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哲学いろいろ

文体―第十二章 デーモンが踊り始める

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-13 - caguirofie050113よりのつづきです。)

第十二章 デーモンが踊り始める

例えば 上衣が価値物として亜麻布に等しいとされることによって 上衣にひそんでいる労働は 亜麻布にひそんでいる労働に等しいとされる。
・・・
上衣が亜麻布の等価をなす価値関係(――ある意味で デーモン関係といってもよい――)においては〔このように〕上衣形態は 価値形態とされる。亜麻布なる商品の価値は したがって 上衣なる商品に肉体で表現される。一商品の価値は他の商品の使用価値で表現されるのである。使用価値としては 亜麻布は上衣とは 感覚的にちがった物である。価値としては それは《上衣に等しいもの》であって したがって 上衣に見えるのである。このようにして 亜麻布は その《自然》形態とはちがった価値形態を得る。その価値たることが 上衣との同一性に現われること ちょうどキリスト者の羊的性質が その神の仔羊との同一性に現われるようなものである。
(¶1・1・1・3〔A・2・a〕1867)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

《亜麻》という一植物 その他一般に資源をとらえるべき言葉としての《自然》に注意を向けたいがために わざと カッコでくくった。つまりわたしたちは ファウスト的な自然を 第一位に置いて考えてみたいわけである。
この植物を《あま》とよぶその言葉は 概念である。また この概念づけの行為も 人間の文体の展開の一環である。概念は 抽象的である。それゆえに 一般性・普遍性をあらわすことができる。Aという土地に生えているものも《亜麻》と言い Bの土地から取ってきたものも《亜麻》とよぶ。モノは二つであるが 言葉は一つである。そして 言葉の表出・表現は それとして 経験行為である。定義としては 基本主観の先行を得た結果であるという。時間的なあとさきではないであろうが 人間は自然の存在でもあり この自然はなぞを持っていたから そこにおいて 主観基本に後行して 文体が発動される。
《あま》は 《あかごま》とも《ぬめごま》とも呼ばれるそうだが これらの言葉でよぶモノが 同一の植物だと判断するのは 基本主観〔の社会的な共同〕であり 中でたとえば《あま》を一つの共通語にしようと仮に取り決めるのも 主観基本の共同(また協働)にもとづいている。さらに仮に その地方ではそれまで《あかごま》と名づけ用いていたものが 《あま》の語の普及とともに押し流され 無力(廃語)となったとしたら それでも 人びとの基本主観〔の先行性〕が消えたわけではない。このような おおきく自然――おおきく自然――のうちに たとえば 名づけるという文化――だから 亜麻の栽培・活用の文化――がおこなわれ その使用価値(効用)をもった文化は 交通・流通をとおして普及し 広く文明としていとなまれる。
人間は その実物の草を見て 《あま》と言い出すのだが 人間の自然本性は 身体〔のその視覚〕だけではなく 精神を持っており この能力で 亜麻の視像を記憶し その言葉を記憶し また亜麻の茎の繊維を知解し その用途を知解し 活用を意志する。つまり 具体的な草をいま見ていなくとも 言葉で考え 議論をしあって 亜麻に対する生活態度を意志し つくりあげていく。このとき 概念たることばは その概念の確認として観念になりうる。

生活態度において 基本主観の先行のもとに 概念を用いるぶんには 危険はない。亜麻布を織り 上衣につくりあげるという欲求(意志)の問題である。上衣じたいが 亜麻布じたいが だから亜麻じたいが 欲求されることもあるわけである。そのものを具体的に見て あるいは見ていなくとも記憶の視像によって そしてこの概念として。
人間の社会は 一般に分業形態をとるようになったのだから 亜麻の発見から上衣の生産および消費までの一連の生活態度としての意志のなかにではなく 言葉が言葉として切り離されてのように持たれるとしたら 事実 持たれるのであるから この概念は それとしての確認というコトのなかで 観念となっている。これは 人間の精神(記憶と知解と意志との行為能力)の《自然》が 一連の〔生活〕過程としてではなく・または なぞをもってではないようにして 持ちうる能力の一形態である。
《この上衣が欲しい あの上衣が欲しい あるいは とにかく上衣が欲しい》という一個の文体は とうぜん初めの《自然》の一部(ないしその展開)であるが なぞをなくしたか・それとも一連の過程のなかの単なる一段階に属しているということがありうる。この 概念をもってする文体〔行為〕が またこの文体〔の内容〕じたいが 一つの概念となって 確認される時 それが 観念と言われる。
この観念が 人をして労働を促し 購買力を得ようとせしめ 初めの自然的にして・かつ分業社会的な経済生活を 《推進》していくとしたら これは 観念の資本と言うことができるであろう。じっさいには すでにおこなわれている文明において 特に経済活動の流れのなかにあって 影響を受けてのように 概念確認といった念観・観念が 生じてくるものと思われる。これを生じさせるのは 《情念(欲求)と意味》のデーモン作用であり 生じた観念を追及させるのも それであるだろう。もう少し精確にいうと ここでも――少なくともわたしたちの定義のうえでは――人びとのそれぞれ基本主観が先行しているのであるから この先行する精神が デーモンのはたらきに同意したわけである。欲求・欲望・感性などの これも自然だが これじたいには あまり罪はない。デーモンという無効のはたらきは 文体として 精神の政治学が 習慣化とともに時間の停滞をもって傾くことによって起こる。また 自己の政府の傾きじたい(非民主化)が デーモン作用である。かくて後行する経験領域において デーモン関係の社会が現われる。
このデーモン関係をどうでもよいものと見 かつおそれるとわたしたちが言うのは けっきょく 先行する自由な《自然》の基本主観が この後行するデーモン関係的な経済生活の大いなる展開の前に 無力となることを言っている。自然でなくなったわけではなく 人間的でなくなったわけでなく――なぜなら デーモン関係も 人間の精神のしわざのもとにある―― したがって依然として 基本主観はむしろ後行する経験領域をたずさえて 自由で有効であるが 有力となったのは デーモン的な経済関係のほうである。あるいは 知解に発する経済関係だけではなく 意志に発する政治(共同自治)や記憶に発する社会組織ないし人間関係やを 含めて 言ったほうがよいかも知れない。
人びとは ここで 学問し 経済をかんがえる。(経済・知解は 基礎であるから この側面で こう表現する。)
たしかに 《このようにして 亜麻布は その〈自然〉形態とはちがった価値形態(文化および文明の)を得る》ようになっている。わたしたちはこれを デーモン関係と言うと ペシミスティックにひびくから またじっさい 社会の歴史は 自然からの文体展開としての文化行為およびその交通形態である文明なのであるから この後者のように言うほうが よいかも知れない。ただ デーモン関係と捉える場合にも 文体の基本線で先行する基本主観が 消えてなくなったわけではない。この中に位置して――たしかにみなが位置しなければならない―― かつこのデーモン関係の後行する経験領域のみを・その展開を 《客観的》に 認識するとすれば それは 《四角く(法と比率で)くぎられた文化の経験現実の意義》についての学問となるというのは 必然である。《四角に区画された文化ルールの窓からのみ 〈自然〉をながめる》という結果も 必然しているにちがいない。つまり かくて 基本主観は 後行するかに見なされる。精神の政治学などというのは 幻想である・観念であると うわさされる。それは 観念の政治学が うわさするのである。
いや それは倒錯だ 無効の文体が実効性を持って 後行する経験領域で有力になっているにすぎないと考える(また これを学問する)人びとも いるわけである。また このデーモン関係の有力にたいして そう見ながらも 別種の有力を立てようとする人びと――そういう疑いをかけられるような文体も―― いると考えてきたことになる。ドストエフスキーは アレクセイ・カラマゾフをして 既成の有力な一般デーモンに対抗しうる別種の偉大なるデーモンとして ゾシマ長老を一番に推奨せしめ あるいはその文体を考え出さしめ 新しい文化社会を築こうと主張したかのようになっている。
ちなみに さらに別種の形態だが デーモン関係を克服しようとする《共産主義》とは

共産主義とは 生産手段の単一の全人民所有と 社会の全成員が完全な平等をもつ 階級のない社会制度のことである。

  • 《自然》的な一連の生活過程のなかで その一段階をそれとしてだけ取り出し それを有力なものとして独立させることのない社会――。

ここでは 人間の全面的な(――《ファウスト》的な――)発展とともに 生産力もまた 不断に進歩する科学技術(――精神の行為能力――)にもとづいて発展し 社会の富のすべての源泉が満々とした流れとなってあふれだし 《各人は能力におうじ 各人には欲望におうじて》という偉大な原則が実現される。共産主義とは 自由な 自覚した勤労者の高度に組織された社会のことであって そこでは 社会的自治が確立され 社会の幸福のための労働が万人にとっての第一の生活欲求 自覚された必要となり 各人の能力は 国民に最大の利益をもたらすように適用されるであろう。
(《ソヴィエト連邦共産党綱領》)

ここでは ゾシマ長老によるひとつの偉大な規範(模範)的な文体による自治ではなく 《自由な 自覚した勤労者による社会的な自治》だとすると これは まず この概念を用いて 表現するところの一つの文体である。しかも この概念が それを用いてすすむのではなく めざすべき星たる観念となるならば 《観念の資本主義》だといわなければならない部分がある。《自由な 自覚》は 無力にされていても 《なぞを持った自然形態(その文化的な展開過程)》にあるのだから しかもそうではなく 《その自然形態とはちがった めざすべき価値形態》へと読みかえられていたとしたなら。
《〈自然〉過程の亜麻・亜麻布が 価値としては 〈上衣に等しいもの〉となっていて したがって 観念において 上衣に見えるのである》としたなら。いまのデーモン関係たる上衣を 克服し新たなものに着替えるというとき その新しい概念たる上衣が 観念の推進力となる別のデーモンのちからを おそれなければならない。上の引用文に対して 文体論としては これを 付け加えることができる。《自然過程の基本主観つまり個々の人が 上衣たる国家に等しいものとなっていく観念のデーモン》を それは 内政干渉しえないどうでもよい領域にあるから おそれる。
概念が観念となるのは たしかに 基本主観の視点が ずれることによってである。《専門への専念と 全面性への断念》を 統合する文体としての概念が それは それとして 過程的に用いられるのみであるのだが 大きく歴史の(あるいは生活の)一連の過程から切り離されて その一階段において 見られ念観され――想像し念観すると その想像の鏡の中では 歴史が展開されているように 思うことがある―― また信奉されるのは 観念である。《生産のちからが発展し 社会の富のすべての源泉が満々とした流れとなってあふれだす》という段階まで 一連の過程として 見通しているという分には それは それでも 《いまは無力となっているが それでも自由だと信じられる――なぜなら それゆえに 〈共産主義〉という文体が出てくる――基本主観》が ともあれ・ともかく 社会的な経験領域における生産のちからの増大というデーモン(もしくは文化行為)に そうやって 後行すると言ったことになるから。これは 揚げ足取りであるが 《基本主観は 無力でも 先行するゆえに これこれの見通しを持つ》と 文体は 言っていなければならない。そういった但し書きが 省みられるべき問題である。さもないと すべてが つまり個々の人間までが 価値(文化意義)として 観念の上で(観念の国の中で) じっさいの国家に等しいものと見なされる。そういう社会〔‐政治‐経済〕的な構造 つまりデーモン関係となっていることになる。
このときは だけれども 現在が 現在時点が 生活態度 現実の生活だということにしかならないのではあるまいか。《なぞをもって生活する 自然の存在たるわれは 厳にここに 立っている》というのが デーモン関係の克服の第一のすがたである。
《このようにして 自然形態とはちがった文化的な価値形態たるデーモン関係のなかに 自然が 無力ながら自由に 回復されている。》《その亜麻布の価値たることが このデーモン関係の中で 上衣との同一性に現われること ちょうどキリスト者の羊的性質が その神の子羊との同一性に現われるようなものである。》
ファウストにならって《キリスト者の羊的性質》を 《なぞをもった自然本性(つまり人間)》だと解釈するならば この人間は 経験的な文化領域たるデーモン関係の世界と こういった観念〔の価値〕の関係をとおして からみあっている。つまり 観念は もともとは概念なのであるから 人間にとって・生活過程のなかで 一つの視点を提供して わたしたちがこれを用いていくことが出来る。亜麻布の自然形態 その自然形態の展開たる過程的な一環としての上衣を 用いていくことができる。いまの上着のためにでもなければ それを克服する新しい上着のためにでもないだろう。
このまま ふたたび

理性的であるものこそ現実的であり
現実的であるものこそ理性的である。
ヘーゲル法の哲学〈1〉 (中公クラシックス) 1820序文)

と言ってしまうと 見てしまうと わたしたちの概念が もうひとつの観念となるのである。
キリスト者の羊的性質が その神の子羊との同一性に現われる また 現われている》 ゆえに 現在こそが 生活の現実であって わが世の春だということになる。つまりその場合は このことばを 現在で切って 売り物(商品)としたことになる。《一商品の価値は他の商品の使用価値(現在価値)で表現されるのである。》ファウストの全生涯が フラスコの中に入れられたようなものである。
《亜麻布は 〔文化〕価値としては 〈上衣に等しいもの〉であって したがって 上衣に見え》てよいのである。ファウストは このデーモンとも 手をむすぶ。その生活の現実の過程 および 無力の 自由な基本主観。これが 《キリスト者の羊的性質》である。ここで 現在時が 現実の生活なのであって そうでないと 《その自然形態とはちがった価値形態を得た亜麻布》が 現実とみなされるか それとも わたしたちの敵とみなされる。敵は 無力だからというわけで後行領域へみずからを押しやり そこで停滞するような基本主観にある。無力のちからを言うほうが 現実で有効であり 有力なデーモンに属(つ)くほうが 無効で神秘的である。それは 鬼であり おばけである。ただし わたしたちは 文体として 言っている。
けれども すでに 《各人は能力におうじてはたらき 各人は欲望におうじて分けあたえられる》という文体 だから経験行為 の像が しめされている。これが すでに言われたゆえに 単に文体の基本主観として述べることができる。そして 述べるべきである。そうでないと ことばが死んでいく。そうでないと 後行領域をたずさえた基本主観が そのような内容を言うための留保条件の位置へ 後退させられるか それとも 後退しない場合には あたらしい別種のデーモンの有力を頼み その関係過程を展望しようとする鬼となる。

だが 能力におうじてはたらくという内的欲求が人びとにそなわらないあいだは

  • つまり はじめに 先行主観において そなわっていると見るゆえに この命題を表現したのであるのに じっさいには 後行の経験領域をたずさえているという一留保条件を重く見て これへと後退するかのように・・・

各人の労働におうじて支払うことなしには 社会はやっていくことはできない。

  • けれども その留保条件をしっているゆえに 承知のうえで 上の命題を立てたのではなかったか。

新しい共産主義的関係の特徴は すでに社会主義社会にあっても 労働と社会的所有とにたいする態度や 人と人との〔――デーモンを克服していく――〕関係のうちに 存在する。共産主義的原則をまもることは ときとともに 高い教養のある文化人の自然な ふつうのふるまいとなるであろう。しかし 忘れてはならないのは 社会主義社会では人びとの意識と活動のなかにある資本主義の〔――デーモン関係の――〕遺物がまだけっしてなくされてはいないということである。このことから 人民大衆の文化性と共産主義的意識とをたかめることが 必要となる。

  • これは前向きにであっても 鬼が必要だというのである。つまり 表現の仕方がまちがいである。

労働や社会的所有にたいする旧い態度の残存物や 官僚主義や 日常生活や道徳のなかにある過去の遺物や 宗教的先入見とたたかうことは 社会主義から共産主義への移行期全体をつうじて きわめて重要な意義をもっている。資本主義のこのような遺物をすべて克服するためには 大衆のなかで うむことのない ねばりづよい政治教育活動をおこない 全人民を共産主義的に教育することが必要である。
ソ連邦科学院経済学研究所:《経済学教科書》第四版 1962 ¶35)

主義主張の内容を別にすれば ここにわたしたちは ウェーバーの《職業としての政治・学問あるいは教育》のやり方と ほぼ同じものを見る。そして 亜麻というか一本の葦が 文化価値としては 党なら党という上着に見えるという一個の情況。文体論として このように言える。そしてわたしたちは 経験領域の問題としては デーモン関係のであっても その文化価値の中で それに対するかたちでそういった情況であってもよいと考えた。そして そのうえで 使用価値というか現在価値というか あるいは要するに価値以前の自然というか そういった葦が 無力でありつつ 自由であるというのなら わかる。ただしそれは 社会主義から共産主義への移行期であろうとなかろうと 歴史の一連の過程にあって・だから一生涯の過程にあって そのどの段階にいても わかる存在であること そしてそのあとに 経済‐政治‐社会的な政策も必要となっているものだと考える。資本主義社会にあっても 全然 過去のデーモンとたたかっていないというわけではない。
自由な自然ゆえに ファウストは ここに 立ち 生きている。無力となった自然ゆえに なぞのファウスト。いな なぞをもったファウストゆえに 無力で有効な自然および文化。
かれを 観念的に分析しないでほしい。観念的な分析のちからに対して 観念的に 擁護し 全面性を回復・統合しようとする鬼にならないでほしい。
マルクスは このことを言うために わざわざ大著を書いたとしか わたしには 思われない。

しかしながら 机は商品(観念化された概念)として現われるとなると 感覚的にして超感覚的な物(――情念と意味との観念 およびその鬼――)に転化する。机は もはや脚で床に立つのみでなく 他のすべての商品にたいして頭(観念)で立つ。そしてその木頭から 狂想を展開する それは 机が 自分で踊りはじめるよりはるかに不思議なものである。
〔この点への原註:〕シナと机とは 他のすべての世界が静止しているように見えたときに踊りはじめた ――pour encourager les autres(人びとを元気づけるために) ということが想い起こされる。
(¶1・1・1・4〔商品の物神的性格とその秘密〕資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

マルクスが それでもよい と語ったのである。元気づけるために踊りはじめる人がいるから よいということではない。ふたたび 静止せよと語ったのではない。鬼をじっと見つめてやれ と語ったのである。また そうでなければ 空の元気をつけただけである。もしくは 眠狂四郎になれと言われたと 錯覚するかである。
もし《ファウスト》が 文字で書かれているから その経験的な字面にもとづく或る認識の目標をあたえるという危険をおかして言うとすれば マルクスファウストを見よと語ったにすぎない。けれども ファウストは なぞではなかったか。
かく言うわたしは 人びとを元気づけるためにではなく――浅田氏は それをひとつの信条となさっているかもしれない―― わたしは 人びとに こうして 恥じ入らせるために 語っている。わたしたちの信条は これをおいてほかにない。ことばが死ぬとは思わないから。もしくは 一たん死んだところから 出発していた。
ことばの自由化!
文体の復権!(これは スローガンである。あまり意味がない。)
要するに 生活はだまっていないから 歴史は止まっていないから むしろデーモンのほうが踊りはじめるのである。じっと見てやれば ますます踊りだすだろう。観念の資本たる《不可思議な 狂想の展開》なる過去の遺物に合わせて その条件反射で むかしのように踊りだす。じっとにらまれたときには 別のあたらしい方向へ足は――おばけが足を回復して――向いているであろう。まず第一ステップとして 昔の名前で踊り始めるはずである。《大尉の娘》とピヨートルに対して シヴァープリンがそうだったではないか。
(つづく→2005-01-18 - caguirofie050118)