caguirofie

哲学いろいろ

         ――シンライカンケイ論――

もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407

第二部 シンライカンケイについて  ――風の理論――

2005-04-11 - caguirofie050411よりのつづきです。)

第三十五章 偽善原則と好悪原則

つづいて岩井氏の議論を聞く。すでに掲げた引用文(A)(前章2005-04-11 - caguirofie)に続けて語る。

(D) コミュニケーションとは 自分とは異なった価値観なり世界観なりをもっている人間と行なうからコミュニケーションなのであって 最初から同じ価値観をもっている人間同士は言語によるコミュニケーションなど必要ないわけです。以心伝心でいいわけで 《正直》になるほかないんで 言語なんか必要ない。
ここで ちょっと言語論になってしまうけど 言語というのはなにも話し手があらかじめもっている意味なり真理(《主観真実》というほどの意味であろう――引用者)を伝える手段なのではなくて 言語をやりとりするプロセスのなかからなんらかの意味なり真理なりが形成されていくわけですよね。
真理は言語に宿るというのは まさにこういう意味なんですね。善は言語に宿ると言ってもいい。話し手の意図とは関係なく 言葉のやり取りが真理や善を創造する。その意味で 神が究極的な他者であると同様 言語も人間にとっての究極的な他者であるわけです。いや 世界宗教の意味での神とは言語なんだと言ってもよいと思います。
日本人の露悪主義というのは こういう意味での言語の拒否ですよね。それは 同時に 他者の拒否でもあるわけです。
ところが 日本人は このような態度を《正直》であるとして それにポジチヴな価値を与えているんですからね。
(《終りなき世界―90年代の論理》 pp.131-132)

同感の部分はもはや触れなくてよいと思われる。わかりやすく解説してくれている。《他者の拒否》の問題をわたしたちは これまで扱ってきたわけである。これを 人間以前の状態にある人間と呼んでいた。
わたしの考えでは このようなコミュニケーション一般の成立いかんが より一層切実に・かつ基本的に 愛の問題にあらわれると思われた。互いの意思表示とそれをめぐる互いの合意いかん それとしての信頼関係の問題であるとして扱ってきた。
社会一般における経済上の取引きや政治上の交渉などの場合よりは一層 おのおのの《わたし》にかかわっており その時の自由意志による判断と選択とは 信頼関係の問題そのものだと思われるからである。好き嫌いにかかわらず 意見の異同にかかわらず 互いの意思表示の交わされる話し合いを成り立たせるか否か これである。
上の引用文の中でたとえば《話し手の意図とは関係なく うんぬん(言葉のやり取りが真理や善を創造する)》であるとか その意味での《言語ないし神が 人間にとって究極的な他者である》という考え方などは 第二種の人間原則にあっても その意識的な努力の貫徹といった性格を和らげている。意識的な努力によって 建て前として 善を立て 信頼の意思表示をするということになっていた。これは 外交上の姿勢だとして 偽善であるほかないとも説明されていた。それだけにとどまるというわけではなかったことになる。
あるいは要するに 偽善原則への意識的な固執の部分がかなり緩められ 自由に捉えられており そうだとすれば わたしたちは歓迎である。
それは 第三種の信頼原則に近い。

コミュニケーションの過程に入る出発点での人間原則が重要ではないか

そしてわたしの関心は 互いの意思表示を通して互いに信頼関係が 何よりも先行して きづかれるか否かにあるのだが そうとすれば その観点からは やはりここにも(この(D)の文章にも)異議がある。問題は 次の一点である。
《言語をやり取りするプロセスのなかからなんらかの意味なり真理なり(これは あらためて《主観真実》といった意味であろう)が形成されていく》という見方 このようには わたしは見ない。少なくとも そのようには 表現しない。その意味で 第三種と同じ考え方だとは見ない。
なぜなら 第三種の信頼原則論は 《言語をやり取りするプロセス》じたいが 信頼優先のもとになされるか・あるいは好悪原則のもとにであるか(または 偽善原則のもとにであるか) このようなその分かれ目に もっとも重要な 内容と基準とがあると見ているからである。

  • また この同じ理由と絡んだかたちで 《〔話し手の意図とは関係なく〕言葉のやり取りが真理や善を創造する》(D)の部分は 引用することを控えたい気持ちがはたらいた。実際問題のうえでは 話し合いを始める前に その話し合いの席につく時 すでにどのような原則にもとづこうとしているか これによって 話は違ってくるという見方によってである。
  • とは言うものの 予期せぬ結果を招くことはあると断わっておく。

すでに初めに その人の内面あるいは姿勢において 信頼関係が成立したと――確かにおのれの主観真実にもとづき 確信されたというだけだとしても そう――言うのでなければ そのコミュニケーションのプロセスじたい 人間以前でありうると言わなければならないからである。
建て前としての善 つまり偽善によって出発している時 《言葉のやり取りが》もしそうだとすれば《善や真理を創造する》というのであれば とうぜんの如く その《善や真理》は 出発点に持っていた初めの善すなわち偽善(つまり 建て前の信頼関係)のことでしかないのであるまいか。それとも そうではなく 初めには互いの価値観や世界観の違いにしっかりと目をとどめ それゆえ偽善として信頼感を現わし話し合いを行なって行く内に 望ましい信頼関係なる善や真理が 創造されていくという理論であるのだろうか。
このあたらしい理論は もしそうだとして どこから来るのか まだわからない。その可能性を いまは 保留することとする。
いま言えることは 《話し手の意図と関係なく》という説明書きがなされているのだから この条件を重視するならば これは 明らかに一種のスミス理論である。《見えざる手にみちびかれて》という思想ではあるまいか。
おそらく この第二種の人間原則とよんだ偽善信頼論は そこまでの展望があるとするのならば――わたしの感触によれば―― 第二種どうしの話し合い そして 第二種と第三種とのそれにあっては 首尾よくその理論が実現するかと考えられる。なんと言っても 《他者の拒否》をしていないのだから そのコミュニケーションには 希望がある。

信頼は自然成長するか 話し合いの過程でその確立へと導かれるか

ここで 振り出しに戻った。第一種の好悪原則=信頼どうでもよい主義=信頼自然成長論なる人間原則が問題に残る。言葉のやり取りはあってもなくてもよいという無原則主義は その出発点に 相手との価値観のちがいを見ていないし 見ようとしない したがって 言うとすれば 自分の価値観つまりほとんど絶対的な価値相対主義に 相手が すべてを合わせるのでない限り 話し合いは 成り立たない。相手が合わせようと合わせまいと 《正直》に振る舞うその意味での自然の人は あたかも人間以前の状態にあって どう考えても お化けなのである。
岩井氏は 《互いに同じ価値観であれば 言葉は必要でなく 以心伝心でよい》と言ったが お化けどうしの以心伝心とは こころがないという価値観がわかるという共感以外に何もないと知らねばならない。コミュニケーションを拒んでいるという認識が まず ないのではないか。他者を拒むという感覚にかんしては わたしがこれだけ正直に話しをしているのに 相手はそのわたしを拒んでいる なんでわたしは拒まれなければならないのかという感覚を逆に持つのみではないか。とにかく 人間以前なのである。この日本人問題は はっきりさせなければならない。
かと言って なにも決して話し合いを拒否するなどということは考えられず しかもその話し合いもしくはプロセス自体としての信頼関係を問題にするからには その未成立のばあいには つねに・どこまでも――おつきあいを続けつつ――譲歩するということである。それに対して 岩井氏や柄谷氏は 次のように見ていることになる。偽善原則のもとにでもそれとしての信頼関係がきづかれたとするなら そこにはコミュニケーションが成り立ち そのプロセスの中から さらに自らの人間原則をあらたに確かに豊かにしていくことが出来ると。 
さきほどの好意的な受け入れとは逆に 一言でもし批判するとするなら 次のように考える余地もあるように思われる。
その第二種の人間原則においては 《絶対的な他者としての神》が立てられていたが これが 自らの意識する思想や哲学としての神であるにすぎないのではないか。この神を自らの努力で いわば――過程的に――我がものとすることが 人間には 可能であると説いている側面が残っているように恐れられる。この意識と努力との内に 上に触れられた《話し手の意図とは関係なく》という自由原則ないし原則自由が おさまって 閉じられているのではないかという恐れである。

  • 《見えざる手にみちびかれて》というスミス理論も そのような理性の問題におさまる恐れが なきにしもあらず。
  • 好き嫌いという正直自然と建て前にならざるを得ない偽善との間に――自分ひとりだけではなく 社会共同のものとして――法律の役割がある。
  • 自由主義市場経済は 正直自然の自由〔だけ〕ではないという議論の一例として――

企業社会(法人や市場)を市民社会(人間)のコントロール下に置くという強い規範意識を・・・日本は・・・欠く。
法人中心の社会がすでに存在することを前提に 日本独自の市民社会論を展開するうえで そうした規律付けは不可欠だが 従来の日本は もっぱら自由だけを重視してきた(欧米は自由・規律の両面を追求してきた)。外国の制度を理解する際に外国の見えざる規範意識などにまで関心をはらうという発想に乏しく条文や規定の外形だけで外国を理解しがちだ。
・・・明治以来 外国法を学び続けた日本は この〔グローバル化の〕正念場において 日本の企業社会のあり方に関し 文明史的な考察をも踏まえた そして日本の置かれた状況にふさわしい具体性のある構想を国家意思として策定すべきである。
上村達男:〈市場経済と法〉8.新たな社会の構想――《やさしい経済学―21世紀と資本主義》・日本経済新聞2005・04・19/27面

やはり 意思表示の問題である。

平和原則ないし生命原則を導入する

上の岩井氏の発言〔(A・D)〕を承けてさらに柄谷氏が発言するところは――そこでは 問題点がさらに広く捉えられているけれども―― 次のようである。

(E) 現在 世界のブロックを形成しているのは もともと世界帝国の《地》ですが これは 世界宗教とともに あったわけです。現在もそれが骨格としてあると思う。
ところが 東アジアを実質的に支配している日本はどうか。何もないんですよ。原理がなにもないということ自体を原理としている。それがいわば《天皇制》です。
しかし これで 国際的な関係に入っていくことは難しい。西洋との関係においてだけでなく アジア諸国との関係において難しい。
しかし にわかに原理をつくったってだめですよ。たぶん 日本が普遍的原理として提示しうるのは 平和憲法ぐらいだと思います。
(《終りなき世界―90年代の論理》p.132)

これについては これまでの議論を補う意味でも 二点の批評を付け加えたい。
第一点は ここで逆にむしろ《日本》の擁護にまわるとすれば 性善説の《正直》原則は その好き嫌い原則において 好きないし嫌いがすでに物を言うというのだから しかもその感情は転変きわまりないものなのだから どこから見ても 無原則である。しかも同時に 信頼関係の自然成長性に《正直》に期待し その意味でそこに ある種の信頼を置いているとも考えられる。その意味で――そのかすかな意味合いでのみ――そこに 自由原則ないし原則自由も 愛されているかもしれない。これは ただしと言うべきか 一応と言うべきか やはり感情や心理としての信頼すなわち 信頼感覚というほどの内容であるだろう。つまりそれは――期待という意味合いとともに―― 信頼関係の助走段階にあるとも見られる。――このようであると思われるのだが 一つの重要点は 建て前としてでも 結局のところでは 信頼原則を持ち合わせていることになるとは 見られるのである。
これは 人の存在じたい・つまり生活ないし生存じたいはこれを 素朴に正直に 尊ぶ。そしてそこに 憲法の平和主義も成り立つということだと考えられる。
柄谷氏の議論〔ここでは(C)および(E)〕も このような主旨であるのかも知れない。
しかも こんどは再び三たび 擁護から批判の立ち場に戻れば この好悪原則なる第一種の 信頼感覚論ないし生命尊重の平和感覚論は一般にやはり好悪が優先されていると考えられることである。そのような意味つまり 好悪優先でありうるという内容での 原則自由となっている。
それは たとえば過去の例と言いたいところながら環境汚染 水俣病と初めとする公害の例を持ち出せば そう考えざるをえないことである。企業や経済競争力 あるいはもろもろの既得権益を保守する政治力が 生活や生活者に優先されがちである。公共の問題になる以前または当事者どうしの話し合いの段階で 実際にはすでに 因果関係なり問題解決の方向なりが明らかにされていたとしても そこではまだ 自由原則や生命原則が愛されることは少ない。
このような好悪優先原則 に立つ信頼感覚論は その建て前がつねに後手に回ると思われる。《結局のところで》初めて 信頼関係に入る。――そしてこの時 第二種の偽善原則によれば その因果関係や妥当な解決策が明らかにされ共通に了解されたならすでにその時点で たとえ偽善でもよいから 信頼にもとづく人間と人間との関係に就きなさいというひとつの議論であるはずだ。この打ち出し方において 問題処理にあたっては 後手に回ってはいけないと説いているわけである。

好悪原則と偽善原則とは どう違うか

したがって この第一種ないし第二種の考え方に立って 《日本は平和憲法を普遍的原理として提示しうる》というのは いづれもかなり重大な留保を必要とするものと思われる。一つには 先送りした一定の期間にすでに生命尊重の平和原則は 往々にして侵されており もう一つには その侵害を偽善原則によって防ぐという行き方は 好悪感覚のしこりを残すことになると思われるからである。
後者のばあい 前者よりもましだと見られるとともに その考え方の全体をひっくり返すべきというようにして その偽善原則の行き方も ある種の仕方で 人間以前だとわたしたちは主張したい。平和原則を いまここに生きているわたしによってではなく 偽善なるわたしを立てることによって その意識と努力とにもとづき――ということは 平和原則なる観念のもとに―― 実現させようとすることだと思われるからである。
素朴で正直な原則自由が すでに偽善を第一の建て前とする原則というかたちのなかに 抑えつけられているからでる。その時には 好悪優先しつつも建て前信頼論に立って 後手に回った解決を実現させる場合と どちらがましであるか わからないということにも成りかねない。この第一種の場合のほうが ――変な議論をしているけれども―― そこに原則自由が保持されているぶん 健全であるとも見られかねない。《平和原則なる観念》は たとえ政治権力によって押しつけられるものでなくとも たとえば世論という全体的な力によって 一部の人びとに対しては その網をかぶせられるという結果を招く。

  • 北朝鮮による拉致の被害者とその家族は 平和原則によって保障されているのか 平和原則なる観念によって網をかぶせられているのか わからない。この意味は 原状回復という最終の目標が達成されるかどうかをたとえ別としても 考え方と表現のうえで・つまりコミュニケーションとして 問題としうべきように考えられるということである。

意思表示は 信頼関係の問題にあって 待ったなしという条件のもとにある。

社会的な交通の過程 そこにおける自由な意思表示の問題 つまり表現一般は 信頼関係の問題にあって 待ったなしである。すなわち自然成長性に俟つという時間的な猶予は 一般に 許されないと考えるべきであり 第一種の好悪原則がこれを一定の期間先送りして許しているとするならば これを批判していくべきであろう。
またすなわち 偽善関係としてでよいから信頼関係に就きなさいという第二種の考え方に対しては ――事実じょうそれがありうるという問題は別としても 原理原則の考え方の上では――偽善と露悪 頭と感情 義理と人情といった二重構造としての条件も つける必要はないであろうし つけてはいけないと考えられる。そこのところは 待ったなしでなければならないと思われるのである。救済・補償という意思表示 解決へ向けての互いの意思表示は偽善も裏の取り引きも何の条件もおかずに 待ったなしで 実行されなければならない。そうでなければ 信頼関係ではなくなる。依然として 人間以前の状態にとどまる。
わたしたちは 譲るしかないのである。信頼原則主義は《独善論》であると言ったが この独善主義に立ってこそ 一人ひとりが独善者として譲歩しあえてこそ 社会共同の・そして協働の実践を 必然的なものとし 可能にすると信じられる。議論としては ここまで言うことができるし 言わなければならないと思う。次章につづけよう。

第三十六章 信頼原則を主張する

柄谷発言(E)にかんする批評の第二点。自然感情としての心理においては正直でありそこに《信頼感》をも培っているという好悪原則は しかしながらなお《無原理という原理》に立っていると見るとき 《それはいわば〈天皇制〉です》と述べられていることをめぐってである。
これについては 柄谷氏の他の詳しい発言を参照しなければならないだろうし ここでの主題をただちに飛躍させるのも 話の進め方としてまずいと思う。いまはこの段階でも すでに大雑把に・しかし基本的に言えると思われること これを捉えておきたい。
ちょうど第一点で 無原則主義に対して たとえば ただ《これで国際的な関係に入っていくことは難しい》と批評することをめぐって むしろ逆にその擁護にもまわったように そしてその上で改めて同じく批判にも及んだように ここでもやはり そのような批評(《天皇制》に触れたこと)だけでは まずいのではないかと考えられる。他のところで詳しい発言をしていたとしても ここで一度触れたなら そのかんたんな批評のみで済ますことは まずいと考えられる。

偽善原則は やはりよそよそしいものになりはすまいか。

《無原理の原理》たる天皇制に対しても 頭から批判してそれを貫くのは 芳しくないと思われるそのわけは この《頭から》を 《頭で・つまり理性によって〔のみ〕》と言いかえたほうがよいかもしれないが この《頭》はやはり 建て前としてでも いわば誰でも持っているものだからである。第一種の好悪原則がただちに《天皇制》のことであるかどうか この論点は まだ何も論じていないのであるが 仮りにそうだとして ここでの柄谷氏の言説を分析しておきたい。
いまの意味は 裏返していうなら 天皇制に対して それにかんする人びとの感情や心理の側面を 偽善原則の立ち場から 理性によって 問題とすることにしかならないと思われるからである。この点で 第一点における批判の主旨と同じようになる。その《信頼感》が 社会全体にひろがって 国および国民統合の象徴を天皇に見るというような人間関係のあり方を いま仮定して議論を進めるわけであるが そうだとすれば この第一種の好悪原則に対する一つの批評として およそ妥当であり 成り立つと考えられる反面で もしそれがあくまで偽善原則によってなされているとするならば それはあたかも この第二種の《偽善》という観念を 天皇という観念(あるいは現実?)に代えて別種の象徴とするといった一つの議論に導かれるであろうし ほとんどそれのみに終わりかねないと思われるからである。
問題とすべき具体的な個人とその意思表示 それとしての表現行為の関係過程 これを ある種の仕方で 離れてしまうと思われるからである。その批評(E)は きわめてよそよそしいものとなりがちである。
逆にもしそうではなく個人的な生活においてこそ実質的に偽善原則を互いに実行しようというのであれば いまの議論(A〜E)の限りでは 第一種の好悪原則をもどこかで容認する部分を持っていると見られる時には あたかも――実際にそうであるかを別にして 仮りの想定として――天皇という生身の個人が 偽善原則者であると捉えることを通して その象徴を抱き 人びとは 人びとも つねなる偽善原則者になるという結果が含まれているようにも思われてくる。考え方の構造がそのような結果を招く内容なのだと思われる。
そのような結果でなくとも 《偽善》があらたな象徴となる事態を予定しているように思われる。わたしたちは 一人ひとり個人的に自由に 偽善原則者として立つという事態なわけである。この哲学とその実践は きわめて面倒なことではないだろうか。――これに対する留保は 《世界宗教》の取り扱いを議論しなければならないという一点である。《偽善》のさらに奥に――一人ひとりの個人において――その《神ないし言語》が控えているといった思想内容は まだ扱い残していたからである。そこで 一つの突破口が開かれているかどうか。
その《世界宗教》の問題は なおあとまわしとして いくらか補っておかねばならないことがある。

再び好悪原則と偽善原則との違い

天皇制ないし実際に皇室の人びとに対して 好悪原則の自然成長した姿としての希望的な信頼――すなわち 信頼の感覚――を抱くこと これを問題しても ほとんど何も始まらないと思われる。好悪原則は嫌いだという批評をただ延長したことにしかならない。または 信頼感に代えて人間的な偽善関係を立てるべきだという一般論であるにとどまる。そして だとしたら ここでも 待ったなしの無条件に立つのではなく 裏と表とを伴なった二重構造の問題に入っていくと思われる。
その裏である好悪自然は まったく保障されない単なる信頼感(いわゆる幻想)にすぎないと見ると同時に 自然存在にもとづくことは 自由な生命のための平和原則でもあると言っているし それは普遍的な原理だと見ているからである。
整理しなおすならば まず好悪自然(つまりその感情と心理である)は あたかも《人は人に対して狼である》と言うかの地点に近いとすれば その意味で 待ったなしではある。同じくその意味で正直である。次にこの正直自然は それゆえ逆にでも 一方で素朴に生存・生活を尊重しこれを守ると同時に そのためにも他方で 自らの感情を裏にとどめ 建て前の表には 信頼の感覚(好意や思いやり)を装う。それでも自分の感情が逆恨みであったり不当なものであったりすれば 妥当な考え(その意味での善)を表明し これに従わざるをえないとする。そのとき偽善原則は その合理的で妥当な考えをつねに話し合いを通じて求め合い これを意識し絶えず努力し実現させていこうと主張する。
従って ここでは一つに 生命原則が 待ったなしで無条件であると見る限りで これを普遍的な原理として尊重せざるをえない。もう一つには ここでやはり 感情と理性 悪と善 ないし善悪と偽善 こういった《裏と表との二重構造》が認められている。つまり人間のあり方が 待ったなしではなくなっている。思考と行為とにかんする原則として 初めに屈折したかたちをとることになる。第二種の偽善原則が 《人間は偽善者であるほかない》というのは むしろ開き直るようにしてこのような二重構造に立った一つの主張であるのかもしれない。

  • 世界宗教》の問題のみ まだ議論し残している。

わたしの考えでは 好悪ないし信頼感という《心理は 心理じたいで動いている》とまず言うべきだと思われる。まずこの一つの指摘とその前提的な認識をもって たとえば《無原則主義で国際的な関係に入っていくことは難しい》という発言内容に代えるべきだと思う。
すなわち 信頼感の延長線上の《建て前としての信頼関係》もしくはまさに《偽善》 これを無原則主義のほうでも 持ち合わせていると思うからである。しかもそれ〔だけ〕では 国際関係において名誉ある地位を占めることは難しいというのは いま一つ別の議論となるはずだ。

  • そうなると 世界宗教をどのように捉えるか もっと具体的に自らはどんな信仰と思想とを持つのか このような問題に入っていくのであろう。

個人個人の問題に帰着する

天皇制じたいについて直接扱っていないけれど ここまではすでに言えると思う。そのように交通整理しておくことができると思う。しかも いまの国際関係の場での難しさのことは すでに誰にもわかっているとも思われる。少なくともまずは今の出発点に立つべきであり その地点から たとえば信頼関係問題へと 具体的に・どこまでも個人個人がその交通過程において入るべきである。ただちに直接に実際の国際的な舞台に立つのでなくとも すでに身の周りの生活において その信頼ないしコミュニケーションの実践に入ることは 出来るであろう。つまり一般に出来るという人びとの考えのもとに いま 議論しているわけであるから それが 第一歩の課題であると思われる。ここではまず 固定観念から自由でなければならないというものである。
好悪自然の感情に固執することは出来ないし それを裏と表との使い分けによって 抑制しつつ しかるべく固定させていくのも それだけでは 具合いが悪いと思われる。さりとて 哲学的な新しい観念をもって その意識的な固定をもって 自然原則に代えることも難しいと考える。
もう一つの例として柄谷氏が触れている《天皇=ゼロ記号》の説は これも 頭の理論であり 理性による分析認識であり しかもその裏にはほとんど必然的に この《ゼロ記号》にまつわって人びとの内に心理的にうごめく好悪ないし信頼感の原則が 事実じょう伴なわれており 直接それをうんぬんするたぐいの議論へみちびかれてしまうのが落ちだと考えられる。
その《外部》に立つということは 理性と心理とのひとまとめの構造を その枠の中であれこれいじくるということで終わりかねない。論理的な認識は深められていくかもしれないが その結論的な主張としては ゼロ記号〔としてのあり方〕は 好きだ嫌いだ 信頼感が持てる持てないの議論の応酬に行き着くか それとも ゼロ記号に代えて(またはゼロ記号じたいの位置に)偽善をあらたな象徴とするか だと思われる。偽善原則によっては 《偽》という限りにおいて ――認識論として妥当であると思われるにもかかわらず―― たとえば正直にもとづくとされる生命原則も 裏と表の二重構造のもとに話し合われ その交渉と時には取引きの材料にされかねない。そうならないことを保障するためには 共同の権威や権力といった幻想の力を借りなければならなくなるだろう。正義という固定観念が必要となる。

  • 《神ないし言語(これは むしろその過程)》は 偽ではないという議論 これがあるとするなら それは あと回しとしている。

あらためて 待ったなしという条件のもとに 個人個人の問題に帰着する。

もし天皇制を 憲法として制度としてどう考えるかの議論になるのなら 社会制度上それがどのような形態をとるとしても・と言うことはまったく今のままであるとしても 問題は 一般の人びとに対するのと全く同じように まずは皇室のそれぞれ個人に対しても 具体的に個人として やはり信頼関係がきづけるかどうか どうすれば築けるか ここに 第一の課題があると思われる。
ここまでは すでに言えると思う。具体的には 好悪優先原則のもとに(つまり 日本の国は天皇制が 一定期間の歴史上 自然史あるとして) 天皇制を支持する人びとも 信頼優先原則のもとに天皇制についてそれぞれ考えるところの人びとも まずは互いの自由を 自分たちの側の自由と全く同じように どこまでも認め合い むしろ第一には互いにこの自由が実現することをもって 交通(人間関係)の基礎としなければならない。
すなわち ゼロ記号であるかどうか 信頼の感覚を持てるかどうか これらは 議論のほとんど外にあり 判断基準の第一でもないと考えられる。生命正直の原則に立つなら そうなると思われる。生命原則の普遍性を そのように実現させていかなければならない。そのうえでは 好悪原則の人びとが 多数決によって勝つとするなら それに反対する人びとも これを尊重しなければならない。そういう意味内容での待ったなしという条件のもとに立たなければならない。
もしこの第一課題を脇において 取引きをしたり妥協をはかったりするようなことがあったなら それは 自由の実現のために 好悪の自然信頼説やあるいは人間的な偽善というゼロ記号を 人びとに覆いかぶせるという不自由を手段とするという意味で 平和原則に反すると思う。
あくまで社会力学じょうの対立と対決の過程こそが 人間のあり方だと決め付けた上にしか成り立たないことになろうし 同じく人間の存在のあり方は 社会的な均衡の中にしか 成立しえないと決め付けたことになる。
そのような秩序のもとに生命および生活が保障され繁栄に導かれると そしてそれが平和原則であると 多くの人びとは思っているかもしれない。だが まずはそれは 非現実的ではあっても反現実的ではありえない《普遍的原理》ではないだろう。そうでなければ 裏と表との二重構造にもとづくあり方が 人間の普遍的な存在であり自由であると了解したことになる。

裏と表との二重構造は 不可避か。

わたしとしては 個人の身の周りから始めて わざわざこの普遍的原理(つまり 生命原則一本としてにせよ それと社会力学上の秩序との二重構造としてにせよ)などという観念を意識し持ち出す必要のない信頼関係のあり方が 歴史社会において現実に 時として 実現してくると思っている。
小さいけれども基本的な第一歩は 人びとがそれぞれ自らの意思表示をおこなうということ ここにあると思っている。
そこでなお 好きだからとかあるいは嫌いだからとかいった理由説明を持ち出してきたなら たしかにそれは 《人間以前の状態にある人間》の《意思表示のようなもの》にしかすぎぬと言うべきだが 人間である人は いやでもまずは それにも おつきあいしなければならない。好悪原則の人びともすでに持ち合わせている頭のことを その頭の理屈で 批判し排除することは出来ない。だとしたら そのこと自体が 信頼関係をきづく一つの基礎だと思われる。ゆづること 待つことが 第一歩の基礎だと思われる。
待ったなしの無条件に立つゆえに 待つのである。好悪原則の人が たとえ好悪正直を内容とするものであったとしても その自らの意思表示について 妥当で人びとの納得のいく理由説明をしないならば その発表があるまで 待つことになる。信頼原則は 頭の問題ではない。そうは言っていない。しかも 誰もが理性を持ち合わせており と同時にこの理性主義では物事は立ち行かないであろうという理性をも共有している。この内容を前提するなら 合理的で妥当な説明内容をもって意思表示しあうというところまでは 進まなければならない。それをせずに 一足飛びに 総体的な社会力学上の秩序関係に 自らの生命原則のことで 訴えることは 人間にとって残念である。人間以前の状態にとどまる。
正直自然どうしの対立を 総体的な社会秩序の維持の手段として 解決しようとすることは 第一歩ではなく 考え方として第一の基礎ではない。対立解消の手段として 多数決といった手続きすら 実際の対決を宿しつづけ それは時には平和原則に反する。社会問題としての具体的な案件を別として 考え方・つまり人間原則の内容にかんしてなら 対立の保持 対立しあう諸原則の共存ということが 平和原則でありコミュニケーションであり 信頼関係論であると思う。
だからひとこと主観的にいえば 信頼と愛の人は 人間以前の状態を憂え その好悪優先原則という考え方を憎み(この考え方については これを徹底的に憎むのである=つまり 人間の状態を愛するのだ) 自らの内にそれを徹底的に棄てつつ 人間以前の状態にあるその人の人間を 自分と同じように愛さなければいけない。
これが ひとまずの共存としての生命原則であると考える。しかもその過程がすでに基礎である。その上に 意思表示と話し合いが展開されていくということになる。そのような第一歩を踏み外している時には 人間原則にかんして 自己矛盾と自己放棄とがどこまでも続くものと思われる。その意味でも《終わりなき世界》なのだが 信頼関係の展開されていく過程も――そこには 対立を宿しているからには―― 《終わりなき世界》の様相を呈しているものと考えられる。
(つづく→2005-04-15 - caguirofie050415)