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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407

第二部 シンライカンケイについて――風の理論――

2005-04-16 - caguirofie050416よりのつづきです。)

第三十九章 好悪原則の社会は 《イジメ‐イジメラレ》の循環によって均衡を得ているのだろうか。

(1194・11・20)
三十五章から触れてきた《普遍的な原理》または《世界宗教》の問題 これについて考えておきたい。
これはまず初めに 積極的にこの《普遍的な原理》が存在するというために 議論するのではない。必ずしもそれを論証しようと思ってのことではない。第一種の好悪原則や第二種の偽善原則では 立ち行かないであろうと思われること しかもそれらに代わる別種の考え方・生き方が存在すると思われること これは 人びと一般に共通のものであり 実際に課題となっているのではないか こういったことのみ まずは確認しようと思う。そのようにしてこれは これまで保留していた《神もしくは言語(つまり むしろ 表現とその過程)あるいは 世界宗教(やはり 表現の問題として)》のことにつながる。
この章では 現在の社会において 別種の考え方が要請されているのではないか 第三種の考え方がありうるのではないか そのことをめぐって 現実の情況を確認することのみおこなう。
たとえば最近の新聞記事から直接 その問題状況に触れた内容を引用し それをもって共通の認識としたい。
たとえば《教室が冷たい――体罰社会の子供たち》と題した連載記事が目に入った。もうひとつの別の記事を引用しようと思うので これについては 表題のみ掲げておこう。

  1. 大人はわかっていない――担任の《暴力》 親には言えず / 改善求めて父母が授業監視
  2. 親の敵は親だった――《悪い子は殴られても〔仕方ないじゃないですか〕》
  3. 叩くのはやめた――生徒の大半は理想に共感
  4. 沈黙するよい子たち――今も夢の中で教師に抗議
  5. 殴られるから殴る――根気で対話 悪循環断つ
  6. 心が見えますか?――殴り続けて数年 今は言葉で
  7. 体罰=読者の投稿から(上)――教師を恐れ 個性を抑え / 四つんばい・・・同級生《許して》 / 床をなめた
  8. 同上(下)――《教師ばかり責めないで》 / 言葉で通じぬ・親子協力を / 事なかれ主義の学校

朝日新聞名古屋版1994・11・2〜11・17

これらは 《〈今の学校は本当におかしい〉という証言のほか 〈言葉では分からない子もいる。教師ばかり責めないで〉という声もあった》(第八篇)に要約されていると思う。議論を省くけれども これら学校や家庭で問題があり それが人間どうしの関係として大きなものであるとすれば それは 一般に社会一般における好悪原則の思潮があずかっていると見られるのではないか というものである。
同じくこれも《家庭欄》における連載記事であるが 《私がいない――AC(アダルト・チャイルド)シンドローム》を取り上げよう。

  1. 《良い子》の息切れ――いつも壊れそうな家庭で育つ / 《失敗する自分を許せなかった》
  2. 空っぽの衝動――不信感から人間関係作れず
  3. 《いじめられ役》担う――殻にこもり人との距離測れず
  4. 《家庭カプセル》に幽閉――親の人生に巻き込まれ自分失う

朝日新聞 1994・10・28〜11・18〔現在のところこの第四回まで〕)

この中から第三回のぶんを全部そのまま引用しよう。

(L) 《小学校を出て以来 心から笑ったことがないんです》
OLの晴美さん(24)=仮名=は 四枚の写真を机の上に並べると 淡々と言った。
小学校時代の写真――屈託ない笑顔のおかっぱ少女。友達と並んだ中学 高校時代は 口元だけにぎこちない笑みが浮かぶ。社員旅行先で撮った四枚目には 笑顔はない。
晴美さんは 動悸と不眠に悩み この春 名古屋市瑞穂区精神科医院を訪れた。診断は神経症。原因は会社の人間関係だった。
《人と話す時 どんな表情をしていいか分からない。同僚の雑談に私が加わると シーンとなりそうで怖い》。周りから《生意気》とか《変わってる》と見られるようで うまくつき合えない。対立したら怒りがとまらないのでは というおびえもある。
過去をさかのぼると 自分の姿が浮かんできた。
子供のころ 家の中はどこか冷え冷えとしていた。父親についての記憶は 会社から帰ると酒を飲み テレビを独占して画面に毒づく姿。突然怒り出し 手足が飛んで来るので近づき難かった。母親は三人姉妹を比べ 要領の悪い自分だけに《世間並みになりなさい》と言う。いつも家の隅で息を潜めていた。
中学生になって いじめられるようになった。恐怖で何も話せなくなった。《殻を作って人を避けよう》と決め 中学 高校時代を過ごした。就職を機に自分を変えようとした。人との距離のとり方がわからない。・・・
晴美さんを追い込んだ直接の原因は学校のいじめだが 《問題は 彼女が家でも学校でも似た〈役回り〉を演じてきたこと》と主治医のKさんは指摘する。《家庭で〈いじめられ役〉を担っていると それに慣れて 周りが変わっても自然と同じ役を引き受け 諦めてしまうことが多い》。
人を怒らすまいとぎこちなく相手と接すると 嗅覚が鋭い子供は 《この子はちょっと違う》と 排除の対象にする。晴美さんは《小さいころから身構える生き方を続けてきた》と語る。
《彼女の家庭は何かが欠けていた。そこで〈生き残る〉ために窮屈な生き方を身につけた彼女も アダルト・チャイルド(AC)のひとり》とK医師。家庭で安心できる人間関係の作り方を学べず 家の外でも失敗する悪循環の中で対人恐怖が染み付き やがて怒りのような自分の正直な感情も押し殺す・・・。
《自分の物語》を言葉に表し 手段治療グループで人と接する《安全さ》を学び始めたことで 晴美さんの《凍った笑み》は 少しずつ溶けてきた。
朝日新聞名古屋版・吉住琢二記)

以上である。ここでは 好悪の自然感情による《正直》原則も身につけえず また偽善原則に身を慣らすこともなしえず 端的に 第三種の原則を求めている姿が とらえられると思う。ただし 好悪原則の側からは 次のような反論が予想される。
――なるほど正直原則は 本音と建て前との使い分けであって 建て前すら 偽善ではだめで その建て前ないし偽善をも 《正直》原理のもとに うまく演じなければいけないかも知れない。でも それは みんな(!?)やっていることで もし 人によっては うまくやれないということであれば まさにこの事例のように 一たん休んで治療に専念する自由と思いやりさえ この好悪原則の社会には じゅうぶん整えられている。これこそ 秩序正しく平和のもとに送られる理想の社会ではないか。
――またこの晴美さんの父親が 社会や職場から いわゆるしわ寄せをこうむっていたとしても そしてその父親が今度は自分のしわ寄せ先を別のところに求めたとしても また母親のばあいも あるいは三人姉妹のそれぞれの場合も いづれにも しわ寄せとその寄せ先とが めぐりめぐって循環し展開していったとしても それはそれで 社会全体として均衡がとられており それぞれの苦労を ほかの人びともやはり同じようにすべて 分担しあっている。そのがんばり合いが 信頼感を作っているし その安全こそが あなたの言う信頼原則なのだよ。

  • 当時(一九九〇年代) こういう議論はふつうだったのである。この日本社会の《伝統》は 強固であった。

これに対するわたしの反論は次のようである。
――確かにそのことは 主治医の見るように 《家庭でも〈いじめられ役〉を担っていると それに慣れて 周りが変わってもあたかも自然と 同じ役を引き受け あきらめてしまうことが多い》というような社会全体の中での《いじめ‐いじめられ》関係のさまざまな層や人を通じての循環のことであろう。ただしその場合には 《〈自然と〉同じ役を引き受け》というときの《自然と》を《社会の力関係を役回りに応じて 意識的に人為的に》という内容に変えなければいけない。しわ寄せ関係の社会内での正直自然の循環 これは 同じ一人の人が 一方でそれに耐えつつ 他方でそれを仕掛けるというかたちでの均衡であるというのだから 好悪原則において明らかに自らが《正直》に――止むをえずとしても 意識的に――おこなっていると まずは認めなければいけない。いや 無意識であって善意だ(自分は知らないでやっている)という場合には 初めのうちの意識的な正直の振る舞いが すでに癖となり すでに意識さえすることのないほど条件反射となっているにすぎない。と指摘しなければならないはずだ。
――そうだとすれば――この精神科医に何の恨みも関わりもないが――そのK医師の分析する内容として 《彼女の家庭は何かが欠けていた》とも言っている部分では ひとり《彼女の家庭》だけの問題ではないと まずはっきりと同時に分析していなければならないはずだ。すでに上で 社会の中での持ち回りだという一つの共通の見方に立ったからには そうでなければならない。自分の患者となった者には 欠けていたものがあると言うだけでは 話が通じない。
――そしてもし それに対して今度は 《このイジメ関係の持ち回りのことはもちろん前提した上で言っている。だが 中でも イジメラレ役に回るのは たとえばこのような〈家庭の中が何かが欠けている〉場合にこそ起こるということだ。そう言っているにすぎない》と答え返されたなら その場合にはこう問い返そう。《いづれ治療が成功して社会に復帰した時 その彼女は いったいどんな役回りを引き受けることになると考えているのか》と。つまり 《同じ役回りを こんどは 耐える力をつけつつ 引き受けることになると見ているのか。あるいは 以前とは違って こんどはいくらか地位が上の役回りにつき 正直原則の好き嫌いの意思を その限りで思う存分 発揮することになると見ているのか》と。
これに対して ちなみに 偽善原則は 少なくとも表面上(つまり 建て前上) この正直なる現象としてのイジメ循環を断ち切ろうと言っていたと考えられる。話し合いの場に就け コミュニケーションの過程に従え と言っているのだから。そして 好悪原則の側も 少なくとも公共の場では・国際的な関係においては その偽善原則を採用せざるを得ないと考えているのかもしれない。
現実の情況と問題点とは 以上のようであると考えられる。そして 好悪原則の側とわたしとの上の問答の一つの帰着点は 次のような内容になっているのだと思う。好悪原則の側の言い分として想定してみよう。
――好悪といっても 自然の感情であるなら それは善である。または 正直という徳である。よって それは なくならない。ただし この正直な心づもりが 確かに 個人の一人ひとりによって・従ってそれが回りまわって 社会全体のイジメ循環を起こしていることも事実である。そしてそれは なるほど頭では 悪いことだと思う。たとえば《今の学校は 本当におかしい》と私も思う。しかしその頭で何事をも解決するというのは これも難しい。むしろそのような頭でっかちは 自然に反し 人間の善を元からなくしてしまう。つまり 抑え付けてしまう。そこで どうすればよいかだが・・・。
もしここまでのことが 共通に了解されているのであれば 新しい第三種の原則の必要性が 消極的にでも 確認しあえるのではなかろうか。――もっとも ただちにその結論としては たとえば確かに《教室が冷たい》の第五編《根気で対話 悪循環断つ》に対応するような内容になるはずである。すなわち やはり《生徒と教師と親とが互いに意思表示をしっかりとおこない その話し合いの関係過程じたいに信頼をかたちづくり 一つ一つの問題についてどこまでも語りあっていくという過程的な解決を打ち出していくほかない》といった単純なものとなるのではあろうが。ここには 第二種の偽善原則の側も――それは人間的な偽善を絶えず意識的に目指すということであろうが そうだとしても その考え方もそれはそれとして――この話し合いの過程に入ってくるであろう。そして ひとまずのさらに新しい一歩は 課題の範囲が ひとり学校をめぐる問題だけには限られないということ ここまでは 人びと共通の認識として すすめていることであろう。
(つづく→2005-04-18 - caguirofie050418)