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哲学いろいろ

         ――シンライカンケイ論――

もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407

第二部 シンライカンケイについて――風の理論――

2005-04-08 - caguirofie050408よりのつづきです。)

第三十四章 コミュニケーションをおこなう意志は必然的に偽善をともなうか

(1994・11・16)
ちょうどこの一週間 おもに読書に時間をあてていた。たまに これまで書いたところを読み直し書き直ししてもいたが 一段落つけた思いで遠ざかっていた。
どうもわたしには物事を一般化して捉えるくせがあるようで 個人的な細かい事情を――書く必要がない部分のほかに――書こうとしないところがある。わたし自身はここまでの振り返りで もう納得してしまったのだが それでは余計に独善的になってしまうかもしれない。けれども結論を保留する小説のかたちにしたくないので いまの個人的な話に肉付けするかたちを採ろうとは必ずしも思わない。抱えていた問題にかんする骨格だけでなく わたしの側の振る舞いにかんしてなら そこに肉もついていて血も流れていると思うから ひとまず終止符を打とうと思う*1。引き続きこれからは 一般論で考えていこうと思う。

  • あらためて 以上のように書いているところを再録した。(2005年)

《コミュニケーションする意図を持たない人は 人間以前である》(岩井克人)という見解

柄谷行人岩井克人両氏の討論形式による共著《終りなき世界―90年代の論理》を読んでいて 次のようなひとつの発言に出会った。
岩井氏が述べるには

(Aー岩井) 日本人が《偽善》を嫌うという話ですが それは日本人の世界宗教性のなさということの裏返しなわけですが 同時に 日本人が世界的な意味でコミュニケーションを拒否していることの裏返しでもあるわけですね。
いま柄谷さんが 人間は偽善者であるほかはないと言われたんですが その場合の人間とは 世界と言語を使ってコミュニケーションする意図を持つ人間という意味なんですね。そういう意図をもたない人間は ある意味で人間以前の存在なわけですね。もちろん 日本人であったり イラク人であったり アメリカ人であったりはするんだけれど 人間ではない。

終りなき世界―90年代の論理

終りなき世界―90年代の論理

(p.131)

《ある意味で人間以前の存在》という表現だけの問題を超えて これに対しては 同感と異感とを持つ。
まず《人間以前の状態にある人間》というのが わたしの用いた表現であり この時は《知り合いどうしとしてでも 互いに社会的な存在であるからには その相手の――好悪原則という――考え方に譲歩し おつきあいを続けている》というところまで その内容が込みになっている。《人間以前》という規定は かなりきついものに思えるが これに限っては ここで偶然の一致を見出して驚いている。
柄谷氏の著作としては《探究(1) (講談社学術文庫)》《探究2 (講談社学術文庫)》などを そして岩井氏のとしては《貨幣論》《資本主義を語る (ちくま学芸文庫)》を 最近読み継いできて 両氏のこの著《終りなき世界―90年代の論理》を――これは図書館で見つけて借りたのだが――やはりこの数日読んでいたところである。
両氏の発言については さらにもう少し引用しようと思っているが その前にすでに上の引用文のみについても わたしの考えとの違いをとらえておこうと思う。実際にはかなり違うはずである。
《信頼 / 愛》は 社会的な交通における表現の問題として考えているわけだから まさしく《コミュニケーション》の問題である。そして 好悪原則によって人間関係を自由放任とし わづかにそこでの自然成長において信頼をとらえる無原則主義 これを 《ある意味で人間以前》ととらえること 従ってまた それに対する信頼原則論を たとえば《世界的な意味でのコミュニケーション》と打ち出すところまでは 同じである。

  • 世界宗教》については込み入って来るので 取りあえず扱わない。わたくしの信仰論については→《えんけいりぢおん》2004-11-28 - caguirofie041128。

ちがいは 一方でわたしとしては 無原則(その意味での自然)にもとづく信頼どうでもよい主義が みづからとは対立する信頼原則主義の内容を みづからの公共の発言としてはいわゆる建て前としてでも承認するものと思われた 従ってもしそうだとすればこれは 《偽善》であるというものである。他方で ここで柄谷氏が《人間は偽善者であるほかはない》と言い それを岩井氏は上の《世界的な意味でのコミュニケーション》論に立つ人間のあり方のことだと承けたわけである。
《偽善》はわたしの考えでは 《人間以前の状態にある人間》としての好悪原則の側にあると見るのであって――つまりは 他の主義主張の人を受け容れないならば そうなるから―― 〔《偽善》は〕信頼原則主義の側にはないということ。それに対して岩井氏の考えでは むしろ《人間である人間》としてのコミュニケーションを実行する側こそ 《偽善者》であるしかなく しかもそれは普遍的なことだということになる。
ここには はっきりと違いが出ている。確認しておこう。

岩井氏曰く 《世界と言語を使ってコミュニケーションをする意図をもつ人間は 偽善者であるほかない。》
わたしの考えでは 《信頼原則に立ってコミュニケーションをはかる人間となった人間は 偽善であることが 能力によって 出来ない。》

柄谷氏の議論では 岩井氏の発言=

(Bー岩井) ぼくは日本人は百パーセント レイシストだと思いますよ。〔・・・〕上に媚びて 下に威張るというね。明治以来 日本は常にそうだったと思うんですね。そして それと同時に 白人もふくめた意味での外人排斥的なレイシズムもある。
終りなき世界―90年代の論理 pp.129−130)

この発言を承けて 次のように言っている。長く引用しなければならない。

(Cー柄谷) 暗黙にではなく 露骨にそうですね。
ぼくがいやなのは こういうときにはアメリカ人は〔そのような日本人のことを〕偽善的だと批判することですね。
たしか漱石が 現代日本人は偽善をいやがるあまりに 《露悪主義》になっているということを言っています。これは近代文明批判であったのでしょうが 特に日本人に当てはまるのではないかと思う。
以前に 中曽根が黒人のIQが低いという発言をして問題になったときに テレビで景山民夫という男が中曽根さんはほんとうのことを正直に言っただけだと言って それが受けていました。
ぼくはものすごく腹が立った。こういう《正直》なんかより 《偽善》のほうがいいのだと。なぜなら 日本語では 《偽善》は善のように偽ることですが 偽善者は少なくとも《善》を意識し《善》であろうとしているわけですから。
ところが 日本人は《偽善》のほうを嫌う。自民党の議員が同じことをすれば 許さない。それは 自民党の方が《正直》だからです。これも じつは宣長の言う《やまとごころ》と結びついているんですよ。それは《漢意(からごころ)》=《偽善》の批判だったから。
もちろん 人間は偽善者であるほかないと思うんです。しかし 人を残らず偽善者たらしめてしまうような《善》とは 結局 神 絶対的な他者としての神ですね。言いかえれば 世界宗教ですね。ぼくは 儒教もそのなかにいれています。もちろん親族形態や先祖崇拝のイデオロギーとなった儒教ではないです。儒教は《天》をたえず意識するのです。日本人に比べれば 韓国人にはそういう意識が強くある。政治家もきちんとしゃべる。どうも 日本人だけが あの正直さ=やまとごころに帰着してしまったようですね。日本のポスト・モダニズムは そういうものです。
終りなき世界―90年代の論理 pp.130−131)

ここで取り上げるのは 《偽善》をどうとらえるかの一点のみである。その他の論点は のちに議論がおもむけば取り上げるつもりである。

偽善をめぐって《人間以前の状態》を考える

端的にわたしの考えを述べれば 《好悪原則に対して一般に譲歩はするが 自己の主義としては信頼関係の成立を優先させて 自分の好悪の問題はその限りであとにまわす》という《人間》は むしろ誰もに見出される心理的な悪〔の思い〕が それによる影響関係をも含めて 問題を起こしうると考え これを優先させないということ / そしてもっと露骨に言えば 互いの意思表示によってそこに合意が成立したという・ただそんな意味でとしても信頼関係がきづかれたとすれば 自分の好悪のことがらをも 実際には表現していくという意味となる。
まさに一歩ないし半歩は絶えず譲っているということである。従って 信頼関係の未成立の情況では いっさい取り引きも妥協も おこなわないことを意味する。一般的にいえば 成立した時には 余計に妥協とは無縁である。

  • 一方で 好悪の問題では むしろもはや妥協しないのだし 他方で 互いに同意したことの問題では その合意事項を守るということだが。
  • またそこでは 人間が生きているということ(たとえば生命原則)ないし人道上の問題もからむであろうが いまは措く。

いづれにしても いまの内容の信頼原則のもとに人間が人間である。または わたしが わたしである。と考えるからである。そのようにして《わたし》を生かす。もしその《生きること・活かすこと》を《善》と言うなら この善は 本音でしかない。もしくは 本音=建て前というかたちである。だとしたら そこには 《善のように偽ること》もない。
もし図式的に乱暴に言うとすれば 中曽根氏や景山氏の見るところのことも それが仮りに妥当だとしたときには 《正直に言いますが》という信頼関係の問題を優先させた上で 表現に及べばよい。人種や民族を単位体としてそのIQがどうであるということは 妥当なことだと思わないが 要は 好悪原則を隠すという意味で《偽善者》となることはないということ これらの二者は 両立している。
もし《偽善者は少なくとも〈善〉を意識し〈善〉であろうとしている》ことをもって 《人間》のあり方の内容とするということであれば その時には 信頼原則の人は――たしかに一面で その譲歩という点で 《偽善者》であると言ってかまわないようであるが・つまり 本音の善の部分を譲って 建て前としての善の部分だけが残った恰好となるから―― それについて しかしながら そもそも《意識》や頭の問題であるとは思っておらず あるいは《〈善〉であろう》とする努力のみの問題であるとも考えていない。
相容れない対立を引きずらないということのために譲歩しており この譲歩(つまり信頼原則)に固執する そしてこれが 本音であり建て前である。もしどうしても《善》という言葉を使いたいのなら 信頼原則の人は 単純な言い方として《独善者》なのである。
すでに述べたように 信頼や愛のことを 私的には成り行きに任せその意味でどうでもよいとしつつ 明らかに建て前として公共の場では承認し尊重するという発言をおこなうなら その時の好悪原則のあり方こそ 偽善だということになる。
これに対して柄谷氏らの考え方は 極端にいえば つねなる偽善原則だと言われかねない。
もちろんそのあとで もしくはそれと同時に 《世界的な意味でのコミュニケーション》・つまり信頼関係のことを 視野におさめている。だが わざと批判しようと思えば その信頼関係のことは いわば思考の問題や認識としての視野の領域の中に閉ざされていて 実際どのように振る舞いどのように生きるかには 語り及んでいないように思われる。

コミュニケーションをどうでもよいとし ただ《正直》であればよいとする好悪原則のばあいにも 一たん公共の場に立てば 建て前としてでも《少なくとも〈善〉を意識し〈善〉であろうとしているわけですから》 それとの違いを 実際の社会生活上の行動において明らかにしていかなければならない。

三種の人間類型を取り上げうる。

いまの議論の限りで 少なくとも三種の人間のあり方が取り出される。
第一種は 好悪優先かつ偽善信頼の原則である。この二重構造は いわゆる本音と建て前のそれであるが 実際問題として 信頼にかんしては 自然成長に任せつつ どうでもよいと考えている。その中核には 好悪自然の感情・それとしての《正直》が 横たわっている。そうでなければ 他の主義主張を認めているはずである。
もし仮りに《黒人のIQが低い》ことが実際であってそれを口にすることが正直であるとしても そうだとしても これは 統計の結果を発表するというたぐいの言論ではないと言わなければならない。裏ではつねに 自分の好悪を・またはその好悪の問題の含みをもって 表現したことになっている。なってしまう。信頼偽善――つまり その表現内容じたいは善である――を内容とする建て前上の発言をそこに補っても 同じことだと思われる。逆に仮りに好意的に見るとしたなら わづかにその正直な表現をとおして 自然成長的に いづれは黒人やアメリカ人との間に信頼関係も成り立つであろうと願っているということである。
第二種は ここでの柄谷氏らの立ち場であって わたしから見れば それはほとんど第一種と変わりないとまず思われる。
《〈正直〉なんかより 〈偽善〉のほうがいいのだ》というのは その《正直》ないし好悪原則のあり方をも 自らの原則の内にいわば第一段階として 事実じょう認め その上で第二段階として《信頼関係なる〈善〉のように偽ろう》という考え方なのではあるまいか。この二つの段階は 時間的な順序であるよりは 考え方の上で やはり一つの構造のごとく成り立っているかに思われる。また この第二段階が実現するのは 《人を残らず偽善者たらしめてしまうような〈善〉 絶対的な他者としての神》を抱き その《〈善〉を意識し〈善〉であろうとする》自力の努力による というわけになる。
言いかえるなら 《信頼ないしコミュニケーションを自然成長性に期待する》第一種のあり方を そうではなく・それにとどまらずに 神学ないし哲学のもとにおける意識的な努力に変えようということである。つねにそうしようと言うことである。
かんたんに言うなら このように二つの段階がとらえられている限りそのことによって たとえ常に偽善者なる人間が表に現われるとしても いわば《人間は〈偽善〉と〈露悪〉――ないし〈信頼〉と〈好悪〉――の二重構造から成る一つの原則のもとにこそ 人間である》と言っているように思われるのである。これだとすると とどのつまりでは 第一種のあり方とあまり変わらないように思われる。
第三種は わたくしの考え方のことになるが むしろわたしは 好き嫌いとして 第一種も第二種も摂らない。
《自然ないし正直》としての善 あるいは偽善になることを承知の上でとしても絶対者としての善 このような感情なり意識なりのもとにある善を立てることが 嫌いであり したがってその二重構造の裏に 悪や露悪が控えていること これをも嫌う。そのような好き嫌いのことを互いに認め合うだけの内容だとしても そのような表現を行ない かつ 話し合いを進めていく信頼関係を 自らの原則とする。
あらためて言いかえるなら 自己の外面でも内面にも 対立や二重性を好まない。なぜなら 裏と表とがあれば わたしはわたしでありえていない または わたしが よそよそしいわたしのもとにのみ わたしであると思われること これゆえわたしは 第一種も第二種のあり方も 嫌う。この嫌悪を しかしながら 信頼関係に対して優先させることは出来ない――対立を自ら引きずることになるから――と考える限り その時には 一歩譲っているということである。
世界の終末には わたし自身の考え方があまねく実現するであろうと思ってではない。譲歩することを含めて いま・ここで いづれの人に対しても 信頼優先の原則で 関係をきづくそのための表現を提示する。そしてその努力はするにしても 信頼原則もしくは何なら《善》を意識し その頭の中味を 実現させようと自力で努力するのではない からである。それは 無理である。無理だと思うからである。相手があることなのだから。
その相手の意向を超えて 自らのその努力を貫こうとしてのように 偽善者たろうとは思わない。
また 建て前で 色よい返事をおこなう好悪信頼(その感覚)に立とうとも思わない。
この後者すなわち第一種の考え方との対比では わたしは むしろ初めの好き嫌いとしての正直にどこまでもとどまっているだけだとすら見えるかもしれない。そのときには 正直だけが取り柄だと批評される。前者の第二種のそれとの対比では わたしは 善にかんする認識が 不足していると映るかもしれない。好悪原則に対する批判を科学的におこなおうとしていない というように見えるかもしれない。つまり 《共同体》に内属・隷属しているのではないか という批評を受ける。
いづれの批評・批判に対しても もし一歩ゆづることをやめ 何らかの二重構造を自分自身に課するとすれば それは 社会的にある程度有力になるかもしれないが わたしはわたしでなくなる。矛盾対立が永遠につづき その対立の取り繕いのみに意を用いることに終わる。
これは 人間が人間でない状態にある人間になること それでよいとすること である。

  • この矛盾対立というのは 政治経済じょうの利害関係のことではなく いわばそのような社会問題の以前に その人とは話をしないし ただ嘘や演技としてのみ話をするというときの無信頼のことである。

取りあえず整理すれば 柄谷氏のここでの――あくまで ここでの――主張としての第二種の人間原則は 一方で第一種に対しては その《自由放任の中からの自然成長性》に付け加えるに 《絶えざる意識的な努力》を打ち出しており 他方でこのわたしの第三種に対しては その《信頼関係〔としての譲歩〕》に代えて むしろ――現実的な(?)あるいは現実妥協的な(?)――《偽善》を掲げるということになろう。
それは 認識論的・科学的にして 上のような意味で現実的・実践的たろうとしている。《絶えざる意識的な努力》が 《偽善》のことだ(または その逆)ということになっている。
章をあらためよう。
(つづく→2005-04-12 - caguirofie050412)

*1:ヘイ!ポーラ物語に終止符:いくらかの肉付けは 揺れつつ書いたものをも含む文章を参照されたし。→2005-02-06 - caguirofie050206。むろん今後とも新しい見解が生まれれば 発表したい。