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哲学いろいろ

文体―第十六章 戦後政治の総決算

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-24 - caguirofie050124よりのつづきです。)

第十六章 戦後政治の総決算

ふるくさい題名ですが。
いまいちど 《ファウスト》の物語にもどろう。コーヒーでも飲みながら しばらく読んでみよう。〈第一部 書斎〉の場(1178−1529)。

      ファウスト ムク犬をつれて登場しつつ
ファウスト:    深い夜のとばりにおおわれた             1178
         野や畑をあとにして来た。
         夜は予感にあふれる神聖な恐れで
         われわれの心によりよい霊を呼びさます。
         あらゆる奔放な行為を伴う
         粗野な衝動は眠ってしまった。
         今は人間愛が動き出してる。
         神への愛が動き出している。
     静かにしろ ムク犬! あっちこっち走るな!
     敷居のところで何をかいでいる?
     ストーヴのうしろに寝そべっていろ
     わしの一ばんいいふとんを貸してやる。
     おまえが外の坂みちで走ったり飛んだりして
     わしたちを喜ばした代わりに
     こんどは 歓迎される おとなしい客になって
     わしのもてなしを受けるがよい。
         ああ この狭いへやに
         ランプがまたしんみりとつくと
         わしたちの胸の中も
         おのれを知る心の中も 明るくなる。
         理性がまた物を言い始め
         希望がまた咲き始める。
         人は人生の小川へ
         ああ 生命の源へ あこがれる。
     うなるな ムク犬! 今わしの全霊を包んでいる
     神聖なひびきに
     動物の声はそぐわない。
     われわれは自分のわからないことはあざけり
     しばしばわずらわしくなる善や美に対し
     ぶつぶつ文句を言うものだ。
     犬も人間なみに それをぐずぐず言うのか。         1209
(ファウスト 第一部 新訳決定版 (集英社文庫) 高橋健二訳)

ということは――ファウストが こうして 議論をもつということは―― 第一に 《夜》である。
《夜》のデーモンの《野や畑をあとにして来た》その《狭いへやに / ランプが・・・つ》いて まず 夜である。《夜から 歴史を 始める》。第二に 《むく犬》は 悪魔メフィストフェレスの変身した姿だと考えられている。これを 自分の部屋に《つれて》来ている。この意味でも 《歴史を 夜から 始める》。
第三に したがって この夜のひととき 《ああ 生命の源へ あこがれる》ことと 《善や美に対し / ぶつぶつ文句を言うものだ》ということとが 後者は 前者に 基本的に 先行せず後行するものだと考えられるが しかも 同居する。同居はしなくとも 互いに 混同する。混雑のなかにある。薄暮である。
すなわち第四に この夜 仕事を終えて 自分の部屋ですごすひとときに持つわたしたちの議論もじっさいには 昼の世界でおこなう仕事や議論と 基本的に言って 変わりはないということだ。いま腰をおちつけて じっくりゆっくり かんがえてみることども  この問題・その議論の内容が 昼の仕事の世界でも――《ことばの自由化》とともに―― まったく同じように 流通するということだ。そのような文体の展開が この世で不可能だとは 私たちはよう言わないのである。

  • なお 《理性》とは 精神(こころ)のなかで最高の 霊と同じはたらきと見ていいであろう。記憶の・知解の・意志の それぞれの理性的なはたらき といった言い方ができるであろう。その他 《悟性》などという語もあるが 精神(こころ)のどこかの一階梯にいるのであろう。

ファウストのせりふがつづく〕
だが ああ! もうなんと思っても            1210
この胸から満足がわいてこない。
それにしても何ゆえにこう早く流れがかれて
またしても渇えねばならぬのか。
その経験はさんざんつんでいる。
だが この欠陥は埋めあわせられる。
われわれは超自然的なものを貴ぶことを学び
啓示にあこがれる。
それはどこよりも新約聖書のうちに
一ばんとうとく美しく燃えている。
原本をひらいて
すなおな心でひとつ
神聖な本を
好きなドイツ語に訳してみたくてならない。        1223
(二巻の書をひらき 翻訳にとりかかる)

ファウスト 第一部 新訳決定版 (集英社文庫)

ファウスト 第一部 新訳決定版 (集英社文庫)

したがって 第五に 昼の仕事の世界――そこに 《夜》も入りこむというのだから そういった意味で わたしたちの三つのテーマとしては 学問の世界 女性論 及び 政治の展開される世界――にかんして そう読むとならば ここで ファウストは 《ことば》を自分の主題もしくは それへの接近の入り口とするのである。ゲーテにしたがえば 聖書である。

こう書いてある。《初めに語(ことば)ありき》        1224
ここでもうつかえる。だれの助けをかりて先へ進もう。
わしはことばをそれほど高く値踏みすることはできない。
霊の正しい示しをうけているなら
わしは別に翻訳しなければならない。
こう書いてある。《初めに意(こころ)ありき》
軽率に筆をくださぬように
最初の行をよく考えよ!
万物を造りなすものはこころであろうか。
こう書かるべきではないか。《初めに力ありき》
だが こう書きくだしているうちに もう
これではならぬという感じがおこる。
霊のたすけだ。不意に名案が浮かび
案(ママ)んじて こう書く。《初めに行ないありき》       1237
ファウスト 第一部 新訳決定版 (集英社文庫)

という《初めに ことばありき》なのである いまの議論にそっては。
《初めに行ないありき》ということばが 文体の性(女性論)・文体の自治(政治)・文体の客観認識(科学)のはじめに あるというのである。それらの基礎に 生活があり とりわけ その経済的な側面が 《行ない》として はじめにありきと言うべきであると 人は見るかもしれない。経済の行動が 基礎として はじめにあるのは わかっている。その経済も 精神の知解行為にはじまる。生活・経済・つまり要するに食べることを 本能のままに おこなっていたなら そういう意味での 初めに行ないありき なのであるが 人間は猿から進化したのかどうか知らないが そうだとしても 人間となったとき 自覚したとき そして 食べよう・はたらこうと自覚するにいたるのが人間であるから この初めの経済の行ないに ことばが先行している。物を言わなくとも 内的な記憶・知解そして意志という《ことば》の行為が 先行している。同時一体だが 経済が 基本主観にとっては 後行している。そして 基本主観におけるこの《ことば》の確認としての 観念が 出て来うるのである。
ただし――つまり だから―― 《この》ことばは 《それほど高く値踏みすることはできない》。先行する自然本性と言っても ほとんどすでに経験行為となっているところの文体展開――その主観基本ではあるが――として 《この》初めのことばは あると考えられる。

  • つまり 聖書の《はじめにことばありき》は 人間の経験的な文体行為のことばと あの《自然》のなぞでもって つながれている。なぞとは 不明瞭な寓喩であり 人間の経験領域において明らかなかたちで 《はじめにことばありき》と言うことはできない。そう言いうるのは 《それほど高く値踏みすることはできない》文体の経験行為におけることばについてなのである。だから 言い換えが効く。《超自然的》というのは やはり 《自然のなぞ》なのであって わざわざこの自然を超えていく必要はない。

ファウストの聖書の翻訳における試行錯誤は 自然のなぞを あらわしている。

わしといっしょにこのへやにいたいのなら            1238
ムク犬め なくのはよせ
ほえるのはよせ!
そんなうるさい仲まを
そばにおくことは我慢ならぬ。
ふたりのうちの一方が
このへやを去らねばならぬ。
不本意ながら お客としてのもてなしは撤回だ。
戸があいている。かってに出て行ってくれ。
だが これはどうしたことだ!
こんなことが自然に起こり得るだろうか。
まぼろしか うつつか。
ムク犬のやつ 縦よこに大きくなるぞ!
勢いよく起きあがる。
これは犬の姿ではない!
わしはなんというばけ物を家に連れこんだのだろう!
もう河馬のような恰好になって
火のような目 恐ろしい歯なみをしている。
おお きさまはもうわしのものだぞ!
こんな地獄の生まれそこないには
ソロモンのまじないがきくはずだ。           1258
ファウスト 第一部 新訳決定版 (集英社文庫)

こうして デーモンが 踊り出すのです。
ちなみに 《まじない》の部分をもかかげて そのあと まず メフィストフェレス(つまり かれがムク犬となっていた)が その正体をあらわすところまで 引用します。ただし この正体というのは もともと正体不明のものが 別のかたちのデーモンとなって現われるというにすぎませんが。

ファウスト:まず この書物をあしらうには        1271
      四元のまじないが必要だ。
          火の精サラマンデル 燃えよ
          水の精ウンデーネ うねれ
          風の精ジルフェ 消えよ
          土の精コボルト つとめよ。
          ・・・
          炎となって消えよ!
          サラマンデルよ!
          ざわめきて流れ寄れ
          ウンデーネよ!
          隕石の美しさに輝け
          ジルフェよ!
          家事の手だすけをせよ。
          インクブス! インクブス
          歩み出て 結末をつけよ!
・・・・・・・・・
   メフィストフェレスが 霧の散るとともに 遍歴学生のような装いで ストーヴのうしろから現われる。
メフィスト:なぜそんなにお騒ぎになるんですか。何のご用です!       1322
ファウスト:それじゃ それがムク犬の正体だったのか。
      遍歴学生か。こいつは笑わせる。
メフィスト:博学な先生 ごあいさつ申しあげます。
      たっぷり汗をかかせましたね。
ファウスト:名はなんというかね!
メフィスト:            けちな問いですね
      ことばをあれほどけいべつし
      いっさいのあらわれを遠ざけ
      ひたすら本質(=存在)の奥を目ざされるかたにしては。     1330
ファウスト 第一部 新訳決定版 (集英社文庫)

このあとの問答に メフィスト

私は常に否定する精神です。      1338

といった語句などが 書かれている。引用ばかりしていては 能がないから ストップしよう。
メフィストも 《常に否定する》ところのだが《精神》であると言っている。《ことば・文体》があるはずである。しかも 正体不明なのではないだろうか。つまり このデーモンは 《ことば》の客体的な確認なのであり ほかならぬ観念ではないだろうか。つまり ことばが ない。ことばが 逆立ちしている。その精神!!!
わたしたちは これを《悪》(1343)とよんでもよいと思う。悪とは 善の欠如であり 善とは 存在(自然本性・基本主観そして経験領域)のことである。悪とは だから この存在の欠如であり 経験行為として 文体(ことば)の欠如にほかならない。このデーモンは 作用のことであり 人間は だれもが ことばをいだすから もしそれが デーモンに取り憑かれているとするなら ことばの分断と停滞と確認 そしてその観念化されたものにもとづき ことば・文体をさかだちさせる その愛(女性論)であり 意志として政治行為である。その観念は 科学行為にも その主体つまり人間をとおして どうも 入りこむものであるらしい。
また 悪とは 作用(デーモン)として 善の欠如であり 人間の行為として 善=存在→ことば・文体の ずれた切断・だから停滞する観念なのではないだろうか。これによって 善人と悪人とという表現がありえないことはないが 人はすべて その存在において・基本主観として 善人である。つまり 存在している・生きていると言っているにすぎなくって よいのだから。
科学論は 脇に措いておくとしても ここに 女性論および政治の問題がある。すなわち 人による人の支配。男による女の または 時にしばしば 女による男の。つまり 観念に支配された人の 文体展開の問題。これの わたしたちへの デーモン的なえいきょうの問題。観念のデーモンの 体系化・そして社会経験的に構造化するもんだい。悪は おどりだすと言ったのである。物質に熱をあてると 基本粒子が飛び出してくるというそうな。ファウストの《まじない》は そんなことをじっさいにする必要はないが 《神聖な熱火でおまえを焼いてくれるぞ! / 三たび燃える光を / 待つな! / わしの術の一ばんきつい手を / 待つな!》(1317−1321)というものであった。
言っておきますが これが 精神の政治学の具体的な議論でもあるのであって むしろそのすべてなのです。愛・意志のもんだいとして。わたしたちは 《夜から》始める。

ファウスト:きみは部分だと名のりながら
      全体としてわしの前に立っているではないか。        1345
メフィスト:かけ値のない真実を申しあげたまでです。
      人間はばかげた小宇宙のくせに
      全体だと思いがちです。
      私は初めはいっさいであった部分の部分です。
      光を生んだやみの 部分です。
      高慢な光は 母なる夜を相手に
      古い位と空間とを争っていますが
      うまく行きっこありません。いくら努めたところで
      光は捕えられて 物体にくっついてるんですから。      1354
ファウスト〈第一部〉 (岩波文庫)

といいうメフィストの忠告にしたがって 《夜》を どうでもよく かつ おそれるべきと捉えている。その夜から わたしたちは 歴史を 文体の展開として 始める。たしかに 人間の基本主観の《光は捕えられて 〈経験領域のこころ ないし 人体自然のからだ〉なる物体にくっついてるんですから》。
じつに わたしたちの無力 の自由(またその意志)は 悪をおこなうことができます。あの自然の過程は それ自身の欠如たる悪の観念に 意志の自由ゆえに かたむくことが出来た。《それ(傾き)にもかかわらない》自然の政治と 《それにもかかわりうる》さかだちした政治の自然。無力の自由な 有効な 愛と デーモンの有力のなかで 無効ながら実効性をもつ愛と。《光は 捕えられて 物体にくっついてるんですから》 ふたつの政治・ふたつの愛は この世で 互いに混同している。
これが ひろく 政治の実態であるのです。わたしたちは アダム・スミスにしたがって 自己(基本主観の精神と 経験領域の精神とが あるが)の利益を追求していくことによって そういうかたちで文体を展開し 政治を推し進めていくでしょう。なにか ひとつ善の星をめざすのではない。悪を 観念の精神によって もともと(根は)善なのだと言いくるめるのではない。観念のデーモンから 限りなく遠くにあり かつ 限りなく近づいて 文体を展開し にらみつけてやれば よろしい。おまえさんは 有力だが しかも 無効だと みとめ 指摘してあげればよい。この無力の自由な精神の政治学が 有効でありえず したがって 実現不可能だとは わたしたちは よう言わないのです。そういうことは 能力(自然本性)によって 言えないのです。
《はじめに ことばありき》でも 《初めに 行ないありき》でも もはや どちらでもよい。わたしたちは すでに 経験領域に入っている。いや 近づいている。すなわち 基本主観の無力を知っている。かつ 経験領域からの有力なデーモンは 観念であって 無効つまり正体不明であることを知っている。観念のデーモンが正体不明であるという正体が 明らかである。ゆえに これに対するかたちで言えば ことばは 過程的である。そのことば自体は それほど 高く値踏みすることはできない。かつ そのことばを自由に展開すること自体は 有効だと知っている。《おこない ことに経済活動》は その基礎であることを知っている。
しかし 経済活動は 後行する領域である。先行する基本主観のほうが 無力である。無力なほうが 有効である。経済活動つまり要するに生活は この有効性の基礎である。そうであることは なぞを持った自然によって 保証されている。観念の政治は――じつに 観念の政治が―― このことを おどろくなかれ 知っており 観念の無効のもとに その無効の有力を楽しんでいるのだ。なぞの自然による保証 基本主観の先行を 自分たちこそが それらに先行して保証してやっていると 考えているのにちがいない。そういう無効の有力。さかしまの有効性。おばけ。かれらは 自然本性の有効性に触れている限りで じつに もと来た道を引きかえして 狂想のおどりをおどりはじめることができる。基本主観が回復されていくのである。
経験的に具体論として アダム・スミスは 個々の人びとの自由な利益の追求を言うことによって そこから この観念の政治に対抗して 始めなければならなかった。これは 基礎の領域として 語ったのである。先行する精神の政治学は だから やはり 何もしないたたかいである。女性論も おなじような動きが起こったと考えなければいけない。通俗的に言わば これらの歴史の総決算の時代に わたしたちは 入っている のではないだろうか。総決算をこと立ててしないことによって 観念のデーモンが いよいよ踊り出て 戦後政治の総決算をむかえることであろう。
(つづく→2005-01-26 - caguirofie050126)