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哲学いろいろ

文体――第三十八章 余談の一章

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-02-18 - caguirofie050218よりのつづきです。)

第三十八章 余談の一章

第三十五章に 《男女平等へ埋めたい断層》と題した或る新聞の社説をよんだとき 《言葉は社会慣習と深く結びつく》とそれは 言っていた。わたしたちは 世間話として触れるにとどめた。 わたしたちの日本語では 英語が《人》と《男》を――あるいはドイツ語がさらに《夫》をも―― 《 man 》あるいは《 Mann 》の一語で呼んでいるのとは違う慣習があるというにとどめた。日本語あるいは日本人の社会が ヨーロッパ世界に対して後進しているのではないかといった観念 もしこのような観念があるとすれば その点につき はっきりさせたい。
精神の政治学では 《先進 / 後進》といった見方をとりたくはない また とれないだろうということを議論したかった。《後進〔国〕視》の逆転をねらったものではないと重ねて述べて 次のように整理したおきたい。

・・・・・・・・・・・・―人―・・・・・・―男―・・・・・・―夫―・・・・・・―女―・・・・・・―妻―・・・・・・
Japanese ・・・・hito・・・・・・・otoko・・・・・・・otto・・・・・・・・・onna・・・・・・・tuma・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(wotoko) ・・・・・(wohito)・・・・・・(womina)・・・・・・・・・・・・・・・
Chinese・・・・・・ren・・・・・・・nanzi・・・・・・・・zhangfu・・・・・・・nuzi・・・・・・qiz・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・ (人)・・・・・・(男子)・・・・・・・・(丈夫)・・・・・・・(女子)・・・・(妻子)・・・・・・・
Korean・・・・・・saram・・・・・・namja・・・・・・・・nampyeon・・・・・・yoja・・・・・・anae・・・・・・・
・・・・・・・・・・・(・・・)・・・・・・(男子)・・・・・・・・(男便)・・・・・・・(女子)・・・・・・・(・・・)・・・・・・
Malay・・・・・・・・orang・・・・・laki-laki・・・・・・・suami・・・・・・・・perempuan・・・isteri・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・manusia・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Russian・・・・・tyelovyek・・tyelovyek・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・lyudi・・・・・・・muzhtina・・・・・・muzh・・・・・zhyenssina・・・zhyena・・・・・・・・
Greek・・・・・・anthropos・・・anthropos・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・anaer・・・・・・・・・anaer・・・・・・・gynae・・・・・gynae・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・arsaen・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・thaelys・・・・・・・・・・・・・・・・・
Latin・・・・・・・homo・・・・・・・・homo・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・vir・・・・・・・・・・vir・・・・・・femina(mulier)・・uxor(mulier)・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・masculus・・・・・・・・・・・・・・・・・femineus・・・・・・・・・・・・・・・・・
French・・・・・・homme・・・・・・homme・・・・・・homme・・・・・femme・・・・・femme・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・mari/epoux・・・・・・・・・・・・・・・epouse・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・male・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・femelle・・・・・・・・・・・・・・・・・
English・・・・・・man・・・・・・・man・・・・・・・・husband・・・・・woman・・・・・・wife・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・male・・・・・・・・・・・・・・・・・・・female・・・・・・・・・・・・・・・・・・
German・・・・・・Mann・・・・・・Mann・・・・・・・・Mann・・・・・・・・Frau・・・・・・・・Frau・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・Mensch・・・・・・・・・・・・・・・・・・Ehemann・・・・・・・・・・・・Ehefrau・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・maennlich・・・・・・・・・・・・・・・・weiblich・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・人・・・・・・・・・・男・・・・・・・・・・夫・・・・・・・・・・・女・・・・・・・・・・妻・・・・・・・・

  1. これらは 前章などに引用した聖書の文章からひろってみた用語である。全部のありうる言葉を集めたわけではない。特に《配偶者》といった意味合いの語などが落ちているかと思うし さらにいろんな表現もありうるしするが 同じ一つの原文(このばあいギリシャ語)について用いられた用語である。
  2. ギリシャ語・ラテン語そしてロシア語では 《人》と《男》とは きちんと区別されている。日本語の訳文との関連のうえでは 《人》の語が《男》――さらには《夫》――を意味するかたちで用いられている結果とはなっている。ただし これらの三つの言語で 《男》と《夫》とは 同一語か同根語かである。
  3. フランス語・英語では 明らかに 《人》と《男》とが同じことばであるし ドイツ語では 《男》と《夫》がそうでありうる。
  4. ヨーロッパ(いわゆるインド・ヨーロッパ語族)のことばでは 《男 / 女》に対して 《男性 / 女性》という単語が 別様に(別の語根で)も 存在しうる。
  5. アジアの言葉は これら(2)ないし(4)の項目で ちがっている。《人 /男 /夫 /女 /妻》の各語は おおむね互いに異なったことばを用いる。(ただし ヨーロッパ語には ことば〔名詞〕に性がある。)
  6. 朝鮮語では 《人》のことを 《生きる(sal-ta)》の語から作っていることが おもしろい。
  7. マライ語(インドネシア語)の《manusia=人》は インド(サンスクリット語)から入ったらしく 英語の《 man 》と同源である。ちなみに《 orang =人》は いわずと知れたオラン・ウータン(orang hutan = 森の人)のそれである。
  8. アジアの言葉は ヨーロッパ諸語と これらの単語のあり方で違っていると言っても 日本語の《おっと》は 《をひと》のことであって ドイツ語が 《 Ehemann =結婚の人・男》と言うのと それほど ちがわない。
  9. 《をひと》は 《男人》だとも説かれるし わたし個人の考えでは 《我人》ではないかとも思われる。/a/と/o umlaut/とは 母音交替しても /a/と/o/とはしないから 愛嬌になるが 《をとこ wotoko 》は《わたくし wataku-si 》というのと 同根ではないかとさえ感じられる。
  10. 日本語で――他のアジアの言葉と同じように――《ひと》と《おとこ》とを区別して用いることは 《き》が《男》を 《み》が《女》をそれぞれ表わしたことに はっきり現われるのだと思われる。(他のアジアの言語でも 関連して議論がなされうると思われるが いまは 余裕がない。)《をとこ》の《こ ko 》が 《き ki =男》〔の母音変化形〕であり 《をみな》の《み mi 》が 《み=女》であると。以下はさらに愛嬌であるが 《おきな翁》と《おみな嫗》とであり 後者が《→をみな》となるのは 《を(我)−おみな》によるとも推測される。《ををし(男男し・雄雄し)》と言うから 《を》がすでに《男》の意味ではないかとは 考えない。人が《わ wa たくしであること(自己到来)》を《を wo をし》と言ったとも推測した。《をち woti (復ち・変若ち)=若若しい活力がもどる》というのも 《わた wata くしであること》にもとづくのではないかと考えるとおもしろい。《おきな》には 《を》をつけて《をきな》とはあまりならず 《を‐ひと〔→おっと〕》として《ひと》のほうにつけた。

余談としての結論を次のように。
《言葉は社会の慣習とふかく結びついている》 それにもかかわらず 社会慣習の側面から見る限りで その言葉は どうでもよい経験領域に属している。慣習的に用いられることばのあり方と 基本主観の理念内容である男女平等のこととは 別であろう。《わたしの妻は》というところを おおむねヨーロッパでは《わたしの女は》と言っているのであるから これをその意味どおりに解して聞くと わたしたちは非常に奇異に感じる。そして 経験的にいわば 何か別の語を使ったほうがよいとさえ感じるが 本質(基本主観の存在)には かかわらないのであろう。
このことは ことば(概念)が 観念化されてはならないことを おしえている。ことばを 念観していっては いけないわけである。非常に不生産的となる。理念――基本主観の内容概念――も ことば・文字として捉えると 同じことであり 理念が 知解されさらには念観されたからといって これが わたしたちの存在に 取って代わるものではありえない。《名前》であるにすぎない。ことばは 理念のその代理であり 男女の性差別を否定する道具として 《男女平等》ということばを用いるが この理念は 基本主観のひとつの内容をなすものである。
(つづく→2005-02-20 - caguirofie050220)