意識)を検討してみなければならない。むしろこれを用いて――これを論証するのではなく またこれを用いて他の経験的な観念を論証するのではなく これそのものを用いて―― 誤謬からの自立をはからねばならない。誤謬からの自立とは あの空中の権能がしんきろうのように自己を変身させて提出する光の天使から 自己を遠ざけること――知識はここからもたらされる――であり また 真正の光の天使はこれをさえわれわれ人間は 言葉にして用いて ――キリスト・イエスが悪魔を征服したのにつづいて――すでにこの悪魔から放免された者のごとく自己を見出して受け取り 理性的動物・人間の言葉に到達するということでなければならない。

  • 理性的動物たる人間の言葉は スサノヲ語を排除していない。

人は 内在する観念(しかし 心の外にある・そして空中の権能によって支えられての如くある心である)から 自己をどのように解き放つか。
ところが われわれは 《かれの策略をすでに知らないわけではない》。
したがってわれわれは 吉本氏が次のごとく 《観念の〈遠隔対象性〉》と説明するとき その概念と説明じたいが 蜃気楼であるのだよとすでに人間のともがらであるごとく 教えてあげねばならない。

以前に 人間の観念がもつ《遠隔対象性》という概念を提出したことがあった。これは さほど複雑なことを云おうとしたものではない。人間は 観念の過程にあるかぎり(この一条件も くせものである――引用者) つぎつぎに より《遠隔》にあるものを 対象として志向するものだといった程度のこである。ある一定の年齢に達した人間は まず 近親のところで 親や 親の世代と葛藤し 見下だしはじめる。これは まず親からはじまって 親の世代の全般にわたるから 父系と母系の親族一統が 親等の近いところ あるいは接触の頻度が高いところから 観念的な見くだし(つまり これも 蜃気楼である――引用者) あるいは葛藤の対象になっていく。つぎには 教師がいわば知的な近親としてその対象に択ばれる。教師は べつに血縁ではないが 観念的な対象としては 近親以上に近親なのである。

  • このような観念的な規定や認識は なにも物語っていないであろう――引用者。

親はくだらない のつぎには 学校はくだらない・教師はくだらないということになるが(経験的にこのような事例が なかには あると指摘しているにすぎない――引用者) この時期(青年前期)の人間にとって くだるような親や教師でありうるものは どこにもいるわけがないということになる。なぜならば《かれ》が観念的に否定し 対立しているのは ほんとうにはこの世界の全体であって

  • いや それはまず 私的な原始的なスサノヲ領域の全体であると言いかえるべきであろう――引用者。

たまたま 身近にいた親や教師は その都合のいい供犠にほかならないからである。

  • 自己のスサノヲ領域の否定に走る青年は 当然アマテラス領域を求め それとスサノヲ領域との均衡を含めて 模索しているのである。《親や教師》にこれを求めようとしても 半ばその人たちが大人であることによって満たされ 半ばやみくもに求めようとするときそれは いわゆる《甘え》としての求めにしかならないことより 失敗する。上の文章では この失敗の側面を 事の全面とした上での議論である。
  • けれども この失敗を 《相手の側が その都合のいい供犠にほかならなくなる》事態としてのみ規定するのは 青年の側の失敗の原因つまり《甘え――つまり スサノヲとしてのアマテラスへの自立ではなく 単なるあこがれ》を その規定者じしんが 事の全体として認めてしまったことになる。そして読者をここに(この誤謬に)渡そうとしたことになる。――以上 引用者。

つぎに 《かれ》の観念的な対象は 観念そのものの物質的な証拠である《書物》に移る。

  • この認識は 読み飛ばすこととする――引用者。

そして 観念の往路としては ここが最後のゆきどまりである。

  • 《観念》というのだから  《書物(文字)》をも越えると思われるが もしこう言うのであれば かれの言う《観念》は アマテラスの求道としてのそれでなく ただスサノヲの物体的な経験事例の観念化されたものといったほどの意味となる――引用者。

なぜならば 観念にとって 観念そのもの以上に《遠隔》にある対象は存在しないからだ。

  • しかし 近親姦の禁止といった律法形態でさえ このようなスサノヲ領域のただ〔否定的に〕観念化されたものを超えて 観念ないしこころを求めようとすることの所産であったとも言いうる。《遠隔》は ここでそれを今度は 内的なものとするならば 時間を越えて 無時間にも達しうる。そして このことは 吉本氏自身が知っていることである。――引用者。

うんぬん。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) pp.10−11)

吉本氏は この議論の締めくくりに次のごとく言う。

新約書の主人公(もちろんイエス・キリストである――引用者)はなにを云おうとしたのだろうか。人間の観念は いわば不可避的に《遠隔対象》を志向して どこまでも昇華することができる

  • このことで じゅうぶんであろう。経験的な議論であるなら。――引用者。

が 残念なことに それは 観念にとっては 《自然過程》にすぎないから 人間が現存在として 近親や 隣人や 他者に どう振舞っているかという内省と 無関係でありうることを指さしているのだ。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) p.12)

《近親や 隣人や 他者に どう振る舞っているかという〔人間の〕内省》がそもそも初めのかれのスサノヲとしての観念〔の内在性〕ではなかったのか 《内在性》というのであれば。 《現存在として》の内省は そのことのほかに 何も意味しない。
だからわれわれの言いたいことは こうとなる。《観念にとって〈自然過程〉にすぎない》もの――そしてそれは 《わたくし・市民》としてのスサノヲの経験に発する観念であろう――から 時間を越えた《遠隔対象》(あるいは われわれ人間が対象であると言う)を 《おほやけ・公民》としてのスサノヲ(つまり これを独立させれば アマテラス)をとおして 知る(さらにもしくは かれ=遠隔対象によって 知られる)ことが出来る 言いかえると アマテラス領域の探求は スサノヲの自己の探求であるにほかならず アマテラス領域は ほかならぬ自己の中にすでに初めにあったことでなければならない。しかも アマテラス領域は 《公民・社会科学主体》として 自己の内省あるいは思想的営為にとって 光の天使であるが これを 自己すなわちスサノヲ自身の中に求めてこそ ここに見出してこそ  《遠隔対象を求めるそうとすれば観念の自然(ないし文化)過程》は終えられる。終えられるが如く 始められる。こう言わねばならない。
逆に もっぱらアマテラスである人は スサノヲの自然過程を離れるが如く だから(たとえば律法道徳を根拠として 見せ掛けとしてでも 世俗的な人間の自然過程を離れるのであるから) 空中の(雲の上の)権能によって支えられてのようにかれ(その権能)の変身した光の天使を着るからである。これに注意せねばならない。社会的な役割としてもっぱらアマテラスとなる人(公務員・政治家など) またはそのアマテラスの予備軍(たとえば評論家)――この後者がくせものだと思うが――は 空中の権能によって この権能者が罪(あるいは 死)の制作者でありかつかれ自身 肉体の死とは無縁であることをとおして その像・この鏡を見ながら 罪の共同自治を主宰するのである。罪の共同自治じたい その行為は 現実である。この現実に その主宰者であると自認するアマテラス社会科学主体の主体性・主宰者性を光の天使としてそのように衣を着せるのが アマテラス予備軍である。
これが 罪の制作者との饗宴であり この空中の権能のお出ましを迎えるかれらは 罪の共同自治(つまり 社会である)になお輪をかけて 衣を着せようとする。これが 蜃気楼である。だから 《内在する観念(時に 律法)》を そのものを大前提にして 論証しようと動く。われわれは 容易に この《経験的なものから耳に響く言葉のメロディを見つめてはならない》との教訓を引き出すことができるであろう。《新約書の主人公――それは 世界の主人公にならざるを得ない――》が言おうとしたこと それは この一点に尽きる。
スサノヲにとって アマテラスの探求そしてそれとしての光の天使の省察 これは 自己すなわちスサノヲ自身の中にこそ すでに初めに与えられていた だから 実は スサノヲであるわれわれ一人ひとりが 神から探求されていると考えられる。
ここにおいてわれわれは 書物の解体学は それが蜃気楼であるなら 容易に自己解体するのを見ると表現することができる。われわれは かれの策略を知らないわけではない。

《神》とは 自己意識の上限にしかすぎないし 《神への怖れ》とは 《天上》へまで延びた自己意識にたいする自己の怖れ以外のものではありえないから。
書物の解体学 (中公文庫 よ 15-1) 〔カール・グスタフユングに関する論考の・そして書物全体の最終句。〕p.355)

という単に 《観念の内在性》の閉鎖内在的な論証にしかすぎない方法意識をもはや惜しげもなくわれわれは 闇に葬ろう。空中の権能の供犠に または かれ悪魔に仕える悪霊たちの供犠に そして時にはアマテラス予備軍の供犠に 再びはならないために。

参考:アウグスティヌスの一例

《サタンも光の天使に擬装するのだから》欺かれて間違った道に誘われないよう よく注意して識別しなければならない。しかし たとえサタンが肉体の感覚を欺いても 各自がそれによって信仰生活をおくっているところの真実の正しい考えから 心がはずれなければ 宗教〔生活〕に何の危険もないのである。あるいは サタンが善であるように擬装して よい天使にふさわしいようなこと(純粋思想)を行なったり 言ったりして 善だと信じられたとしても それはキリスト教信仰にとって危険で有害な誤謬ではない。だがサタンがこのような〔自分の本性とは〕異なった手段によって それ自身の道に導き始めるときは サタンをよく識別して その後について行かないように 十分 警戒することが必要である。
しかし 神が導き かつ守りたもうのでなければ 何人の人がサタンのすべての致命的策略を避けることができるだろうか。〔しかしながら〕このことの難しさそのものは 各人をして自分自身に望みを置いたり 他人に望みを置いたりすることを許さず 神がすべての人にとって望みとなるようにし向けるという点で 有益である。事実 敬虔な人で このことがわたしたちにとってかえって益になることを 疑う人はひとりもいないのである。
アウグスティヌス:《信仰・希望・愛(エンキリディオン)》第三部五章四〔16:60〕〈サタンが光の天使に擬装する仕方を見分けることは有益である〉赤木善光訳)

(つづく→2005-05-15 - caguirofie050515)