caguirofie

哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407

第二部 シンライカンケイについて――風の理論――

2005-04-15 - caguirofie050415よりのつづきです。)

第三十八章 ポーラに意思表示はあったが・・・。

(1994.11.19)
《好悪優先原則》を憎みこれを棄てるのであって 人間に伴なう自然の部分 すなわち好悪の感情じたいを否定するということにはならない。ありえない。その〔好悪自然を否定するのではないという〕内容は 《自分と同じように〔人を愛する〕》に含まれる。そしてこの点 ある程度具体的にこの章で補いたいと思う。

  • 世界宗教》の問題は 個人主体を問題とし これを捉えなければ 扱えないと思うからである。

わがポーラは 大学二年の夏休みの頃 わたしに手紙を書いて寄こして じつは――この一回きりだが―― 《さようなら》と伝えたことがある。別離の〔意思表示の〕問題である。これについての報告・説明が抜け落ちていた。
《あなたは わたしのことをどうも理解していないようです。このまま行くと あなたも気まずい思いをすることになります。手紙のやり取りは それ自体たのしいものですが 別れましょう》といった文面であった。このことを失念していたわたしは 愚かであった。あきらかに《個人的な意思表示》なのだから。
わたしは ほとんどすべてポーラからの手紙を ある時点で 捨ててしまっているので 精確な表現はわからない。大筋でそのようであったろう。それに対して もちろん(?)わたしはこれを受け容れ その旨 書いて送った。ところが どういうわけか 《先回の手紙でわたしは どうかしていました》との返事が来たのである。実際まったく簡単にそう述べていたのであって これを受けて 再び 知り合い関係としてのお付き合いは続いたのである。一度述べた考えを改めるといったこと このかのじょの訂正じたいは 問題ないであろう。このひとつの事件も それだけのことだと言えば そうだと言わなければならないのかも知れない。
ただわたしはもちろん(?) その後なんらかの説明が聞かれると思っていた。《どうかしていた》という表現をもう少し詳しく ポーラが説明してくれることと思っていた。これが いっさいなかった。わたしは 自分からはその催促をしなかった。そして そのまま同じくつづいた状態 これをもってわたしは 人間以前の状態であると いまでは はっきり見ている。《仏の顔も三度まで》ではないが つまり実際わたしの場合 そうではなかったので その なかったことが 災いしているのだろうか。あまりにも むしろわたしの側で 無原則に〔見えるかたちで〕やさしかったこのことが 災いしたのだろうか。わたしは 自分の主義として 鎖国政策をとるつもりはなかった。
訂正にかんする説明を催促するなら――そしてこの時は そのような気持ちさえ持ってしまったなら――むしろその心理が 好悪原則のもとに作用して わたしは 譲歩ではなく 妥協したことになる。そう考えた結果としても 鎖国政策を採りえなかった。
つまりわたしは 自分で言うのもおかしいが 一貫して 情況の側からの要請としても 譲歩のうちに おつきあいを余儀なくされた。すなわち かのじょからの説明やら新たな意思表示やらを 待つには待ったのであるが そのつどの交通において 信頼原則の遂行が いちばん肝心であると考えつづけ ほかの選択肢を――たとえ想像してみたとしても――実行しえなかった。
わたしは 自分のこのような生き方を 反省する必要を感じてこの振り返りを始めたのであるが 今となっては あらためて自負のもとに 捉えている。言葉はまだ定まらないが この独善論でよいと思っている。すなわち ほとんど全期間を通じて つらかったという意味である。すなわち この信頼と愛の原則を捨てることは出来ないという意味である。すなわち あの中学三年の春の出会いの際 天を仰いだ時のことと同じように わたしはこの原則の生き方を 自分の力で・自分の頭で 支えているのではないという意味である。

  • もっとも この2005年になって あたらしい解釈を得た。意識はしていない領野において あたかも感受性が理論を作り続けてのように その結論を出したのだと解釈した。その意味では 自らの力の範囲にあると言えなくはない。→第十一章:2005-03-27 - caguirofie050327

つまり初めからわたしは 自分の生き方を――あれこれもちろん考えることはあっても――究極的には 頭の自力で作ろうとも 支えようとも して来なかった。こちらのほうは 自負ではないが それでよいと それがよいのだとは思っている。このことを 事実関係にもとづいて語っているつもりである。
好悪原則の人は このわたしの生活に どこか裏があるのではないかと言う。隠れて 別の自分を生きているのではないかと。

  • わたしに私生活がないのではなく その私生活も 独善者にともなうものであって そこに別の自分を隠すなどということは ない。

噂や心理に対して それもわたし自身に直接語りかけ問いかけるというのでなければ 取り合わないのは わたしの主義であった。わたしや第三者に 直接目に見えて被害が及ぶというのでなければ 放っておいた。


ここまで書いて来てわたしはこれを 何のために書いているのかとの自問を覚えた。初めは 基本的には自分自身のための覚え書きであったのが 途中から 自分の主張をまじえた議論になっているからである。つまり一定の読者を前提するようになっている。明きらかにそうしている。
待っているのだろうか。つまり いま現在のわたしの交通とその表現が問題なのだから 待ってなどいない 待ってなどいられないということゆえだろうか。その意味での《終わりなき世界》?その意味で むしろ《日本人の個人個人としての問題》のゆえか? 薄っすらとした感覚においては まだおつきあいが絶たれていないゆえなのであろう。この場合の感覚とは 知り合い関係ということであり それは信頼関係のある種の要素だと考えられる。その契機を 自分から断つことは ありえない。その意味で 自らを開いて待つことは いづれかの時における信頼関係の互いの樹立が むしろそうとすれば それにもとづいての交際の切断となる。あとは 人間としての愛のみとなる。信頼関係が成立したという時にはである。
しかしそれは 情動ではないのか。情動の信頼原則にもとづくひとつの表現だと思っている。心理は それをも伝えるというときには 人間の交通の上で 意思表示として 表現されるべきである。その表現は妥当であり善だと思う。妥当なる善に対しては 人びとは譲歩しあうという共通の了解に立てばよいであろうし そのように立つのでなければ 世界(人間関係)は 初めと終わりとを持つことになるだろう。その時には 各国史のそれぞれの誕生はあっても 依然として人間以前の状態にありつづけるだろう。その意味で 初めと終わりとを持ってしまう。言いかえると 逆にそれらは出会いと別れですらなく 人格の一部分において好悪によるそのつどの都合のため くっついたり離れたりしつづけるのみである。
文学がそのおもな主題とする愛は 一般に広くこれらの人間関係を扱う。たしかに原則自由なる無原則のもとに 個人における赤裸々な感情と そして逆に 排他的なまでの理性とを交えた最も主観的な交通関係にかかわる。そしてそれらにかんする自己による解決過程を――成否に別なく――描き出してゆく。問題は・あるいは課題は わたしたちの見方から見れば 信頼関係が どのように個人それぞれによって展開されていったかにあると思う。具体的には 好悪原則ないし偽善原則あるいは信頼原則をめぐる相互の対立と 相互の信頼関係に立っての共存過程とである。
このように考え このような虫視図(worm's eye view)のほうが 鳥瞰図(bird's eye view)よりは 大事だという認識から この独り語りをつづっていこう。つまり その意味では 世の評論・議論のたぐいに 異議がある。そこに意義を見出した。その上で 《普遍的原理》ないし《世界宗教》の問題に 次にすすもう。
なおここでは――初めに述べたように―― 人間の関係として一般的な信頼の問題にかんして 互いに配偶者となるべき一対の男女関係は そのひとつのみ 特殊なものとして存在すると思われたこと それについて・その視点でも考えている。その特殊性は 信頼と好悪とが 各個人の主観において その両者をめぐる優先権にかんして 激しくぶつかりあうことだと思われる。わたし自身におつきあいが続いたことは そこでの揺れを伴ないつつ そのぶつかり合いが 対立の共存として展開したにすぎないと見られるかもしれない。要は 信頼原則――の側から言えば この信頼原則――は 好悪を否定したり その意味で禁欲したり あるいは理性の偽善と好悪の感情とを使い分けしたりするのではないことを 主張したかったし そのことを捉えようと思った。好悪原則の側は そうではなく 正直に自由に どのようにでも使い分けすることができるように思われる。これはほんとうには 意思表示ではなく 差異や対立が存在する共存にすら到っていないと言いたい。このような考えをわたしは実際には持っているし 隠そうとは思わない。
(つづく→2005-04-17 - caguirofie050417)

補注:十代日本人の意思表示にかんして。

若者の意識の国際比較調査を続けている日本青少年研究所千石保理事長は 日本の高校生の人間関係観は 米中両国に比べ冷めていると指摘する。
日本経済新聞 2005年4月18日・27面〈教育〉

《人間関係観 日米中の若者比較 / 冷める日本の高校生 / 親にも友達にも〈一線〉 / 現状にも満足 トラブル回避》との見出しのもとに報告・批評している。
《分別の低年齢化》という指摘がある。だとすれば 互いに違った価値観を認め合っていると捉えてよいかどうか。

・・・
かつて土居健郎はその著《「甘え」の構造 [新装版]》で 《察し》について 互いに相手の考えを察しあって理解を深めることが 日本文化の特徴であると説いた。自分を犠牲にしても 相手に尽くすのは 察し文化の延長線上にあるといえる。この日本文化は 今の高校性たちによって否定された。
ところが日本の高校生は 他方で手のひらを返すように こうもいう。《嫌な人でも必要に応じてつきあえる》と。米国の高校性よりも多い七割が そう答える。見方によっては なかなかの《分別》である。これは非行の低年齢化と同じく 分別の低年齢化だろう。しかし だからといって犠牲的に相手に尽くすわけではない。

統計調査ゆえ なんらかの傾向をとらえればよいであろう。世界観のちがう嫌な相手でも コミュニケーションがとれるとすれば これは どうだろう。建て前として善を立てる偽善原則だろうか。《自分の思い 悩みなどを他人に話すことを〈自己開示〉という。日本の高校生の間では自己開示をしないで 世間話や当たり障りのない会話が主流となっている。》そうだ。
さらに《遊技の延長線》という見出しのもとに 《好悪自然の感情》についての《意思表示》の問題を扱っている。

中学では事情が違う。特に中学女子は 先生の《あげ足》をとったり《批判》したり《シカト》したりで なかなか活発だ。中でも 男子生徒の誰かを好きになって 元気よく《コクル》(愛の告白をする)。

ということだから 意思表示は もう問題ないかといえば 必ずしもそうとは限らない。

それが高校性になると だいぶ大人になる。軽々にコクったりはしない。高校では愛の告白はもっぱらメールに頼るようになり 面と向き合ってはコクらなくなっている。成功しても十日もすると そんなことがあったかという顔をしていると 先生がいう。
要は遊技なのである。・・・

ということだそうだ。もし最悪を予想するとなれば もはや偽善原則をも軽く超えて 相対主義の極致へと向かっているのかと思われても来る。
コミュニケーションをはかると言っていたことは ただ言葉を交わすということに重点があって 建て前の善でもなければ つまり信頼という内容は問題ではなく もしかすると好悪自然の正直でも何でもなくなっているかとさえ推し測られる。だが 《遊技》とは何か。
悲観的に見た一面のみを言葉にしておく恰好となった。このままとする。