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哲学いろいろ

                  ――シンライカンケイ論――

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第四部 風と象と羊とねじまき鳥と           ――村上春樹をめぐって――

2005-05-04 - caguirofie050504よりのつづきです。)

第六十二章 井戸の上に吹く風・・・。

Ⅷ ねじまき鳥クロニクル

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)

(75) この作品には 第三部以降が予告されている。その含みをもちつつ これまでの風の物語を ひとまず締めくくることができるものなら そうしよう。
(76) 妻のクミコが 主人公のもとから―― 一たんとしてでも―― 去っていく話である。前作《国境の南、太陽の西 (講談社文庫)》での有紀子とそして頑固な語り手二人の夫婦物語の続編ということになる。(あるいは 姉妹作品という見方もしうる。)遠くは 《ダンス・ダンス・ダンス(上) (講談社文庫)》でのユミヨシさんと語り手との共同生活からの続編である。
小林緑との関係にまでさかのぼるかどうか?
資格やそれにまつわる意味での不安の問題が 単に世間向けの説明であるその反面で 主人公の頑固さにかかわって世間を超えるある種の志(仏教の《出世間》)の問題であるとすれば さらに遠くは 鼠物語に源を発している。その水源は むしろそれに対する批判的なかかわりだとすれば 生活日常に視点と場とを置くということであろう。
もはや羊男が顔を出さないとすれば つまり出す必要がなく日常経験の上で 人間関係論を展開しているとすれば それは風にかかわる出発点に ある種の自信をもって 立ったことを意味する。ただし小説制作上のきっかけは 別個になお頑固さを維持して 《井戸》ないし無意識が 取り上げられている。
このような舞台の上に 一連の小説を通じて一つの系譜となる主人公の――あくまでかれ個人の具体的な――経験現実が 物語の世界いっぱいに 繰り広げられている。
(77) 事件が 試練のきっかけとして 妻クミコの家出に設定される。その家出のきっかけとして かのじょ自身の不倫が想定される。
この一本の筋に関する限り 話はかんたんである。事件に遭い この事件を認識しようとして 第二部の終わりに到る時点で 主人公は 基本的に(ということは ある種これについてこそ頑固にばかみたいに) 出発点のシンライ関係を信じている。

  • 出発点の無力に頑固であることは無理に妻を引き戻そうとしたり やけになったりしないということである。

こちらも あほうの如く述べれば 風の起こることをかれは信じているということである。クミコの戻って来ることを確信しているというのか それとも結果はどうであれ 何ごとかを確信しているというのか。大筋での内容は これに尽きる。
(78) 個々の出来事にかんする内容は 作品が未完であるので ここでは省こうと思う。第三部のひとつの章が すでに発表されているので これにかんしてあとで 論点となる内容(《井戸》の扱い・それをめぐる議論)を考えておくことにした。
その前に 個々の内容を離れて 作品じたいについて言えることは 次のようだと思われた。
(79) 語り手は というよりこの作品にまで到った段階では 語り手をして語らしめている作者は 空虚なる志・人間の不完全性を前提として出発点の動態を いわゆる文学としての一回きりの出来事なる時間過程において描くにあたって 欠落・不安そして自由への頑固さにかかわる事件を想定するというとき その動機・ねらい・目的を どのように抱いているのか これについて考えてみたい。
単純な答えは それら動機などの具体的な内容や方向など 少なくともその着手する初めには ないということであろう(村上春樹インタヴューなど)。従って 結果的にどうなっているか どうなったと考えているか この点をめぐってとなる。もし批判にも及ぶ場合には 外からの批判になる。そう断わりつつ あえて進めてみたい。
(80) すでにこの第一部および第二部にかんしても 焦点は 井戸をどう扱うかにある。もう一つの焦点は 主人公の頑固さにある。また 頑固ゆえ 無意識にかかわる井戸=イドをきっかけに持ち出してくるとするなら 二つの焦点は 一体である。
すなわち一体となった一つの論点は 煮詰めて言って 《不信》という問題であるだろう。だがこの問題は 実際にもそして虚構表現としても 限定されていると見なければなるまい。このことを以下において確認しておきたい。

  • 前作《国境の南、太陽の西 (講談社文庫)》で 主人公夫婦は あれだけコミュニケーションを持ち合ったのである。小説の話にならないからといって 同じ主題を―― 一度 解決を見たあと――繰り返し扱うというのも 難しい。

(81) たとえばこうである。《欠落感》は 風の出発点にとっては《無力〔なる有効〕》ということであろうが この想定を持ち出さなくとも 《欠如》という意味をも含んだ《自由》のことと考えられる。同じく風の想定に立てば 存在としての生命原則およびそれの保持としてのシンライ原則 これらが 《自由》の――つまり《有効であろうが無力》の――もとにある。そしてやはりこのような想定を持ち出さなくとも自由ないし欠落感は 不安であり それが存在の不安であるなら――存在もしくは生の主題のもとに――死の主題もかかわってくる。
もしここで生死の問題を 人間の意識を超えたところに捉えようとするなら 想定上は風の歌になるか 経験思考の上では 無意識もしくは本能の問題にたどりつく。すなわち《井戸》をめぐる問題は その実際の振る舞いをも含めるなら 不安の解消なり 一般的に生活のいとなみなりにかんして 経験事象の上でのきっかけとなりうる。
けれどもこの精神分析にもとづく経験科学的な理論なり説明なりを超えて 風の物語を想定するかどうかが 最後に残る。想定するかどうか・すなわち具体的には風の歌を聞きうるかどうか これをめぐって 自由に 主人公は頑固なのだと思われる。もっぱら《井戸》に固執しそれを超えないとすれば シンライ関係論としては 《不信》という立ち場ないし問題が 現われる。《井戸》へのもっぱらの沈潜とそこからの原始的な力の発現とにシンライをおこうとすることは 自らの生が つねに発展途上にあるしかないという《部分的な信》つまり《不信》となる。というよりも 井戸をめぐる経験事象に対しては 《考える》のであって 《信じる》は 非経験・非思考・非対象に向けてのことだからである。
(82) 従って論理的には この不信の立ち場は成り立たない。つまり一般論としてなら 風の歌を聞いたとその主観真実において主張する有風の立ち場と 聞き得ないと同じく主張する無風のそれとが あるのみだから。無風としての無信は 《信じないと信じる》と言っていることになるのだから。
《不信》は 現実には 《経験思考上 納得できない》という意味に限定される。従ってこれら有風論と無風論とをまとめて 想定上われわれは 風の出発点を立て これを物語の中に尋ね求めた。つまりこのわれわれの議論は 一般論であることを免れず 言ってみれば野暮である。風の物語にかんして シンライ関係の出発点を求めて旅をするその発展途上の過程は いづれ――あくまで個人個人の主観真実にあっては―― 有風論か無風論かいづれかの具体的な立ち場に行き着くと見立てているということである。この野暮なる一般論を超えて 実質的に物語を編もうという作家は たとえばその事情を次のように説明している。(38)節に引いたと同じ文章の中で――。

とにかくなにはともあれ 僕の観察力や判断力をあてにしないでほしい。僕の文章に出てくる人物や団体や都市や国家や年号や宇宙や歴史や思想や何やかやそんなものは すべて フィクションである。外見的な類似は偶然の一致である。僕は果てし無く続く(あるいは続くように見える)薄灰色の人生のある過程で 《まともな判断力を持つ自分》という像を捨て去ってしまったのだ。まるで壊れた安物の傘を喫茶店の傘立てだか公園のベンチだかにそっと置き去りにするみたいに。
村上春樹:〈ローマよ ローマ 我々は冬を越す準備をしなくてはならないのだ〉 新潮 1988・2)

ちなみにこのローマ日記の部分は 南欧滞在記を編んだ《遠い太鼓》におさめられていないようなので 注目したいと考えたものである。つまり 一般的に論理を及ぼそうとするシンライ関係論は 野暮であって あたかも《壊れた傘》の如くなのである。すなわち 合理的に考えて帰結されると思われる《有風論ないし無風論》いづれかの立ち場はまだ《傘》であるにすぎない。しかももし風の物語という視点と主題とを立てたときには これまでに捉えた内容として 有風論か無風論かいづれであるにしても 人間存在にとってシンライ関係なる出発点(それは動態)の問題であるとは 整理することができるはずだ。
じっさい一連の作品は この出発点関係の確立に向けて歩んできたと考えられる。そして 志の空虚を認識し さりとて どこかあらぬところに幻想を見るようなその意味での《脱出》としての自由論に行き着くのではなく むしろ死の主題を解き生の主題に到りつつ 《いま・ここ》に帰りとどまり さらに日常生活での《風の旅》にまで たどりついている。
ここでは 旅の行方にかんして・発展の方向にかんして 一定の転換さえなされたと思われる。空虚なり過去や死なりまたそれらに対する無力 これらを飲み込んで いま現在の《わたし》が その主観真実を 再形成していく そのような一段新しい局面での《物語り》である。だから――だから じつは―― この上に立っての《頑固さ》なのであり それは 表現上の直接には 非経験の風にではなく 経験上の井戸にこだわりつづける《不安ないし不信》という事態なのである。
言いかえるなら 《僕の文章に出てくる人物や団体や〔・・・〕何やかや〔・・・〕すべて フィクションである》それら個々の事項・事象にかぎっての不信(つまり 《歪んだ観察力ないし傾いた判断力》)であり 不信(不条理?)をめぐる頑固さなのであるだろう。
ひとつの見方としてこのように提出して 不信論ないし井戸の話を取り上げておこう。
(83) さて《井戸》が ひんぱんに現われる。これは 精神分析にかかわっていく。ごくありふれたと言ってよい日常生活を舞台とする中に 妻クミコの不倫と家出という事件が起こる。この事件のきっかけも 井戸であろうし その事件を認識し解こうというときにも きっかけとして井戸である。
まず きっかけなら 何の問題もないであろう。またこの時の井戸は ノルウェイの森の直子にとっての深い井戸とは明らかに別であろう。その死の主題が生の主題のもとに(そしてまた学生に比べるなら遥かに世間のしがらみや論理に取り巻かれた日常の社会生活の中で) 新たに引き受けられている段階だから。けれども そうとしても この作品は その全体を《井戸》が貫いているとさえ思われるほどである。そしてここには 結果的にせよ 精神分析の理論説明にもとづくというはっきりしたねらいさえ 一面では あるように捉えられる。

あくまでそのような傾向としてだが この一傾向を取り上げてみたい。
(84) ここでは次のように わざと けちをつける話から入ってみよう。
主人公(オカダトオル)の住む家の裏には 路地があって そこに面する一軒の空家の庭に 井戸がある。主人公はここに入り込み底まで降りていって 自らの歴史にかんする主観真実の物語を編集しなおそうとする。
編集しなおそうとして 自らの経験現実を振り返り 反省もしつつ 今後に備える。そのときには 超常現象のごとく 井戸抜けあるいはホテルの一室からの壁抜けが 体験される。そのようなフィクションを交えつつ 主観真実を――経験現実的に―― 編集しなおしていくわけである。
このとき その場所が どうしても井戸でなくてはならないとは限らないであろう。あるいは そうではなく かれの位置する空間が現実の井戸でなくてよいとして しかし 人間に内在するイド(原始的自我?)もしくは無意識(自我や超自我の自己意識を超えたところ)でなくてはならないのだと 反論されれば どうであろうか。そうであってよいと答える。そのような精神分析の説明であってよいと同時に それだけのことだと答える。どうしても井戸という場所でなければならないとは限らない ということと同じであるから。人間存在があれば 無意識や前意識や リビドーや本能など(つまり イド)のことが 分析上得られる。そしてそれはおそらくそれとして 妥当であると考えられる。これのみである。
主人公の経験現実上の説明真実は その分析上の認識なくしても 成り立つであろうと言う意味である。そうでなければ あたかも《無意識ないし無意志 への別種の意志》がわれわれを支配するという話になって 鼠や影の物語に後退する。
つまりこのように けちをつけたのは 作品の中に精神分析の占める位置が 相当大きいものとなっていると思われるとすれば その傾向から来る誤解を解くためである。
(85) もし想定上の風の議論としてなら こうなる。リビドー(性衝動あるいはそれと支配欲とがからんだ人間という社会的な生物存在のちからと動き)で経験事実が分析して説明づけられることと シンライ関係を求めて自らの存在の全体として主観真実の物語を編みつづけることとは 別であろうと。一つの分析道具として・そのような脇役としてなら 精神分析も 活用しうる。そのときには 井戸がイドとなっている。そしてその場合にも 井戸=イドじたいが 風の歌そのものにかかわるとは限らない。というよりは 日常性としての《いま・ここ》に立ったからには 風の歌にかかわる経験現実は むしろこの世のすべてなのである。
たとえその中で特に井戸=イドに焦点をあてるとしても そのことを〔むしろここでは〕志す人と行為とがあるはずで なおその上に それらを含めた経験世界全体の中で あたかも自らの存在のねじを巻こうというかのように主観真実の物語を 再形成するいとなみがあるはずなのである。
(86) もう一つの例証をあげることができる。間宮中尉外蒙古でそこへと追い込まれ落ちることになり 本田さんによってそこから助けだされる井戸 これの位置づけも 同じようであるだろう。間宮中尉が語る。

・・・私(間宮中尉)は何もせず ただそこ(井戸の底)に座り込んでいました。しかし私は無意識(!?)のうちにあの一条の光を待っていたのです。一日にほんの僅かの時間この深い井戸の底にまっすぐに射し込んでくる あの目もくらむような太陽の光です。・・・
ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫) p.298 カッコ内は引用者)

と象徴的に語られ そこで《至福》を体験したという井戸(=イド?) これは そのあと・その上で このようなイド体験をどのように――主観真実上――活用するかが 問題となる。一般的に言って 風の歌は 実感主義・体験至上主義なのではない。そもそも非経験・非対象である。そうでなければ シンライ関係論は 成り立たない。人間の数ほどの信頼感覚論といった思想あるいは常識(?)が 横行するのみとなる。
そして風の歌は 現実に空虚・欠落感をもって出発していたのだから 至福といえども経験上の充実感によって全面的に・絶対的に取って代えることはできない。
その間宮中尉の井戸体験が嘘っぱちだと言おうとするのではなく その充実感も 他面での欠落感と同じように きっかけとして活用していくのが 全体としてのわれわれの人生(風の歌なる旅)である。間宮中尉がそのとき 《死にたいと思いました / 自分はこのまま死んでしまうべきなのだと思いました》(第一部 p.299)というようにも説明する体験を 死の本能として分析しようと 生の本能としてとらえようと たとえそのようにイドが作用しているとしても それだけでは われわれの人生としての時間は成立しない。われわれの切望する経験現実の全過程には まだ到らない。その出発点のきっかけは 何もこの一体験に限らず あらゆる経験事実にあると見るところまで到って 出発点に立つのである。
そのとき 風の物語がほんとうであるなら この一つひとつの経験事実が なおそれのみでありつつ わづかにシンライ関係の経験現実へと開かれていくのである。――開かれた末に 無風なり不信だというのなら それはそれで ひとつの世界観である。それについても 説明真実を問い質しあっていく作業が われわれのものである。
なお あの羊に取りつかれてしまった鼠は 間宮中尉とちがって 大きくは同じような至福の体験を前にしつつも それの指し示す方向(《完全にアナーキーな観念の王国》?)に危惧を感じて 自身の徹底的な弱さゆえに その体験をもたらすちから自体を飲み込みつつ 自死をえらぶ。《宇宙の一点に凡る生命の根源が出現した時のダイナミズムに近いもの》(《羊をめぐる冒険(下) (講談社文庫)》p.203)を 飲み込みつつ拒否し それもろとも 自滅の道をえらぶ。類似性を粗雑にとらえただけだが このようなイドの作用は 何らかのきっかけになるというのみであって 風の歌は それ以後のこと・または 同時でありつつ別のことに属する。

  • イドは 英語では it とか that であるから 日本語では 《あれ・あの世》のことである。わけの分からぬものに触れたといった意味あいで捉えるとわかりやすい。

(87) 余談ふうに。十二人兄弟の末っ子であるヨセフは 将来兄たちの上に立つとの夢を見て これを話して伝えた。父のヤコブにいちばんかわいがられていたことも手伝って ヨセフは それを聞いた兄たちに憎まれる。ある日 荒れ野の中の井戸(水のない穴)に とうとう 投げ込まれてしまう。
そこへ 隊商がやってきたとき 兄たちは 何も死なせることはないからその隊商に売り払おうと相談していたところ 別の商人たちが通りかかってヨセフを穴の中から引き上げ かれらがヨセフを先の隊商に売ってしまう。ヨセフは そうしてエジプトへ連れて行かれる。
兄たちは ヨセフが野獣に食われて死んだことにし その旨 父ヤコブに告げる。父の嘆きと そしてヨセフのエジプトでの成功の物語がつづく。とどの詰まり 初めの夢が現実となる。(《旧約聖書 創世記 (岩波文庫)》37章)
このような井戸は 人間にとってのイドともからんで 人間の志(自我 / 超自我)が それ自らの押し売りも安売りもせず それ自らをわざわざ積極的にはたらかせることもなく じっと待っていれば 空虚なる経験現実もそれはそれ自体で そこにわれわれの生きる道を開いてくれるかもしれないとの教訓を与えるかと考えられる。けれどもそれだけである。
(88) 確かに そのじっと待っていることは あの主人公(オカダトオル)が井戸に入り込んでおこなったように 内在的なイドの発現をあたかも待つことだとして 説明づけうるかもしれない。けれども その井戸=イドも 大きくは風の物語の進展(つまりわれわれの生活)にかんするきっかけなのである。このきっかけが 風を代理しているわけではない。つまりわれわれの人生そのものではない。つまりむしろ じっと待つことを選択する(もしくは 追認する)ことが伴なわれており これは いわば羊男ないしねじまき鳥のもとに説明される意志または現実なのであって 井戸=イドのほうではない。もし仮に いやいやそうではなく この井戸=イドこそが 最広義に 風と同じひとつの象徴表現なのだと言うとすれば それは 精神分析の経験知を離れるのだから 話はわかる。

  • 上にも触れたように 無限定に 《イド=それ または あはれ Ah-ness》とでも捉えているなら 風とほとんど同じである。

風は そうとすれば イド(原始的自我)や自我や超自我の上を吹く。快楽原則とも それを克服する現実(社会性)原則とも 別だとしなければならない。羊男が説く《つながり》は それら経験的な出来事としての二つの原則のほかに 別のほうの物語にまで達する。《井戸》は そのきっかけでありうる。
ねじまき鳥は そうとすれば むしろ架空のシンライ原則のねじを巻こうというのであろう。くどいように言えば このとき 井戸・イドは きっかけにはなっているのであろう。実際 現代人にとっては そういう場合が多いのかもしれない。ただし やはり野暮を承知でいえば イドは 快楽原則の問題に限られる。好悪原則の感情 その心理関係。また社会性の場では 演技もしくは建て前・偽善の原則によって 快楽原則を 一方で克服しつつ 他方で実現させようとする。わづかに《至福》体験が これらに花を添える。一瞬のそれが 多少とも長い期間にわたって 憎悪や敵対感を和らげることがあるかもしれない。また 間宮中尉が その後の人生で もはや静かになって イド体験に圧倒されつづけているとしても イド史観は 風の旅のまだ形成途上であると言うべきではあるまいか。そんな減らず口をたたいてもよいように思われる。
なお ノルウェイの森の直子にとっての井戸は どうとらえるべきであろう?一言別様に触れるとすれば もし直子に《蛍》が象徴的にあてがわれているとするとき それは好悪原則や偽善原則から成る経験事実の領域を 離れたことにまちがいはないが しかも これは 経験事実を開かれた物語の世界として捉えようとしてではなく 風ないしその歌をあたかも一個の実体として(つまり まちがって)立て その象徴を《蛍》で説明表現したことになる。
きびしく言えば 着飾った死の主題となる。そして逆にいうとこれは 生活者一般も 日常普通に 《風》を想定することがあるという前提を物語る。それに《蛍》をあてることは  《井戸》そのものをあてることと同じく まちがいである。この場合の《井戸》は 《草原の雑木林との境界》にあって 無意識としては あたかも経験(われわれ)と非経験(風)との境界にあるかの如き錯覚を与えるから厄介である。錯覚でない境界とは 《物語》の全体である。
(89) つまり作者は――推測するに―― 特にこの《ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編 (新潮文庫)》では 文面上 この精神分析の話題にこだわる傾向を見せ 頑固であるかに思われる。けれども その推測は必ずしも当たらない。
一言で言えば 作品の中の個々の人物や出来事やそのようなものは すべてフィクションであるのだから 《とにかくなにはともあれ 僕の観察力や判断力をあてにしないでほしい》という説明に従おう。 《井戸》をそこに位置づけよう。わたしは壊れた傘をわざわざ差し出した。余計なお世話をしたところで 《音もなく海面を叩く雨》が降り出しそうなら 鼠もジェイズ・バーの経営者も 羊博士も黒服の秘書も キキも五反田君も 島本さんもイズミも みんなみんな《クロニクル》の中に 集まって来ているであろう。
――この眠りを妨げる不愉快なおしゃべりをつづけるのは誰だ?
――誰か 扉の外で呼んでいるよ。
――まだ何か用か?
――誰かと思ったら俺と同じ山師ではないか?
――よく来てくれたわね。
――待ってたよ。
――わたしは ここにはいないはずよ。
――なぜ? どうして?
村上春樹は こんな物語をわれわれに書いてくれた。第三部を待とう。われわれ自身も ねじを巻きつつ。
(つづく→2005-05-06 - caguirofie050506)