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哲学いろいろ

文体−第六章 生活激励者としての文体

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2004-12-22 - caguirofie041222よりのつづきです。)

第六章 生活激励者としての生活者の文体

前章の題を《魯迅と〈阿Q〉》としたのは かれらが互いに――後行条件において―― デーモン関係にあるという意味です。《阿Q》青年は 作者・魯迅に対して このデーモン関係のプラグを あくまで・そして死ぬまで 抜き去らなかった。作者は 途中で――つまり 阿Qの死ぬのを見届けたうえで―― 抜き去ろうとした。そのような中断状態で 評論活動に 魯迅は 入っていったものと思われる。
浅田彰氏が――その第一作*1・第二作*2は まだ習作でしかなかったとして―― 第三作で

 絶対的なaffirmationの力。ほとんど痴呆的なオプティミスムに輝く力。そのような力に貫かれた書物を作りたいと思っていた。
多くの人々のおかげでこの夢がかなえられて 今かつてない幸福のうちにある。
このあとぼくはさらなるクリティックの作業へとラセン状の軌跡を描いていくだろう。
その前に一度 ぼくはこの小さな美しい本が本当に好きだ と言っておきたい。
一九八四年一二月三一日      浅田彰
ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

とその《あとがき》に述べるごとく わたしたち読者が この本に向かって 《とどまれ おまえは じつにうつくしい》と言って たおれることを ねらっているのだとしたら わたしたちと かれとは――後行条件において―― 互いにデーモン関係に入るという寸法である。わたしは 《ほとんど痴呆的に》いま 文体した。
つまり浅田氏は 《わたしはいま高い幸福を予感して 最高の瞬間を味わうのだ》と記して数週間後にたおれたゲーテなのではないと語ったわけだ。
いまの議論で あらかじめ おことわりしておかなければならない一点は 実在の人物に対して わたしたちが批判するときは その文体にかんする限りで これをおこなうということである。
文体も それイコール存在ではないか。確かにそうだ。それでは わたしたちの文体批判は 存在批判(?)か。つまり そうではなく 批判すべきは じっさい 存在(人間という存在)の 後行条件の領域なのである。主観基本という先行条件に対して後行する領域といっても 時間的に後行するのではなかったのであるから それは 《存在》の一部なのだろうか。
ここまで来ると たしかに わたしたちの議論は 自分の存在を否定しかねないほどの 存在批判・人間批判である。言いかえると――逆に弁護にまわるとすると―― わたしたちのこの地上の経験的存在は 大なり小なり 多かれ少なかれ 悪魔(否定の精神)と手を結ぶものゆえ この《否定の精神》を否定するという意味では 文体批判は 存在批判のかたちにまで及ぶ。しかも わたしたちの存在――自然本性――は それイコール悪魔ではありえないだろう。存在批判は じっさい 自己批判だが この自己を・つまり人間を愛している。
かくて デーモン(悪鬼つまり これは 悪魔の手下である)から逃げないで わたしたちが この地上で 互いに交通しあうとき そこには 確かに デーモン関係といった一面が見られる。存在は これから自由であるゆえに これを文体論として批判していく。わたしたちは 弱いときに もっとも強いと思われます。ファウストの《悲劇》という逆説です。
そして もう一点おことわりしなければならないとすれば 初めこのわたしの議論は ウェーバーの文体への批判を 一つの基軸にしていた。それが ここへ来て――ほかでもなく 《ヘルメスの音楽》が聞こえてくるようになって―― 浅田彰の文体に対する批判に 移行したかたちであることです*3
したがって これまでの議論を要約してみると わたしたちの文体論は――なにもしない闘いとして――その骨子は 次のように進んで来た。
批判の対象として――

  • M.ウェーバー:研究者としての生活者
  • 魯迅    :知識人としての生活者
  • 浅田彰   :生活激励者としての生活者

この批判としての意味は 《わたしたちが もし互いに激励しあうとするなら それは 生活者としてであって 研究者や知識人としてでもなければ 生活激励者としてでもない》ということだ*4
わたしたちは なにか 裁判をしているように見える。そして 自由な批判は 文体の自由な展開のゆえにであって 法律にしばられているのでもなければ 新しい法律をつくろうと言っているのでもなく それによって裁判しているのでもない。言うならば――自己批判をふくめると述べた限りでは―― 法律を超えた自己批判と言えるのかも知れない。しかも これとて 同じく一方で 超《自然》的な倫理だとか規範だとかを求めたり立てたりするためのものではなく 他方で じっさい この《精神の政治学》行為は 自己の主観基本がおのおの政府なのであって わたしたちは 内政干渉するものではない。また なしえない。自由な文体の展開といった広く会議の過程 これがわたしたちの生である。

 ある人が私のことを《やみ矢を射かける》といった。
私の《やみ矢》についての解釈は かれらとは少しちがう。誰かが傷を受けたが その矢がどこから放たれたかわからぬ という場合に用いるのだ。《デマ》といわれるものが ほぼこれに近い。厳として ここに立っている。
だが私は 時として矢は射はしても 的が誰であるかを説明しないことはある。それというのも 最初から《公開処刑》のつもりはなく ただ的が自分で気づいて 自分に穴があいたことに気づいて 面の皮をふくらますことがなくなれば それで私の仕事は済んだことになるから。
魯迅:〈花なきバラ〉1926 竹内好編訳:魯迅評論集 (岩波文庫)1981)  

魯迅とちがって わたしは 批判の対象を例外なくきちんと明らかにするであろう。そして わたしたちの文体批判は 《デマ》のたぐいを含めて 《デーモン》の影響関係のなかで もし――わたしたちは弱いから――傷ついたのだとしても その傷への応急手当 としての誰かれの文体 これを 言うとすれば《傷つける》ところにある。つまり 対症療法を 議論し批判するところにある。

  • 文体の問題は その場しのぎで解決しうるものではないと明らかにする。これが 基本である。もっとも 待ったなしの応急手当ての部分は むろん別である。

つまり 毛色のちがったデーモンを 守り神として指し示し デーモン関係といった後行する経験領域を 先行させようとする企て これと闘う。これは つねに《公開討論》である。
ちなみに この《花なきバラ》という小さな評論=エッセイの作者は 《完成された出来損ないの小説》作者であったときには 知識人として 無知識人(阿Q)とのデーモン関係にあったが そこから場面が変わって 他の知識人とのデーモン関係に入っている。そして 出来映えのよい議論をすすめているように思われる。――まだ わたしたちの魯迅観は 出来損ないのそしりをまぬかれない。取りあえず いまのテーマについて かれの片言隻句を 参照すれば なかなか複雑な かれにおいては新たな デーモンとの闘いであったことがわかる。

・・・古人は 書を読まなければ愚人になる といった。それはむろん正しい。しかし その愚人によってこそ世界は造られているので 賢人は絶対に世界を支えることはできない。ことに中国の賢人はそうである。
魯迅:〈《墓》の後に記す〉;竹内好編訳:魯迅評論集 (岩波文庫)

この文体が 片言隻句の限りでも 複雑だというのは わたしたちの理論では 次のような内容になると思われるからである。
わたしたちの《存在》は 文体として 主観基本の先行条件といわゆる経験領域の後行条件とを持っている。後行条件として 客観認識たる科学は 主観基本の文体の補助手段である。それとしての科学のあつかう経験領域は ひろくデーモン関係である。かんたんに 前近代のと近代以降のと。そして 後行の科学が先行してしまうと このことも 一つのデーモン(星をめざす《高尚》な)となりうる。
魯迅が上で言うのは この後行する経験的なデーモン領域での 賢人と愚人との関係問題である。魯迅は 小説《故郷》〔の閏土との関係〕で わたしたちの見るところでは出来損ないのかたちで しかも その解決への視点を完成させている ということだ。この問題に着手していない知識人に対しては 向かうところ敵なしなのである。《愚人によって世界は造られている》などという見方 これも 出来損ないの完成された視点であり いわば裏と表とを 逆にしている。《四角く区切られていない自然本性の人は まだたがやされていない(文化的でない・つまり区切られていない)としても 愚かではなく 言うとすれば賢である》 これが 先行条件の基本主観であり どこまでも表通りである。《自然のままであっては つまり自然本性をも自覚しないままであっては いけないのであり そうなのだが しかしながら この本性自然を耕していくとき その文体ないし文化の行為は 試行錯誤・経験相対的であって 言ってみれば傾き堕ちるというデーモン関係をともなう このデーモンと やむなく手をむすぶことがではなく そのとりこになって なったまま文化活動に走る それは いくら文化人・知識人であっても 賢ではなく愚である》 これが 基本の見方だと考える。つまりこれは 全体として 依然として先行する表通りの見方であるが そこでは 後行する裏通りを含めての見方も備えていると言っていいのではないか。これらの裏と表とを 逆にしたような見方で まだ魯迅は 勝負している。こまかいことを言えば こうなのである。だが 魯迅は 評論家として がんばった。
そこで浅田彰氏は この魯迅の知識人・従って未知識人の問題に すでに着手し その第三作で ひととおりの出発点=視点=立脚点を 明らかにした。
浅田氏は ウェーバーの研究者としての生活者である視点を超え 魯迅のややポレミックな知識人としての生活者であるような視点 これをすでに乗り越え(《ポスト・モダニスム》) わたしに思われるには 生活激励者としての生活者たる視点を打ち立てたのだと考えられる。
わたしは 第三作《ヘルメスの音楽》が出る前に 次のような覚書きを取ったことがあった。次章にまでわたって これを掲げさせてもらいたい。

《ぼくたちのアサダアキラ》

つぎのような三段論法を人は 直視すべきであると考える。(三段論法という用語は 適切さを欠くけれど いまこのままとします。)

  1. はじめに
    • 人間は人間にとってわからない。
  2. けれども
    • それゆえに 新しい人間があらわれる。
  3. したがって
    • 人間は まじめさとユーモアとが大事である。

第三段のなかの《まじめさとユーモア》を 《まじめなユーモア / ユーモアを絶やさないまじめさ》と言いかえてもよい。だからこの結論は 《人間が自己を外に向かって開くこと――存在を開き その生を激励すること―― これが 肝心なのだ》と置きかえてもよい。つまり このとき 第二段のいうように《新しい人間があらわれる》ということであり 《新しい》には 積極的なプラスの評価が与えられている。
そうして この三つのひとまとまりの命題を 《人間》の代わりに《社会》であるとかさらに《歴史》などと置きかえて捉え返すなら 《ぼくたちのアサダアキラ》がそこに存在するのを人は 見出すであろう。
《第一段・はじめに》は かれ自身のことばによると つぎのように表現されるとき 成り立つ。

  1. はじめに

 歴史とは このような諸関係

  • =《人間的ヴェーゼン(存在)は個々の個人に内在する抽象体ではない。それは その現実性においては 社会的諸関係の総体である》(マルクス)というときの《諸関係》

が複雑に重層しつつ 全体を見とおすことのできないような形で変動していく過程 《主体なし目的なしの過程》(アルチュセール)なのである。
浅田彰:〈ぼくたちのマルクス――《交通》の冒険者へのオマージュ〉
逃走論―スキゾ・キッズの冒険1984)

《このような諸関係の総体を実体論的にとらえる――物象的錯誤(広松渉)――とき 個別と普遍 個と類 部分と全体といった双対的対立が生じることになる》(同上 承前)というのだから かれにとっては まず《はじめに》 ――現実を離れないで あくまで現実を離れずに――この限りで〔少し極論してみるならば〕《幽霊》として捉えるべき《人間とか社会とか歴史》がある(あると捉えた)ことになっている。

  • 《意味の構造》を言うアポロン的な人間・社会・歴史から一歩やはりズレたところに その文体の視点をおくということである。

むろん現実を離れないのであるから 幽霊というのは 比喩であって この存在つまり人間は 自分を開拓し 新しい存在として 推し進めていくことができる というのが 《第二段・けれども》として つづく。

2 けれども
 〔現実には 諸関係は常に重層的に絡み合って動いており そのため完結した総体として見とおすことができない。(《完結した・・・できない》の部分に傍点が付してある。)だからこそ 歴史を単一の過程として全体化することが不可能になるのだ。〕このことは また逆に〔――つまり《けれども》――〕 いつでも全く新しい関係の線を引くことができるということ それによって歴史を動かすことができる――ただし《思うように》ではなく――ということを意味するものである。
(同上。〈ぼくたちのマルクス・・・〉

この人間の推進力〔のようなもの・ないしその一つ〕に 《第三段・したがって》《まじめさとユーモア》が ここでは マルクスの歴史に沿って みちびかれる。みちびかれつつ 《第一段》に戻って 人びとは そこから再び 《交通》を始める。つまり新しい交通関係――歴史――を切り開いていくのだと。《〈思うように〉ではなく》という但し書きを忘れずに付け加えているのは その推進力が 《まじめさ》だけではなく ユーモアにあるということを添えているところに 明らかである。

3 したがって
・・・マルクス自身がつねに多様な交通の只中にあって自己を開きつづけたことと対応して マルクスのテクストもまた 様々な異質の線が流れ込んでは走り出す開かれた体系でありつづける。
実際 マルクスのテクストを読んでいて印象深いのは 一種独特の不真面目なトーンであり 隙をうかがって走り出る駄洒落やユーモアである。もちろんマルクスはあくまで真剣だ。・・・
おそらく このようなユーモアの資質こそ マルクス形而上学的な双対(全体論と個別論と など)のどちらにもつくことなく逃走を続けえた鍵であり また現実の厳しい亡命生活を乗りきりえた秘密でもあろう。・・・
マルクスのテクストの中には思考に活気を与える何者かがあり それをちょっと読んでから仕事をすると調子がいいと言ったのは レヴィ‐ストロースだった。知の閉塞が云々される現代に何よりも必要とされているものこそ そのような何物かである。
(同上。〈ぼくたちのマルクス・・・〉

これら三段論法の全体を よく把握しよく咀嚼するならば 《ぼくたちのアサダアキラ》をすでにわたしたちは よく《見とおすことができる》 こう言おう。
一つの小品《ぼくたちのマルクス》に依って このような短兵急な議論をするのはどうかと思われる。いや どんな小さな主張であれ いづれその人の思想が ひとまとまりのものとして 述べられたのなら これによってわたしたちは 《短兵急な評価》も 基本的な議論を含みうるとは おもわれる。そのときには その人が さらにその後 考えを変えることがあるし あって当然だという但し書きを付け添えるだけで ことは済む。《先走った議論に陥りはしないか》と危ぶんだわけは むしろ そこにはない。
なぜなら 浅田氏は この小論で ひとつのまとまった見解をしめしているが それは なお《氏にとっての〈ぼくたちのマルクス〉》でしかなく わたしたちが これを浅田彰〔の思想の〕像だと言い得るのは ただ《氏にとっての》という部分(つまり 文章の 客体事実そのものとしての帰属)が 根拠であるにすぎないからである。じっさい――わたしには思われるのであるが―― かれは さまざまの思想(もしくは かれの言う《歴史》)を 解説はするが つまり《チャート》にしてわかりやすく一つの視点を打ち出してくれるが かれ自身の考え(もしくは存在) これは なかなか見当たらないといった恰好だと言わなければならないからである。これは 《構造と力―記号論を超えて》といまの《逃走論―スキゾ・キッズの冒険》との二冊の書物を中心として 言っている。だが 浅田氏じしんも その読者から 《読んで 〈元気が出た〉》という感想をもらったこと この感想の内容じたいを たかく評価しているそうだから おおよそ いまの三段論法の内容をもって ここでは 《ぼくたちのアサダアキラ》像として 話をすすめてみようと思う。
こういった前提条件はつくけれども すでに この像が――現時点での――全体像だと言って 議論をすすめるべき問題点は それでは どこにあるだろうか。

  • つまり 《逃げろや逃げろ どこまでも》(〈逃走する人間〉)が かれの直接の見解――史観?――であるともしするならば この内容は いまの三段論法の命題のなかに ふくまれているであろう。この前提で 議論をすすめてみる。章をあらためますが 直接につながった議論です。
  • 《逃げない》場合 《逃走しない》場合が 次の文章に説明されている。

〔交通の〕諸関係が完結した総体をなす場合 それを一種のネットのようなものと考えることができる。ネットの全体をまず実体化しておいて〔つまりたとえば わたしたちの《ぼくたちのアサダアキラ》像を 《コード化codage》し あるいはさらに《超コード化surcodage》しておいて〕 それが事後的に部分に分岐するのだと考えれば ホーリズム(全体〔主義〕論)になる。ネットの各交点〔つまり すぐ上の例でいえば コード化・超コード化される《ぼくたちのアサダアキラ》像の各受け取り手=読者〕をまず実体化しておいて それが事後的に関係を結んで全体を形作るのだと考えれば アトミズム(個別〔主義〕論)になる。ネットはあくまでもネットとしてとらえなければならないと考えれば 関係主義あるいは構造主義になる。けれども――
けれども それらはスタティックな思考様式である点において互いに択ぶところがなく それらの間で視点を移してみても 真に閉域から逃れ出たということはできないのである。
浅田彰:〈ぼくたちのマルクス

こうだとすると むしろ《外》などという言い方をやめればよいとも わたしたちには考えられる。ほかに《ズレ》ともいうわけだが 判りにくいように思われる。
以上が 最初のふた作品にもとづいてとらえた内容である。このあと 第三作《ヘルメスの音楽》で一歩踏み出したというふうに捉えられる。
これを承けて あらためて次章に継ごう。
(つづく→2004-12-24 - caguirofie041224)

*1:構造と力―記号論を超えて

*2:逃走論―スキゾ・キッズの冒険

*3:ウェーバー批判は次を参照されたし。→市民が社会をつくる:2005-09-23 - caguirofie050923

*4:ふつうの生活者として土居健郎が〈専門性と人間性〉と題して 玄人(プロフェッショナル)であるだけでなく 素人(アマチュア)でもあることの重要性を論じている。漱石に言わせると《玄人は細部に注意する。しかし全体が見えなくなっている》ようだと紹介したあと 自身の専門分野の精神分析においても あてはまると言う。フロイトが 治療の過程における《転移性恋愛》について 医者は《転移を避けてはいけないし 追っ払ってもいけないし それを台無しにするようなこともしないように注意せねばいけない。またそれに分析者が答えようとしてはいけない。答えないでしかもそれをしっかりつかまえて そしてそれをエトバス・ウンレアーレス 何か少し非現実的なものとして扱うのだと言う》とやはり紹介している。《さらに 分析者は患者から来るあらゆる誘惑に対して不死身であるように努めなければいけないとも言っています。これは大変なことを言っているわけですね。この場合お手本になるようなものが 人生のなかにほかに見当たらないのかもしれません。》(p.229−230)とも念を押し 単なる生活者の立ち場の重要であることを述べた。そう解される。「甘え」の思想