文体−第七章 デーモン関係とは
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(2004-12-23 - caguirofie041223よりのつづきです。)
第七章 文体に対するデーモン関係
文体のこうむるデーモン関係
人は 文体行為において 生活者として先行して 後行領域では 科学者であったり 知識人であったり 生活激励者であったりすると同時に また 生活者でありつづける。後行領域を なぜか 自らの生活・自らの存在ととらえ 先行させるとき その場合の科学者や知識人や生活激励者やは ふつうの生活者とのあいだに それぞれの形のデーモン関係を あたかも結ぶ。デーモン関係に影響を受けると 文体が傾き堕ちる。また先行・後行とが 逆立ちする文体行為となる。
広く薄くとらえて いわゆる柵(しがらみ)といえる。一般に 文体行為が逆立ちするとなれば そのデーモン関係は 負の作用が支配的だと思われる。一種の背景(遠因)としては くせ・ならわし・習慣・慣習のたぐいが 作用しており さらには惰性の要素が色濃くなれば やはり 負の要素が作用すると捉えられる。
- ファウストは その弟子ヴァーグナーにとって いな ヴァーグナーにとってファウストは / ナポレオンにとってゲーテは / 魯迅にとって阿Qは かれらは はじめに(先行して)生きて生活している者として存在しており それぞれの両者は 出会い 経験的に交通しあう。
- このとき 同じく後者の人びとは ヴァーグナーの科学的な精神の / ナポレオンの政治的な精神の / 魯迅の知性的な精神の それぞれ例えば 放射線のような作用を受け取る。(放射線は比喩が過ぎるとすれば 電磁波というべきか。平俗に オーラと呼ばれる場合や 念力の問題にかかわると推定する。)すなわち それとして おのおののデーモン関係に入る。それぞれの前者から見ても おおきくデーモン関係である。
- 放射線の問題を除けば(逆立ちがくい止められ 風通しがよくなれば) ひろく普通に 経験領域での付き合い関係が始まるという場合を想定するのが 普通である。
- (2)におけるそれぞれの関係において 前者から見るデーモンと後者から見るデーモンとには 互いに差異があるだろう。一定のふたりの関係において ほとんど同じデーモン関係だという場合にも おそらく どちらからそのデーモンの力がより多く発射されているかの差異があるであろう。
- 《しがらみ》は まさに からみつく電磁波の作用のようなものをたとえているが 柵(さく)としては 《塞き止めるもの》のことを喩えているとも考えられる。一般に 声が大きく念力のちからの大きいほうの人は 絡み付く反面で 相手の自由な文体行為(要するに発言など)を遮ろうとする動きにもなっていると考えられる。いわゆる手を回して 権限・権力の上の人のちからによって 自由な文体行為を諦めさせるよう画策する場合も 大きくしがらみである。
- 生活者であることが先行している文体は 何もしない闘いであって すなわち話し合いの過程を自らの進む道とするのであって 手回し・画策・働きかけから自由である。ただし 感情から自由な人はいない。不正に対する怒りは ふつうの生活の一部である。
- 文体行為の自由度に従って デーモンの力に頼る度合が反比例するであろう。デーモンの作用を自らが望み 働かせようとするなら 貧しい文体となる。
- 貧しい文体とは むしろ社会的には(社会力学の上では) 優勢な立ち場からのものである。有力な側にあって その立ち場を保守しようとするために 先行すべき生活者の立ち場をないがしろにし始め やがて逆立ちするゆえに 貧しくなるのだから。この限りで 逆立ちしていない文体は そういってよければ 魂のゆたかな内容が見られる。
- ここであらためて別様に表現するならば 外から・相手からデーモンの作用を受けたとき わたしたちは 精神の政治学を始める。《自己の政府》は 《外へ》出て行かないから 受け身である。外へ出かけるなら 精神の政治学をではなく 社会力学の政治を 一般に貧しい文体によって おこなう。
- ウェーバーは 比喩としての《ナポレオン》たる外側の政府の政治行為(それも一種の文体)について この政府は たとえば魯迅の捉えたいわゆる民衆なるデーモンと手を結ぶものだという一つの分析を いってみればヴァーグナーの科学的な精神において 獲得した。民衆の暴力を権力の暴力によって抑えるという手段を用いることは 悪魔と手を結ぶことだと指摘した。広く一般的に・そして比喩として 《ナポレオンが 民衆と デーモン関係に入る》情況だと表現しえよう。
- ウェーバーは 前述の分析から発して あたかもヴァーグナーを超え 魯迅もある意味でそうしたように 《ナポレオン》とたたかいうるその意味での政治また学問を 或る星をめざすようにして 進めようと主張した。(ただし イエスかブッダか知らないが 何事においても・いかなる状況に陥ろうとも 《それにもかかわらず》果敢に挑む《偉大なる達人たち》を推奨するという恰好である。)
- もし大方の事情がこうであるとするならば 魯迅もヴァーグナーもナポレオンも かれらは それぞれのデーモン関係の相手に対して 〔またウェーバーも かれの場合 むしろその読者という相手に対して〕 ある種の経験的な行為としての文体行為において なんらかのデーモン力を発揮するわけである。つまり なんらかの放射線を出すと言ってよかろう。
- ナポレオンその人は ヴァレリーによれば むしろゲーテ個人と デーモン関係にあったとも考えられる。その時ナポレオンがゲーテに対して もし《御身は人間なり》うんぬんと言って 対等に遇したとするなら デーモン関係というのは微妙であるが 邪推すれば やはりゲーテを自分の陣営に引き込もうとするものであったと考えられる。対等であるという場合にも 放射線を放っていることもありうると捉えられる。
- 放射線とか電磁波を出すというのは あらためて言って 自己の内なる政府が それぞれの文体行為において しかもわざわざ外へ出かけていくということを意味する。むろんそのデーモン作用は 習慣的な行為においては 発信する側ではなく 文体を受信する側が 文体と共に受け取り これを認識するものである。平俗にいえば 付き合いにくいと感じるときであり 放射線としていえば そのデーモン力学の場で 自己の政府(またその精神の政治学)が 内政干渉を受けていると感じるときである。権力関係による画策があれば むしろ戦争を仕掛けられている情況であるかもしれない。
- たとえばどのような放射線を出すか。ヴァーグナーは その《成人して学問を積まれれば / ・・・いっそう高い目標に達し得られるのです》(1062−63)であるとか 《ああ あなたでも貴い古文書をひも解かれると / 天国があなたのもとにくだってくる思いがしましょう》(1708−09)であるとか述べるとき この言葉は 内政干渉ではないが かれの内なる政府の経験行為として 一つの放射線を持っている。たとえば 《星をめざせ》といった内容のである。これを ファウストが受け取っても 容易にやり過ごすことができるけれど ヴァーグナーの文体行為としては 逆立ちが始まっている。普通・一般の生活と 星をめざす学問とで 先行・後行が逆転している。生活者が生活し学問することと 学問論者が学問し生活することとでは 政治学すべき精神のありように変化が起きており 差異が生じている。
- 魯迅の議論によれば 《書を読まなければ愚人になる》という文体(またそのような社会一般の共同観念)は ある種のしかたで 放射線によるそのデーモン関係の促進過程なのである。民衆と知識人との相い対するデーモン関係が むしろただ固定してしまうだけなのではないかと。このことは 角度を変えてとらえるなら ここで魯迅は いまの共同観念ないしそれを推し進める知識人と相い対して 一種のデーモン関係に入った。と同時に 《その愚人によってこそ世界は造られているので 賢人は絶対に世界を支えることは出来ない》と展開し ものごとを裏側からしか捉えていないように思われた。愚人・賢人また知識人などの区別は 先行する文体行為においてなされたものか もしくは そうではなく 後行する経験領域において 知識量の差によってなしたものか。もし前者の場合なら 《文体行為の逆立ちしない賢人が 世界を支える》というべきである。もし後者のばあいには 知識量の差という後行領域の問題が 自己の政府という先行領域を凌駕しなければよいといえる。その点 魯迅は曖昧であって 裏側から そういった論旨におよぶ恰好である。その限りで あたかも一般の知識人とのデーモン関係において 勝利しようと 内なる政府から外へ出かけた節がある。そのまま 知識人との議論を続けるなら いわば科学的な精神とか知性とかによって 競争し スターウォーズを繰り広げるといったことにしかならない。(《星をめざして進む》という時の《スター》である。)
- ヴァーグナーの問いかけに対して ファウストの精神の政治学が始まる。多少とも 《逆立ち》があるとすれば そのデーモン関係は あたかも放射線を受け取ったかのように 現われる。学問の精神を推奨されて ファウストは 《ああ この迷いの海から / 浮かびあがろうと なお望み得る者は幸いだ!》(1064−65)であるとか 《きみはただひとつの欲望しか知らない。 / もうひとつの欲望を知らずにすませたいものだ!》(1110−11)であるとか 文体するわけである。そこでは 主観基本(自己の政府)が先行しているから 字づらは あまり問題でないかもしれない。もしくは 問いかけたほうのヴァーグナーにとっては 字づらも 問題であるかもしれない。
デーモン関係にこたえる文体
具体的なデーモン関係について いくらか 見てきたが その過程がさらに問題となる。デーモン作用の過程 放射線の行方が わたしたちにとって 焦点とならなければならない。
- たとえば 浅田氏の表現を借りるなら ファウストにとって / ゲーテにとって / 阿Qにとって / ウェーバーの読者にとって 《その・・・身体は 受苦‐情念(パッション)の つまりは怨恨の物語から限りなく遠いところにあって あくまでも能動的(アクティヴ)に運動する》。むしろ悩みを抱えている――そしてその悩みをはっきりと明らかにして伝えようとする――弱いファウストが その放射線を受け取った身体の運動として(確かに むしろ身体の運動として) 能動的なのである。自己の内なる政府が外へ出かけないで 外の放射線に対して 受動的であるとき かれの文体は 能動的になる。もっとも この場合 ファウストは ただ自己の悩みのありかを明らかにして 示すだけである。
- ここに 精神の政治学の何もしないたたかいが ある。
- 《受苦‐情念‐怨恨》は じっさい 自分としては能動的に行動したと思っているその放射線を放つ人びとのほうにある。かれらは 初めに自己の政府が外へ出かけているから その外なる経験領域の中で 一般的なデーモン関係からも 特定のそれからも デーモン作用たる放射線をまず受容し ただその受動性のうちにとどまって 怨恨の放射線を たらい回しすることになる。デーモン作用たる放射線を受容するという受動性そのものは 誰にもあてはまり 同じ受動性なのであるが いったん外へ出かけている人の場合には この受動性が あたかも すでに能動的なものに見えており さらにこの擬似能動性によって すでに受容したデーモン作用を 相手に・もしくは他の人に お返しする恰好を採る。
- かくて デーモン関係の伝染病。
- この伝染病を克服したいと願う人びとのうち ウェーバーないしヴァーグナーの場合 科学客観的な精神に頼り 知識人となって デーモン関係を 経験科学的に解説する。またさらに ウェーバーの場合 デーモン関係の社会的な統治者として《ナポレオン》(要するに 英雄)が存在するととらえ これを待ち望むとともに 一般的に支配の類型を おなじく解説する。
- この世界の中で ナポレオンに対するゲーテの / 魯迅に対する閏土や阿Qの / ウェーバーに対する一般読者の 何もしない闘いである精神の政治学が 《見えざる手に導かれて》のように展開される。《世界は 〈愚人〉によって造られている》というのは このことである。職業知識人にとって わたしたちは愚人である。
- ところが 後行する経験領域(科学行為や政治行為)を先行させているかの疑いがかけられているヴァーグナーらは そのようなファウストらの反応を こうだと見るのだ。《身に蒙った〔放射線の〕衝撃をただちに強度の波動の群れとして全域に拡散(――核拡散?!――)させ そこから快楽を生産しつつ 笑いさざめきながらよじれ戯れる》と。ファウストらの受動を経たあとの能動的な反応を そのように 解釈しているのだ。つまり 自分たちの放射線が突き刺さった と見て ほくそえみ始める。
- ここで事実として起こったことは おそらくヴァーグナーらは みづからの放った放射線が ファウストたちの何もしない精神の政治学行為に突き当たって みづからに跳ね返ってくるのを 感じ取ったということであろう。《強度の波動の群れとして全域(つまり かれらにとっても ほんとうに先行条件たる主観基本の全域)に拡散させ》られたと言っているのにちがいない。この間 ファウストたちは ふつうの事実を内容とする答えを返したのみで 何もしていない。
- かくて――あたかも ブーメランのようにみづからに返ってきた放射線を浴びて―― ヴァーグナーらにあっては 怨恨が増幅し 放射線が強化され スターウォーズの放射線が 撒き散らされ垂れ流される。
- これは ファウストらの・そしてわたしたちの 関知しない出来事なのである。もともと内政干渉していないのだから。内政干渉していないことによって 跳ね返って行ったのである。
- その中の或る人びとが 軍備拡張政策をとることは 目に見えている。かれらは 自滅のみちを走っている。じっさい かれらの〔外へ出かけたまやかしの〕政府がほろびることは かれらにとって 有益なのだ。新生が待つ。
- 自己の悩みを認識したファウストが これを応答の中で伝えたあと ヴァーグナーはこう答えている。《私もたびたび気まぐれを起こしますが / そんな衝動はまだついぞ感じたことはありません。》(1100−01)《あの周知の魔精ども(デーモン)を呼ばないでください。 / 彼らは大気の中に流れひろがって / 人間に向かい 千変万化の危険を / 四方八方からかもし出します。》(1126−29)
- ヴァレリーによれば ナポレオンは ゲーテにとって 《ファウスト》の第三部に登場するべきはずの〔ゲーテとデーモン関係をなす〕人物であったという。いづれにしても ナポレオンの死を知ったあと ゲーテは マンツォー二という人の《ナポレオン賛歌》を翻訳している。これが ゲーテの一つの精神の政治学行為である。/ 阿Qは 作者によって 死なしめられた。そういう精神の政治学を著わした。/ ウェーバーに対して 読者であるわたしたちは? / 魯迅に対して 読者である――だから 浅田さんに対して 読者である――わたしたちは?
- 自分たちの《マシニック・メタリックな身体の上を横切るこの笑いさざめきこそが 音楽なのだということは もはや確認するまでもないだろう》と浅田氏が言う分には わたしたちは 放っておけばよいのだと思われる。イヤフォンで耳をふさぎながら しかもなお 《〈外〉へ》――もしくは 《〈外〉へ》と説いて――文体行為し 時に放射線をはなつならば そのときには それに応じて しかるべく精神の政治学を敢行すればよいであろう。
- 自分なりの流儀で デーモンとたたかう政治(つまりその権力を行使する政治)という それじたいがデーモンであるものに対しても わたしたちは 同じであるだろう。むかしは しきりと公然と飛び交う放射線のなかで 数多くの《阿Q》を あたかもいけにえとしてのように 出さなければならなかった。いな 現代においても!!(この最後の一言は わたくしだけの見解である。単なる心情倫理にすぎない。ただし 事実にもとづくと見ている限りで わたしたちは 怒っている。怒りという悩みのあることを知っている。)
補論―生活者であることと職業人であることとのあとさき
生活者であること これを わたしたちは 経験世界の中でも 先行領域として 想定してきましたが もう少し詳しい但し書きが必要になっているかもしれません。たとえば いわゆる信仰の問題にもかかわってきますが 次の文章のなかで 先行領域とは・つまり自己のうちなる政府とは 何を言うのでしょう。
すると 悪魔が誘惑しようとしてやって来て イエスに 《お前が〈神の子〉なら そこらの石がパンになるように命令したらどうだ》と言った。イエスは答えた。
人はパンだけで生きるものではない。
神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。(申命記8:3)と聖書に書いてある。
(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈1〉 マタイによる福音書4:3−4)
悪魔の出番となれば やはりデーモン関係の問題ですが かなりきわどい議論になろうかと思われます。すなわち 《パンを得る》ことと《生活者であること》とは ほとんど互いに重なると思われますが ここでは 前者の《なりわい》よりも 後者の《生活する者》=《自己の内なる政府》を 究極的には 優先させています。微妙な言い方をするなら 《生活する者として職業にも励むこと》と《生活を成り立たせるために職業に励むこと》との間に 先行・後行があるように見えます。そしてごく単純に言って 職業が成り立たなければ生活どころの話ではないではないかという反論に行き着くようです。ですから 先行・後行が互いに逆立ちすることが その歪みとしてデーモン関係と成って現われるとするならば このように自己の政府の中にあたかもデーモンという悪鬼を飼うことになるのは 誰にも免れないと思われます。そういう究極の問題点があるように考えます。経験領域の世界は 必然の王国と呼ばれているわけです。
(つづく→2005-01-02 - caguirofie050102)