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哲学いろいろ

《聖なる〈甘え〉》

2005-04-09 - caguirofie050409
《甘え》のもくじ→2005-03-13 - caguirofie050313

・・・実際 大人になっても 非言語的なプロセスとしての《甘え》は継続する。しかし・・・《甘え》を子供っぽいもの 殊に人間の自立を妨げる芳しくないものとしてそれを排斥する動きがもし早くから育児環境の中で作用していると《甘え》が内向し 異常に自己中心的な性格が生まれる可能性がある。
そしてこの際しばしば 広義の性的 ということは官能的快楽の飽くなき追求を伴なう。この種の人間類型は もしそれが極端な場合は異常性格として一般の認識するところとなるが しかし現代人は多少ともその傾向があると言ってよいように思う。
現代が個人の自由をもっぱら旨とし また概して快楽主義的であるのはその点を示唆する。なお以上の考察は《甘え》に相当する語を有しない欧米人にも十分あてはまることをつけ加えておこう。
(p.20)

聖書と「甘え」 (PHP新書)

聖書と「甘え」 (PHP新書)

  • 不明を恥ぢた。こういった分析と考察の重さに なお思い至らなかったことに。
  • たとえてみるならば 《聖なる〈甘え〉》あるいは 《超然たる〈甘え〉》 こういった情感の方面での対応が 考えられる。みづからも甘えるのであるが 宇宙大の甘やかしを敢行しうる度量を持ちたいものである。ただちに卒業となる甘えのことである。

さらに 土居健郎は述べている。

以上のべたことと関連していま一つのべておきたいことがある。それは現代の母子関係は伝統的なそれと比較して多分に変わってきているのではないかと思われる節があることである。
育児に専念する母親の数は近年著しく減った。女性は男女同権の旗印の下に社会に進出することを求め 極端な少子傾向が蔓延している。更に数少ない子供の育児もいきおい母親ペースで行なわれる。このことが人工栄養の普及によって可能となったことは疑いを容れない。たしかに人工栄養の進歩は不可避的な理由で母乳が得られない場合 大きな恩恵をもたらすが しかし人工栄養が授乳の様式を子供本位から母親本位に変化させることに大きく寄与したことが問題である。
かくして母親は子供の甘えを受けとめる者ではなく むしろ子供の甘えを規制する者となった。
巷間用いられることの多い教育ママの呼称が何か侵入的な印象を伴ない すべてを包み込む従来の母親像から大きくずれていることはそのことを暗示する。
甘えがよからぬものであるかのごとく見なされる傾向はこれとともに生まれたのである。
もちろんそれでも《甘え》がなくなることはあり得ない。しかしそれはもはやうぶで素直な甘えではない。それはえてして甘ったれた 媚びるような あるいはつけこむ甘えとなる。
これは すぐれて現代的な現象と言わねばならぬのである。
なおこの種の甘えを精神分析の考え方を借りて甘えの性愛化と呼ぶことができるであろう。
(同上 p.21)

聖なる甘えは どうすれば敢行しうるか。
自分を愛することである。他人(ひと)を愛することは むづかしいゆえ 自分を愛しなさい。
しからば その愛を あなたは 心の眼で はっきりと見るであろう。
しっかりと見とめたその愛を さらに愛しなさい。
さすれば その愛がいづこより来たれるか これをあなたは 見るであろう。
そのものに あなたは 飽きるまで 甘えることができる。
しかるのちは・・・。