caguirofie

哲学いろいろ

1.R.ジラール著:世の初めから隠されていること (叢書・ウニベルシタス)

1.犠牲の問題

まずは 技術的な――揚げ足取りになるような――批判から入ることを ゆるされたい。
それは ジラール自身のことばとして 次のふたつの文章を くらべて見ることです。

《a》殺さないために自分のいのちを投げ出すこと(donner sa propre vie) そうすることによって殺しと死との悪循環から抜け出すために自分のいのちを投げ出すことを ためらってはいけません。
(2・2・G)
《b》あらゆる供犠のやり方(toute demarche sacrificielle)は そのうえ特に(=中でもとりわけ)自分自身にはねかえってくる(retournee contre soi-meme)ようなものは 福音書のテクストのほんとうの精神に一致しないと結論せざるをえません。
(2・3・D)

Rene GIRARD:des choses cachees depuis la fondation du monde,Grasset
ISBN:224661841X

《a》と《b》とは 矛盾している。一見しての矛盾であるが その矛盾を著者が解決するその仕方が 矛盾したものになっているように思われます。
まだ 文脈も明らかにしませんが 《a:自分のいのちを投げ出すこと》と《b:自分にはねかえってくる供犠(自己犠牲?)のやり方》とは 同じことのように考えられるとすれば 一方では それが 積極的に評価され 他方では 排斥されている。
引用文《b》のコンテクストでは 次にように述べられます。

《b-1》 《自分を対象とする》犠牲・・・。キリストがその例で 自分自身を犠牲に捧げるということは 最も気高い行者と言えるでしょう。〔したがって 《b》の中の〕たしかに この供犠ということばであらわされるものをすべて断罪するのは 行き過ぎです。私はそんなことを考えているのではありません。
(2・3・D)

この前半は さきの《a》と同じ内容だと思われます。後半の一文は次のように続きます。

《b-2》 しかし・・・福音書の精神は 《神の国》のおきてを 《自己犠牲》という否定的な様相で示すことはけっしてありません。
(2・3・D)

こうなると 《a》の《自己犠牲》は 《否定的な様相で》とらえられるものでないとすることによって 《b》群と一致してこれが 肯定的に評価され 主張されていると考えることができる。《a》文の中でも 《殺さないために / 殺しと死との悪循環から抜け出すために》という条件が示されていて これによって その自己犠牲は 否定的な様相をおびるものではないと判断されている。その意味で《供犠のやり方》としても 排斥されるものではないと言われているようである。
単純に考えると 自己犠牲といえば 一般に そのこと自体として 否定的な様相を帯びると思われます。少なくとも 様相といえば 自己に対して 否定的な感触を受けるように思いますが その引き受け方としては たとえば《殺しをおこなわないために》という条件のもとにおくことによって むしろ積極的な行為としての自己犠牲が考えられているようです。言い換えると 《b》の中の《供犠》ということばで表わされるものは 考えるに しきたりや制度としておこなわれる犠牲のことであり それは 平たくいえば 或る犠牲になった者への慰霊のために自分も犠牲になりつつ しかるべきもう一つの犠牲を作り出すといったことのように解されます。
つまり 今度は いま述べたたぐいの犠牲こそが 明らかに《殺しと死との悪循環》の中に位置するものなのだから これは排斥される。と同時に もし推奨されるべき自己犠牲があるとしたなら それは むしろ悪循環の供犠合戦に 異議をとなえ じっさいの場合 それに抵抗し これらの抵抗によってたとえ自らが犠牲になっても その積極的な場合こそは ためらうべきではないそういう種類のものなのだと。
ひととおり 初めのわたしの物言いについて 説明が聞けたとは思います。でも 話はここからであるはずです。

自己犠牲とは

犠牲が 社会的なしきたりとなり供犠となって悪循環に陥ることには とうぜん反対だという言い分について まず このように説かれます。

供犠(サクリフィス) 犠牲にする(サクリフィエ)などのことばは 神聖な(サクレ)ものにする 神聖なもの(ル・サクレ)を生み出すという正確な意味を持っています。犠牲者を神聖化するのは 祭司(つまり制度的な)の与える一撃です。この犠牲者は暴力によって殺され 消され また同時にあらゆるものの上に置かれ いわば不滅な者にされるのです。供犠は 犠牲者が神聖化された暴力の手に引き渡されるときに生み出されます。
(2・3・A)

供犠というからには 犠牲に対してただ新たな犠牲をもって仕返しをするというだけではなく 祭司を設けた制度のことをも含みます。制度としては 初めの犠牲者に対して その神聖化をもって その不滅をたたえ そのあやまちを二度と繰り返さないようにという儀礼のことをも含んでいると ここで分かります。それはそれとして しかも それだけではいけないとジラールは語っているようでもあります。もしくは その供犠制度は 考え方じたいから まちがっていると言っているかもしれません。
いま とりあえずは この供犠儀礼にそのまま乗っかってでは(あるいは そこにたやすく組み込まれるようでは)いけないと言っていると解されます。《自分のいのちを投げ出すこと》が否定的な様相を帯びてではいけないというのは そのことのようです。供犠儀礼の制度に組み込まれることは 大きくは悪循環のなかにあることであり とうぜん否定的な様相を帯びることになるのだと。早くいえば わたしたちは 抵抗しないのではないと。また あとで 祭司によって神聖化される というより 社会的に公的な制度として 手厚く慰霊されるという儀礼が控えていても あたかも その同じ社会のやむを得ない要請によってであるかのように 広い意味での暴力のもとへと自己のいのちを投げ出すことには 最後まで抵抗するのだと。あとから祭り上げられるような様相と性格との自己犠牲は あくまで悪循環のうちにあるゆえ 反対せずにはいられないと。
ジラールは 肯定すべき自己犠牲についても語ったわけですから こちらのほうをあらためて捉えてみます。命題の《a》は とうぜん所謂

《a-1》 《友人のためにいのちを捨てる以上の大きな愛はない》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書15:13)のです。
(2・2・G)

ということですが これの説明をさらに詳しく聞きたい。引用がつづくけれども 途中に注釈を加えつつ――

非暴力はどうして致命的なものになるのでしょうか?もちろん非暴力は それ自体が致命的なものではありません。非暴力は全体的に生を志向するもので 死を志向するものではありません!《神の国》のおきては どうして死のおきてになりうるのでしょうか?それは 他の人々が《神の国》のおきてを拒否するから 死のおきてが可能になり また必然にさえもなるのです。

  • すなわち通常のことばで言えば 《a》の自己犠牲の命題を 《b》の供犠制に反対するがゆえにこそ 引き受けることをしないなら 殺しと死との暴力の悪循環は断てないと言っている。もう少し聞こう。

暴力を破壊し尽くすためには あらゆる人間が断乎としてこの《神の国》のおきてを選べば十分でしょう。もしもあらゆる人間が 他のほほをもさしのべるならば ほほを打たれる人はひとりもいなくなるでしょう。しかし そのためには ひとりひとりが別々に そしてまた全員が一つにまとまって 永久に共同の事業に身を捧げることが必要です。
(2・2・G)

後半では なんと幼稚なことを言っているかと思われますが ただし 《ほほを差し出す》ことには 必ずしも単純な行為ではない内容があるとも思われるので 引用しておきました。すでにわたしたちが概括的に理解したことを確認できたとするなら 次の主題は おそらく 自己犠牲をためらわないでいられるのは何ゆえか だと思われます。ジラールは 聖書の文章を 躊躇なくかんたんに持ち出してくるから ときにわかりづらく ときには神秘的な議論になってしまいがちですが これを恐れずに 付き合っていきたいと思います。

ジラールは何を主張するか

次の引用文も あまり中味のはっきりしない議論です。それなりに一つのまとまった思想だと思うのですが まず最初のほうは 単なる論理的な説明であり つづいて 福音書のイエスが示される。なかで《基礎づくりの殺害》というのは 殺しと死との暴力――そして供犠制度――の悪循環の起源としてのそれであるようだ。

もしもすべての人間が自分たちの敵を愛するとすれば もう敵はいなくなるはずです。しかし人間たちが決定的な瞬間から身をかわせば 身をかわさぬただひとりの人間には 何が起こるでしょう?その人間にとって 生のことばは 死のことばに変わっていくでしょう。イエスに帰される行為やことばは 一見きわめて厳しいものも含めて また基礎づくりの殺害の解明や いまや致命的となった道から人間を遠ざけることの最後の努力なども含めて 《神の国》のおきてに合致しないようなものは一つもないということを 私は証明することができるように思います。
エス自身の宣教のなかの明確な原則への絶対的な帰依は イエスを死にみちびくことになります。イエスの死の原因は 隣人に対する愛――生きているあいだ最後まで イエスの求めるものを十二分に理解していた隣人に対する愛――のほかにはありません。《友人のためにいのちを捨てる以上の大きな愛はない》のです。
(2・2・G)

議論が必ずしも発展しておらず 決して奥に分け入ったものなのでもないでしょうが これが ルネ・ジラールの基本的な思想であると考えられます。
たしかに《出発点》の議論であるように思われます。ここに 初めの揚げ足取りの問題――《a / b》両命題のあいだの矛盾――に対するジラールの基本的な回答があるだろうと考えます。
ことは きわめて びみょうです。
まず ジラールの思想の出発点は 大きく聖書にあります。そして もしその思想が 考えるに いわゆる神学の議論にあるならば むしろそれとして(旧い議論の仕方で) いくらかなりとも対応するすべをもちます。いづれであっても その反面で シラールはその思想が 〔あたらしい〕人類学であることをうたっています。聖書にその思想の出発点を持つという反面で 経験的な思想であることを――つまり 経験合理性の問題であるとして―― 語ろうとしています。ここのあたりを どのように捉えていけばよいか きわめて微妙であります。
結論を延ばしますが こういういでたちで かれと対話していきたい。

2.犠牲をとらえる経験思想の問題

あらためて ジラールの主張の基本内容を かれが別のことばで語るところを 聞いてみます。キリストは愛であるというごとく しかしながら

愛は暴力と同じように差異を無くしてしまいます。構造的な読み方をする人は そのどちらにも目を止めません。

  • 構造的というのは 供犠制度を中核とする社会的な構造 それにのっとって・それに倣ってということであるらしい。

その〔愛と暴力との〕根本的な両立不可能性などには なおさら目を止めないでしょう。この両立不可能性こそ われわれが明確にしようと努めているものですが 私としては これについてはまず この問題にけりをつけることになった証明を全面的に参照していただかねばなりません。そしてまた小さな子どもにでもわかることがなぜ賢明な人 有能な人にわからないのかについて 新約聖書のことばを参照していただかねばなりません。
(2・4・C)

かえって 謎を深めたか もしくは つまらない議論の繰り返しにすぎないとさえ 見られかねないのですが わからないわけではない。すなわち 《愛――人間にあてはめて 〈殺さないための自己犠牲〉――》は いうとすれば 聖であるか 他方で 暴力も この犠牲を社会的なしきたりの中に取り入れ 聖なるものをつくりあげようとする――それによって しかしながら 殺しと死〔そして それの神聖視〕との悪循環 を おこないつづけるのだが 循環の起こる前には―― そこで 《差異をなくしてしまう》。よって これら《愛と暴力》とは ほんとうは《両立不可能》であるにもかかわらず 《構造的な読み方をする人は そのことに目を止めない》と言っている。
そのために《参照して欲しい》と言っている新約聖書のことばや また論証にかんしては けっきょくは――その長い引用を省かねばならないと思われることには―― わたしたちが前節のおわりあたりで見たごとく 経験を超えるところの思想の出発点に 帰着するもののようである。経験を離れてではないが 経験を超えて 信仰の謎のもとに語る理論が むしろ証拠であるようである。
たとえば

愛だけが真に問題を解明します。
(2・4・E)

と言って むしろ《子どもにも分かること》を 証拠としていると考えたほうがよいと思われる。その辺りも 吟味していけるかも知れないと思っているが ひととおりジラールの思想につかねばならない。
ジラールの言いたいところは こうであろうと思われる。《社会の歴史過程を 供犠制度という構造にもとづいて読む人》は その読みによって 真理が差異の対立を超えるごとく 普遍的なそれらの人なりの大きく信仰でやはり出発し いわゆる現代思想を持っているようである。しかも 両立不可能な愛と暴力とを――そして自己犠牲と 供犠としての犠牲とを――明確に区別しえていないのだという この点にある。よって 命題の《a》および《b》の問題。
聖書を持ち出すといっても 自己否定的な様相を帯びないところの人間の自己犠牲を・その実践をいうのであるから 経験思想であることを離れない。
愛が 暴力ないし供犠制度と 両立不可能であるというのは まだ じっさいのところ 論証されていない。愛が 人間の経験思想として 暴力の社会構造〔理論〕を超えるとは言っている。こういう形態の思想。

近代思想のあらゆる重要な理論 あらゆる思想形態が 人文科学の分野でも 政治の世界でも さまざまな犠牲の過程を対象とし これらの過程を告発しています。これらの告発はいつでも確かに部分的であり 互いに対立し そのいずれもが《おのれの》犠牲者を振りかざして 相手の犠牲者に対抗しています。キリスト教のテクストに目を光らせるこれらの告発は 歴史的なキリスト教と同じ供犠的な考え方(構造的な読み方)で テクストを読んでいます。そしてそうした告発自体が供犠から(または 暴力という出発点から) 派生したのです。
しかし全体的に見れば それらの告発が 犠牲の過程を文化の基礎づくりの過程(聖と俗とから成る文化構造の全体)として十分に把握し その解明の準備をしていることは明らかです。したがってそれが 打倒しようと思っているものの解明を目ざして準備を進めている――そうとは知らずに――ことも明らかです。
(2・4・E)

すなわち 《準備》ではいけないというわけである。いわゆる近代科学・現代思想は この準備にとどまっているのだと。
ただし――我田引水のごとく捉えようと思えば―― 準備であるなら そのように《愛と暴力とを区別せず混同している》ような思想も 混同ということは 愛のほうも しっかり見ているということだと 考えられている。あるいは その見る準備作業の過程にあると とらえたことになる。これによって 《愛》が論証されたかどうか まだまだわからないが 《愛が問題を真に解明する》ということの 準備をすすめているのが 構造的な読み方をする一般経験科学の思想だと言ったことにはなる。
ここには けっこう考えつくした表現の工夫があって 経験思想としてあくまで語ろうとして――また語りつつ―― 神秘を容れているという議論の仕方が 仄見える。これが 言うとしたら ジラールである。
少しわたしたちの言葉でとらえようと思えば 神秘を――真理を見たものはいないから 神秘を――むしろ指し示そうとして 経験的なことばで語ろうとしている。ここには 一般に人が 思想の出発点に なんらかの〔自覚すらしていない〕信仰理論を持っているはずではないかという疑いがある。経験思想でのみ議論をしているときにも 経験理論だけで進むのは どうしても部分的になったり 人間の問題を描ききれないといったうらみがある。 
(中断)

  • ここまで書いてきたが 内容は《えんけいりぢおん》*1および《文体》*2に十分に展開されている。重ねて披露するに及ばないことがわかった。