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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第三部 風の歌を聞いた      ――吉本ばななをめぐって――

2005-04-26 - caguirofie050426よりのつづきです。)

第五十二章 ひとつの暗闇の原則

(1994・12・29)
つづいて

キッチン (角川文庫)

キッチン (角川文庫)

を読んだ。
ここでは わたしの批評は ひとつの妄想であることを断わっておきたい。
単行本は三篇の小説から成る。最初の二編《キッチン》と《満月――キッチン2》における桜井みかげ田辺雄一の関係 そしてもう一篇《ムーンライト・シャドウ》における さつきとの関係 これらを知ると 《TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》における まりあつぐみの関係がよく分かる。死もしくは死の問題とのかかわりを介在させて言えば まりあにとって つぐみが生来 身体虚弱でこの《向こう側》の世界に直面することを経てきているということが それら三対の人間関係に共通項をなし ひとつの焦点となっている。
みかげにとっては 父母と祖父そして祖母を次々に亡くしていき さらに親代わりとなった雄一の父(その時には《えり子》と名のる《女性》)をも亡くしたことが その焦点である。さつきにとっては 等を事故でなくしたこととともに 等の弟であるがその恋人のゆみこを同じ事故で亡くしているといった事情 これがそうである。
従って整理するなら 《向こう側》問題は ① 身体虚弱ゆえの死の問題を介して つぐみとまりあの関係 ② 恋人の死を介しての さつきと柊の関係 ③ 身内の死を介しての みかげと雄一の関係 これらにそれぞれ絡むかたちである。
TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》では まりあとつぐみの間に 信頼感覚の醸成をきっかけとして かつそれを内容とするその同盟関係がきづかれたと見たが(ただし そのように書かれているのではない) これら上の三つの場合をとおしてとらえるなら ①②③いづれの関係においても 要するに それぞれの一対が 考え方としてむしろ 同一人物であると思われた。つまり 互いに分身の関係にあること これが ひとつの起点をなしている。あるいは 核心にまでなっていると思われる。――この意味で 《TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》の主題がよくわかる。
このような共通点が 必ずしもわたしの議論の焦点になるのではないが(それゆえ これ自体を例証しも発展させもしないが) 吉本ばなな論を書き継ごうとわたしに思わせた。
まず さらに別種の共通点をとらえるところから 始めよう。内容として 上のひとつの共通点と思われたことと 別様だというためではなく。

いづれの作品においても ハッピー・エンドである。元気を回復し 新たな生へと出発する決意とその姿勢を実現させて 物語は終えられる。このことにまつわってであるが

(L) 私は昔からたったひとつのことを言いたくて小説を書き そのことをもう言いたくなくなるまでは何が何でも書き続けたい。この本は そのしつこい歴史の基本形です。
キッチン〈あとがき〉)

という同一主題を扱うという共通点である。作者の声を 文字通りに取ってよいと思われたのだが このような・すべての作品を貫くと思われる一つの姿勢が 最初に感覚的にも印象づけられる。

  • この時なおも この《作者》と ばなな氏本人とを 区別していることは肝要であろう。

このように言うからには その主題が 各作品に共通であると知られる。この《たったひとつのこと》とは 何であるか。果たして そうであるかどうかも議論しつつ 見ていこう。そして 同じく思想(生活態度)の問題として議論するのであるが ここからは 作品だけに限らず 作者の姿勢にも かかわると思われる。
とはいうものの 共通の主題はすでに明らかにされている。

(M) 克服と成長は個人の魂の記録であり 希望や可能性のすべてだと私は思っています。私は 日常を激しく または静かに戦いながら良くなってゆき続けるとしか思えない友人知人をたくさん持ち 本当はその人々すべてにこの私の処女・・・単行本を捧げたい気持ちです。(承前)

かんたんながら これが《たったひとつのこと》について説明された内容である。それでは 《克服と成長》あるいは《日常を激しく または静かに戦いながら良くなってゆき続ける》とは どういうことか。
TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》では この《個人の魂の記録 / 希望や可能性のすべて》が 人生演技説となっているとわたしは捉えた。演技という表現は必ずしも適当であるかどうか なお考え進める余地を残すと 今回思われつつ とりあえずこの見方を引き込めないで 話を進めたい。ただし 人生演技説の内容を 次のように補うべきであろう。――演技は方便である。克服と成長 もしくは ものごとの正確な理解と判断 これのための方便として活用するというのが その実質的な内容であると。
しかしながら こうなると 批評じたいについても 疑義が生じたのではないか。――この点をも吟味しつつ進めるのであるが 今の問題は 仮りにわたしの批評が見込み違いであったとした場合には 逆に わたしの主張のほうの内容に つまり信頼原則のほうに ばなな思想も 一歩も二歩も近づくということになる。
演技が方便であると明確に条件づけて捉える場合には 演技者のちからとその演技の出来具合いが問題なのではなく また その演技によって社会的に有力になるのが目的なのでもなく あくまで 動態としての出発点を生きる《わたし》たちの人格関係が 問題なのだと唱えたということである。日常生活において 個々の登場人物をめぐって――虫視図を用意するごとく――激しくまた静かに 信頼関係の確立へ向けて良くなってゆき続けるという《出発点》がとらえられ その《戦い》が描かれたと見なければならなくなる。この可能性に立って あらためて捉え直し その新たな理解を形作って行かなければならない。

  • この時わたしの得た結論は こうである。《TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》にかんする批評内容を修正するのではなく その同じ結論が さらに厳しいものになったというものである。ただ この新たな批評は 想像による推論を交えざるを得ず そういう性格のものではあると つまり ひとつの妄想であると お断わりしておかねばならない。
《向こう側》問題が新たな様相を帯びてくる

まず《向こう側》問題が 新たな様相を帯びてくると言うべきである。たとえば《満月》の中で 次のように会話される箇所がある。

(N) 〔父を亡くし〕打ちのめされた彼(雄一)を見つめて《どうも私たち(みかげ=私と雄一)のまわりは》 私の口をついて出たのはそんな言葉だった。《いつも死でいっぱいね。私の両親 おじいちゃん おばあちゃん・・・雄一を産んだお母さん その上 えり子さん(父)なんて すごいね。宇宙広しといえどもこんな2人はいないわね。私たちが仲がいいのは偶然としたらすごいわね。・・・死ぬわ 死ぬわ。》
《うん。》雄一が笑った。《ぼくたち2人で 死んでほしい人の近くに暮らしてあげると商売になるかもな。消極的な仕事人って。》
キッチン p.82)

これはもちろん 冗談ぽく話しあっているのである。しかもここに 思想内容を解く鍵がある とわたしは考える。人生演技説は それじたいが 中心となる問題ではなかったとわたしは知る。むしろそれ以上の厳しい内容があると考えるに到ってしまった。
ここからが 想像をたくましくした妄想である。
ところでわたしは わたし自身 たんなる表現としてなら 自己の人生を振り返って思うことは 次のようになる。上の引用文(N)の表現に合わせるようにして あくまで表現の問題としてなら 次のようにもなるという一例である。《私は自分を含めて人をみな死なせてきた。いな 誰もかれも 私は 信仰原理の上で思想原則の上で 殺してきた。》旧いわたしは死ぬという考えで 死に そして 生きてきたという意味である。このように表現するなら 作者・ばなな氏の思想内容に こちらから かなり接近していける。と思った。もちろん 違うということを述べるためにであるが 表現上 かなり拮抗したかたちになるのではないか。引用文(N)の内容をもし《たった一つの主題》にかかわると見て これの延長線じょうに一定の思想が導かれるとするなら それに対して 上のようなわたし自身の仮りの表現をまず提出する。
わたしの場合 旧い自己を死なせてきたというのは 意図的・意識的ではなかったが 結果情況としては 事後的に明らかにそのような表現もありうると思われることがあった。結果から見れば 実際――その考え方にかんする限り――積極的に《人》を殺してきたのである。少し自己の名誉のためにも補うならば 好悪原則の人や偽善原則の人あるいはガリ勉原則の人 これらの旧い自己を すべて積極的に死なせようとして 交わって生きてきた。と表現してみる。それらの人びとは 実際ほとんど この交わりを嫌い 去っていったと表現していい。このことをあらためて振り返りつつ――猛烈な反省のもとに振り返りつつも―― この思想原則を 自己のもとに確認しつつ 再び三たび肯定するようにもなったのである。すなわち 《生きてほしい――生きてほしい である――人の近くにあって交わると商売になるかもな。積極的な仕事人って》ということに表現上なる。事実 わたしと交わった人 その交わりから去っていった人はみな 生きていると一言 言っておこう。
もし表現じょうそうだとすれば 向こう側問題と絡む人生演技説にかかわった《死の消極的な仕事人》の思想表現との違いは どこにあるか。 
その前に 《表現上》と言ったこと・すなわち《表現の問題》というのは これもまた 一般に《演技》ということに近い。この点はどうか。出発点の無力の有効で 相対性の世界にとどまる ということは 出発点説も どこから見ても ひとつの想定であるにすぎない。これが 表現の問題である。この想定に発した表現の問題が 《演技》だというなら 信頼原則も明らかに演技説に属する。ただ その信頼原則の想定が 表現行為において うそ(虚構)を許容する〔はずである〕ことと そのうそを方便として積極的に用いることとは 別だと考える。大きくは相対性の世界にあって 虚構であることを免れない表現一般をめぐって その主観真実に 積極的に二重性が立てられているか・そうでないか この区別が区別であるとすれば 上で《人を殺す》などという仮りの表現をしたけれども それは 虚構であると同時に しかし 演技ではない。結果的に考え方の上でそう(《旧い自己の死》というように)表現しうるということで 《キッチン (角川文庫)》に現われた別種の《向こう側》理論(N)に 話のつごう上 対抗してみる。本音と建て前との二重性に挑戦しつつ物騒な表現をしてみたのだが これは 二重性ではない。その限り 演技ではない。
それゆえ 旧い自己にかんして これを信頼原則は 積極的に死なせようとする結果情況にあると表現する。そのとき同じく結果的に表現一般に関して 許容していざるを得ない嘘を 消極的には用いていることになるのかもしれない。出発点に生きて欲しいと思うからである。ここに二重性はない。だから 少なくとも引用文(N)の表現(字面)の上で語られた《経験事実上 死んで欲しいことの消極的な仕事人》説とは 百八十度ちがうと言ってよいと思う。だが まだ 似かよっているかもしれない。
つまり もちろんこの仕事人説は 単なる冗談であろうし または そうとすれば 別種の二重性から成る表現であるのかもしれない。なぜなら この場合の二重性は 本音においては 生きて欲しいということであり 建て前(表面)においては 冗談としての《私たちの周りで人が死ぬわ 死ぬわ》である。
しかもこの冗談もしくは 二重性の全体としての思想表現にかんして そこに仮りに故意にでも 一つの思想原則を見ようと思うなら それは 好悪原則かつ演技原則についての自己確認とその強化なのだと思う。あるがままでいい 成るように成るでよい という自己の原則の強化(その意味での絶対化)ではあるまいか。その証拠に・そのために 物語はすべて 幸福な結末を迎えるのである。ハッピー・エンドにいたるべく 《良くなってゆき続け》また生き続け その他面で 極端にいえば その克服と成長の仲間であったと思われる人びとの中から 《死ぬわ 死ぬわ》という事態が設定され それとして描かれ そのような向こう側理論もしくは演技説が 捉えられている このようにわたしは考えるに到った。妄想である。
そして しかもその点では はっきり思想内容が 違ってくる。そこでは 出発点のあり方が まるっきり違っていると言うべきであろう。最も意地悪くいえば 向こう側へ去っていった人びとのことにかんして 演技による成長論者は 明らかなかたちで割り切るという思想だと思われる。
TUGUMI(つぐみ) (中公文庫)》と《キッチン (角川文庫)》(あわせて 三作品ないし四作品)はいづれも 死に到った人びと(もしくは死の問題)への鎮魂歌なのだと結論づけることとなった。割り切った結果 そのような哀悼としての《個人の魂の記録》なのだと。これが 冗談としての・表面に現われた言葉としての《死の消極的な仕事人》の表わす内容である。幸福な結末を迎え 生の決意に生きていく側の人びとが描かれたことも もしこの表面と同じであると仮りにすれば どのようなことになるか。《希望と可能性のすべて》が もしこの表面での表現(かんたんには ハッピー・エンド)にあるとすれば その思想内容はいったいどういうことになるか。本音での《生きて欲しい》と同じ内容であるのだから そのときには 二重性がなくなって 信頼関係の主題が追求され まさにその営為が物語に描かれたと見て よいのかどうか。《消極的な仕事人》の側が 勝利を得たと言っていると見るとすれば どうであるか。
《演技者・仕事人》と仲良く交わり しかしながら悲劇の死を迎えることになる人びととは その演技=仕事の同盟者となることができなかった。一たん同盟関係の中に入ることができたという場合 それでも 力弱きゆえその仕事を果たすことができなかった。演技〔によって戦いつづけ良くなってゆき続けるため〕の自らのちからが 足りなかった。というように 結果的に 捉えられていないか。そのように描かれることになったと 捉えられないか。これを鎮めるための《魂の記録》が描かれたことにならないか。
邪推の限りでは そのような人びとは 方便としての演技が下手だったということになるかのごとくである。そのような人びとは つぐみやまりあや ここでのみかげや雄一やと 交わりさえしなければ どうなったかわからないのに 交わったからには その演技の稚拙とその戦いの微力とのせいで 次々と《死ぬわ 死ぬわ》という結果を迎えたと言っていることにならないか。割り切り方にそのような内容がふくまれたことになっていないか。
だからわたしの場合 自らを 旧い自己の積極的な殺し屋であると表現した。実際に死なせたわけではありえないが 仮りに二重性にもとづいて表現するならば 本音でも《生きて欲しい》であり 表面でも《生きて欲しい》となる。旧い自己に死ねば 新しい自己(あるいは 《無我》の出発点)に生きるであろう。向こう側にかんしては 割り切ったのではなく (何らかのかたちで自力行として 割り切ろうとするのではなく) 出発点のあり方に委ねたのである。それとしての虚構表現ないしその意味での演技に見出していこうというのとも違う。はずである。
逆に それ自体として別に非難すべきだとは全く思われない冗談としての表現=《死ぬわ 死ぬわ / 死の消極的な仕事人》 これが もし向こう側問題にかんする一つの割り切り(悟り?)につながっているとするならば そこには 一つの思想があって それによれば わたしたちの克服と成長は 《世の中を幻想ととらえて割り切ること / およびそれの主体的な表現行為を演技の中に見つけたりとすること》の中にある ことになる。そこでの《希望と可能性のすべて》は 出発点の信頼関係に対して自己を閉ざすということになるまいか。少なくとも 出発点にかんしては もはや無関心となっていく。演技の自力行に出発するゆえ。
《克服と成長 / 個人の魂の記録》と表現された主題が明言され提示されたことをめぐって それが わたしたちの出発点理論・信頼原則と同じ内容であるのではないかと見られることを恐れたのである。その結果 以上のような妄想〔だが〕を述べておきたいと考えた。
妄想とことわった上でわたしは 人生演技説にはその奥に 厳しい問題が孕まれ 恐ろしい内容が控えているのではないかということを 恐ろしい表現で 述べてしまった。これは わたしの主観真実である。主観真実であること またそれが自由であることは ばなな氏の小説とその《あとがき》に触れられた思想真実がそうであることに全く等しい。


ここでわかっていることは――わたしたちの考え方に即してなら―― 出発点の信頼原則には 哀悼や鎮魂歌はありえないということである。もちろん 自由だと言う意味であるが 自力行としてその表現におもむかないということである。仮りに超越的な言い方をすれば 出発点の《わたし》はその旧い自己にすでに死んでいるからである。《無我》ゆえである。
そして 批判抜きにしていえば 演技する人びとは それによって《日常を激しく または静かに戦いながら良くなってゆき続ける》その過程において 新しい自己に生きているというわけである。つまりそのようなかたちで やはり演技原則も 旧い自己にすでに死んでいると言っていい。

  • 信頼原則の側では そのように想定しているということ。ゆえに わざわざ哀悼や鎮魂歌の表現には 基本的に言って おもむかないということである。
  • 異常接近のごとく表現してみよう*1信頼原則の側の人が それこそ《日常を激しく または静かに戦いながら良くなってゆき続ける》とした時 かれは しかしながら その行く末に《無我》の姿を描いているのではない。かれは すでに今 〔旧い自己に〕死んでいるゆえに その何もしない闘いをおこなっているのである。そうであるからには 演技など 要らない。

このような交通整理の例において 《出発点》の想定は いづれの思想原則にもあてはまると主張したい。つまり普遍性の問題であった。つまり 互いに自由で対等な主観真実のあり方の問題であった。
以上の点は はっきりわかっている。つまりその限りのことは 妄想ではない。
この上で 話し合いにおいて一定の推論によっておこなう批評も 成り立つのではないかと考えた。このような批判を含んだ一発言も 自由に展開されうると考えた。
もしこれを 個人攻撃だと考える人は そうではなく 人生演技説の好悪原則なる本覚思想の有力に対する抵抗であると思って欲しい。譲歩する人が 抵抗しないのではないのだから。その意味での自力行(ふつうの個人の努力)を捨てたわけではない。
従って――蛇足の蛇足ではあるが 重要なこととして―― 一つの狙いは(批判じたいとしての狙いのほかのもう一つのねらいは) 互いに対立する思想原則のあいだで このような自由な発言 もしくはそれを内容とする民主的の話し合いが その過程的な場じたいとして実現するということ ここにある。話し合い過程の実現であると言っていいだろう。
その時には わたしたちとしては 信頼原則の側の過程的な勝利であるとは思っている。無力の有効が そうでありながら ある種の余韻として 社会現実的にも実効性を持つことができると考えてよいかもしれない。なおいまだ つねに譲歩しつつ 《希望と可能性のすべて》が そこに置かれたいると言ってよいかも知れない。

  • 希望をそのように(経験事態として) 捉えることは 少し生臭いものではある。

(つづく→2005-04-28 - caguirofie050428)

*1:異常接近のごとき表現:たとえば 《神は わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ わたしたちを通していたるところに キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても 滅びの道をたどる者にとっても わたしたちはキリストによって神にささげられるよい香りです。滅びる者には死に至らせる死の香りであり 救われる者には生命を得させる生命の香りです。・・・》。コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)――2:14−16