caguirofie

哲学いろいろ

文体−第五章 魯迅

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2004-12-21 - caguirofie041221よりのつづきです。)

第五章 魯迅と《阿Q》

 このとき突然 私の脳裡に不思議な画面がくりひろげられた――紺碧の空に金色の丸い月がかかっている。その下は海辺の砂地で 見わたすかぎり緑の西瓜がうわっている。その真ん中に十一・二歳の少年が 銀の首輪をつるし 鉄の刺す叉を手にして立っている。そして一匹の《チャー》を目がけて ヤッとばかり突く。すると《チャー》は ひらりと身をかわして あべこべにかれの股をくぐって逃げてしまう。
 この少年が潤土である。
魯迅故郷 (中国の児童文学 第 1集11) 竹内好訳《吶喊》所収)

ゲーテの《ファウスト》の助手であったヴァーグナーが そのときには大学者となっていて 造りあげたホムンクルス(こびと) このホムンクルスが フラスコの中から しゃべったことば――すなわち《自然のものには宇宙も狭く / 人工のものは くぎられた空間を望みます》―― この中の《自然》に この魯迅の《一少年 閏土》を比喩として あてはめていた。
だが かの《阿Q》も この《自然》の仲間のひとりである。閏土は素朴にはたらき生きており 阿Qはもはや どろぼうの常習犯でもあるのだが。《阿Q正伝》は 小説《故郷》と同じ年に・そしてその後に 発表されている。
わたくしは 今度は《阿Q正伝》は ひとことで言って ある完成された出来損ないの作品だとかんがえる。
大学者ヴァーグナーやあるいはウェーバーとちがって 生きたふたつの魂を持つファウストやあるいは阿Qは 悪魔と この世の必然の王国にいる限りで 手を結ぶ。阿Qは べつに ふたつの魂のなやみを 訴えていたわけではなかろうが かれの《自然》は あまりにも大きくて――つまり ごく普通なのであって―― 矛盾〔だから それは 盗みの問題〕に対して 逃げる必要のまったくないほど 容易に悪魔と手を結び そうして 《ふたつの魂》がかれの中に ごく自然に生きているのである。――精神の政治学は こういった空論を こばまないかと思われる。

  • なお 忘れないうちに言っておかなければならないことは この《ふたつの魂》というのは あくまで表現上・分析上のことで わたしたちに 魂が二つ・三つあるという話ではない。

 その結果当然 一八〇八年 言わば占星学上の必然によるがごとく(――この表現にはなんの意味もない――) あの招致 〔つまり ゲーテの ナポレオンとの〕邂逅が起こらざるを得ないのであります。
・・・
大革命を組織立てた役者  《西方のデーモン》  武装せる《強者》  《勝利の女神の誘惑者》  ジョゼフ・ド・メーストルが黙示録に告知されていると言った人物が エールフルトにゲーテを呼び寄せる ――彼を呼び寄せて彼を人間として 即ち対等の者として遇する かかる刹那とはそもそも何という刹那でしょうか。
・・・
これこそ刹那が自分のほうから皇帝に向かって 契約の最後の言葉を発する一刹那です。《己れを止めよ・・・。己れはいかにも美しいから。》これはヨーロッパの君主全部が エールフルトにおいて この王冠を戴いたファウストの足下に跪づくまでに 美しい刹那です・・・。
・・・
彼(ナポレオン)はゲーテに向かって言います。《御身は一個の〈人間〉だ》と。・・・ゲーテ君 我らの裡には 充溢という不思議な美徳と 為し 成り 変じ 嘗て在ったものに似た世界をば 決して我らの後には残さぬ狂熱乃至宿命があるのだ・・・。
かくてゲーテは ――これはもはや私の空想ではありませぬ ――ゲーテは想いに耽り 結局例の《デーモン的なるもの》という奇妙な概念に拠るのであります。
実際 ボナパルトは 何という恰好な《ファウスト第三部》のための登場人物でしょうか。
ヴァレリーゲーテ 1933;ヴァレリー全集(4)増補版〈我がファウスト〉1977筑摩書房 ISBN:4480782044)

つまりわたくしは ヴァレリーに従って ゲーテがナポレオンの中に(言いかえると ナポレオンの文体の社会的な側面に) 《或るデーモン(守り神とも呼ばれる悪鬼)》を捉えたと仮定するなら 架空の人間ファウストは たしかに――むしろ自己の文体にかかわって――或るデーモン(これは 精神のみづから傾くことができるという作用である。それを悪鬼と呼ぶ)としてのメフィストフェレスを捉えている そして 時に かれと手を結ぶのである。

  • ちなみに 悪鬼は 個々のおよびその総括的な作用を言う。その首領は 悪魔と言う。そのように表現するというふうに定義する。

ファウストは メフィスト(こう略す)に対して しりごみしない。《自然》が あまりにも大きいゆえに たとい破廉恥なことでも あえて しりぞけない。それは 《自然(自然本性)》を 心情倫理とし また規範として この客観認識たる規範(道徳)で 自己の空を四角く囲むようなことをしないという意味である。まだ 精神の政治学の問題である。わざと ハレンチなことをおこなえとか 道徳にそむき法を犯せとか いったおぼえはない。
閏土も このようにして生きている。つまりそれが 閏土の文体である。同じように 阿Qもそうである。しかも阿Qは 盗みの神・そういうようなデーモンのほうへ すこぶる 傾いている。そのこと自体は あの閏土にとって のどの渇いた人間としての西瓜泥棒が 泥棒のうちに入らないといったちょうどそのことと同じように 問題の核心ではない。いわば万引きの常習犯のような阿Qも その文体は まだ 成立している。
したがって 問題は 作者・魯迅が 閏土に対してその閏土には自己の《自然〔本性〕》をたがやすべき余地(文化意義)があって そういう希望を――魯迅の《私》じしんにとっての希望と同じようなかたちで―― 表明するというところへ すすんだ。もう一度くりかえすと 魯迅は 閏土に対して 新しい生活がなければならない と表明するところへ すすんだ。これと同じように 阿Qに対しても その文体はどうかということにある。かんたんに見るならば 《閏土》に対しての場合は その閏土のデーモン の問題は まだ保留されていた。
阿Qには明らかに デーモンがひそんでいる。そういう人物として魯迅はこの小説作品の中に とりあげたのである。《閏土》論を 継いだ。
ファウストにとって 自分のデーモンは かれが メフィストに向かって次のようにふるまい始めるところにある。

ファウスト:・・・手を打とう!                    1698
      わしが瞬間(ヴァレリーの文章中の《刹那》)に向かって
      とどまれ おまえは実に美しい! と言ったら
      きみはわしを縛りあげてもよい。   
      その時はわしは喜んで滅びよう!
      その時はとむらいの鐘がひびくがよい。
ゲーテファウスト〈第1部〉 (ワイド版岩波文庫)

かくて ファウストは やがて このことばを口にするときが来る。口に出すことによって 約束どおり たおれる。
ところが 阿Qの最期のたおれかたは 魯迅によれば こうなのである。捕らえられ 町中を引き回され 銃殺の刑をうけるその瞬間。

 《助けて・・・》
 阿Qの叫びは口から出なかった。とっくに眼がくらみ 耳が鳴り かれは全身こなごなにとび散るような気がしただけである。
魯迅阿Q正伝 1921年12月)

すなわち 阿Qは 死んでから 自分が死んだことを自覚した というのである。
わたくしは ファウストのほうが より一層うつくしい最後を迎えるからと言って これを 採ろうというのではない。また 心情倫理でファウストに深入りするつもりもない。
じっさいその作者(つまり文体の固有の帰属者)ゲーテは 〔ヴァレリーによるなら〕ゲーテ自身のデーモンたるべきナポレオンと会見し その瞬間に対して 《とどまれ おまえは実にうつくしい》とは 言わなかった。あるいは言い換えると むしろそうも言ったがゆえに たおれなかった。つまり ここには たたかいがある。たたかいとしての文体〔の過程〕。
もっともゲーテ自身 やはりファウストのせりふとして 《とどまれ おまえは実にうつくしい》を言わせたあと さらに 次の数行を――ゲーテ自身の死の数週間まえに――つけくわえたとは言われている。

ファウスト:わしの地上の日のあとは            11583
      永劫ほろぶことはありえない。――
      そういう高い幸福を予感して
      わしはいま最高の瞬間を味わうのだ。
ゲーテファウスト〈第2部〉 (ワイド版岩波文庫)

なおかつ わたしたちは ファウストに深入りしない。
それは この ここで ファウストは自分がたおれたあと 霊の身体が〔だと思われるそれが〕 天国へ挙げられていく というとき これに対して あの阿Qのばあいも けっきょく 魯迅によれば いわば死んだのち 自己の死を知覚するというそういったかたちででも文体が 生きつづけているからである。ファウストが最後に勝利することは 重要だと思われるが 死後の文体が継続するという点では とくに珍しいことではない。
けれども この阿Qにおける 自己のデーモンとの闘いは 完成された出来損ないなのではないか。魯迅は そのように えがいた。描くしかなかったとするなら わたくしに思われるには この限りで魯迅は――《阿Q正伝》が代表作だと見られるので―― 自己のデーモンに対して たたかいを挑んだのだが いどんでいるようで むしろ あの動物《チャー》のように 《刺す叉の突き(デーモン)に対して 身をひらりとよけながら あべこべに閏土(デーモン)の股をくぐって逃げていった》。魯迅が逃げたのである。この場合のデーモンは 次にも見るように 学識のない人間との共存というそれである。閏土・阿Qのばあいであり いまは この種のデーモンに限った話である。
このばあい 《閏土》があくまで魯迅の《私》にとって デーモンなのである。これを《故郷》で保留しつつ 《阿Q正伝》で 完成させた。魯迅にとって限りなく現実に迫りつつ《阿Q》というデーモンとして 完成させた。したがって 《闘い》が完成された。しかも 出来損ないだと考えるのである。
《自然》たる閏土および阿Qが 魯迅の《私》およびおそらく作者としての魯迅自身にとって デーモンだと言う意味は 後者が 文化人ないし知識人であって それにとって 前者が未文化の非知識人だということ(そういう図式)にある。つまり 作品に関する限りで 魯迅には 《生活者》がではなく 《知識人としての生活者》が 先行している。だから わたしたちの判断としては デーモンでないものが デーモンとされていると考えざるを得ない。
物語にかんする限りで ファウストは 倒れたのち 天国へ挙げられていった(すなわち メフィストフェレスとの賭けに敗れて しかもかれに勝った)とするなら ファウストは 《生活者》として ウェーバーの言う《偉大な達人たち》の文体を相続して生きたのである。精神の政治学をそのように敢行した。これは 単なる図式なのだが 魯迅は この図式すら えがけなかった。もしくは あべこべに描いて 完成させた。著述家・魯迅は 閏土および阿Qに対して メフィストの側にいる。阿Qは かれこそが泥棒であり 泥棒の守り神の側にいるようでありながら 死んだのち――じっさい 無駄死になのであるから そのデーモンに守られていなかった つまり このデーモンの側にはいなかった ことがわかったのち―― 《自分はこの死を自覚しているのだ》と 作者・魯迅に 書かしめた。閏土のばあいは まだ結果が 保留されていたのである。
わたくしは 浅田彰氏の文体を 批判しているのだ。
文体にかんする限り ウェーバーは 科学者であり じっさい 内気な《浅田彰》であった。魯迅は――文体にかんする限り―― 途中で保留した(また 事実 途中から小説を書かなくなった)ところの《浅田彰》である。文体にかんするかぎり 浅田氏は ここで 《チャー》としておどり出た。もしくは そういうような《〈外〉へ》《走らせた逃走の線》を 大々的に あきらかにする。浅田さん自身がどうであるかは わからない。作品の文体は かのメフィストフェレスの誘惑を まずそれとして 明らかにしているように思われる。その自身の文体の社会的な立ち場は 《マイノリティ・グループの人びとを 元気づけ 活気づかせる》という役目を自分に課しているというものである。
最後の瞬間に 《とっくに眼がくらみ 耳が鳴り 〈かれ〉は全身こなごなにとび散るような気がしただけである》と言う男 いな そう作者をして書かしめる男 かれが マイノリティ・グループの人である。
わたしたちは 《神》とか 《天国》とかを自身の文体の主要な内容として登場させなければならないような時代の・もしくは社会の情況 あるいは単純に貧しい情況 こういったいわゆる歴史的な条件を 知っている。だが これらは ふたたび いまの議論にとって 留保条件でしかないと言わなければならない。つまり 《ファウスト》と《阿Q正伝》とを 民族的な差異などなどの条件によって 規制し この議論の場におけるそれぞれの位置を 割り引いたり プレミアムをつけたりして見る必要はないし 見てはならないと思う。このことが 先行条件である。
《民族》という点で 浅田氏が つぎのように論じるとおりである。

近代文明(またそういう文化現実)は《交通》(つまり生活)を高度化する一方 それを一定のパターンに組織しようとする。いま必要なのは しかし そこから撤退することではなく 《交通》をあくまでも全面化していくことだ。プラグを抜いて音を失速させることではなく 近代文明の回路図(文化現実の《意味の構造》・その矛盾・この矛盾のさまざまな形態としてのデーモン)の指定をこえていたるところにプラグをさしこみ(=デーモンと闘って)音を走らせる(=文体をいだす)ことなのだ。そのような《交通》の只中からふり返ってみるとき エスニック(民族的)なものそれ自体がもともと途方もない《交通》の産物としてあったのだということ さまざまな民族の交叉の中で育まれてきたのだということが明らかになるだろう。真にエスニックなものは驚くほどコスモポリタン(《自然》という宇宙の住民)だ。それはつねにコスモスにむかって開かれている(=《四角くくぎられて》いない)。
浅田彰:〈リトゥルネッロ〉−ヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

また 逆の観点から同じことをヴァレリー

フランスがフランス人を作るのです。
民族主義》なるものは 無力と恐怖の表現であり これを消化されたり 同化されたり 崩壊されたりすることを畏怖する住民に似つかわしい理論であることは 明瞭です。なぜなら その住民は 自分の接触しはじめる外来要素を 自身消化し或いは同化する力が 自分に根本的に無いと感じるからです。彼らはそれらに対しては 二つだけしかまぬかれる道ないし自己をまっとうする道を考えつきません。除き去るか 隷属させるか。
ヴァレリー:〈フランスの多様性〉《私の見るところ》所収)

けれども いわゆる伝統だとかあるいは貧困が問題であるとか そしてそれらの民族的であることが条件なのだとか これらはまた その限りで 事実としてあり これは 上のように《民族主義》なるものにかかわるならば わたしたちの文体がぶつかって闘うべきデーモンでもあります。ウェーバー魯迅も そういうふうにして 文体を形成した。浅田氏は これらの綜合的な方向を言っている。つまり わたしたちは そのように読んだ。
わたしも鬼になって言うのだが かれは ここから ズレてもいる。それがよいか悪いかは わたしの判断するところではなく この議題を提出するのみであると言って 批判しなければならないのは このズレである。次の引用文で 《精神 / 身体 の双対》というのは 先行条件において民族から自由であったわたしたちが その民族性やらを留保条件として・後行する事実として 持っており 自由ではないとき その不自由は けっきょくデーモンに対して むしろ《プラグを差し込んでさえいる》状態だと思われる。ゲーテファウストも 閏土も阿Qも そうであったように。次の引用文では ズレていて 反対のことが提案されている。

・・・精神 / 身体 の双対・・・。ここで身体は 深さと厚みをそなえた有機体 受けた傷を発酵させ受苦(パッション)の痕跡からやがて情念(パッション)の叫びを(――そういった伝統的・民族的な叫びを――)ほとばしらせるような重たい肉の組織として立ち現われる。その限り 身体は音楽の墓場でしかない。

  • 《精神 / 身体 の双対》(こころ・からだ・たましいなど。あるいは ふたつの魂)を わたしたちのように立てると 民族なるもののデーモンに立ち向かうのではなく この民族矛盾から傷を受けたデーモンの叫びとして 音楽には到らず ただその墓場が現われる という。

音楽を奏でる身体はもっともっと軽やかだ。それは 深層をもたぬ身体 いわば十重・二十重におりたたまれた表層としての身体だ。体内が体外でもあるような身体 極致の《交通》の集積が織りなすメビウス的な迷宮としての身体だ。メカニックな構造と対立するオルガニックな有機体ではない マシニック・メタリックな身体なのだ。
そのような身体は 受苦‐情念(パッション)の つまりは怨恨の物語から限りなく遠いところにあって あくまでも能動的(アクティヴ)に運動する。身体に蒙った衝撃をただちに強度の波動の群れとして全域に拡散させ そこから快楽を生産しつつ 笑いさざめきながらよじれ戯れる。マシニック・メタリックな身体の上を横切るこの笑いさざめきこそが音楽なのだということは もはや確認するまでもないだろう。
浅田彰:〈リトゥルネッロ〉inヘルメスの音楽 (ちくま学芸文庫)

《身に蒙った衝撃をただちに強度の波動の群れとして全域に拡散させ》というこの一節に 批判の焦点はある。わたしたちは プラグを抜かない。近代文明といった合理主義のむしろ従来の古いデーモンを克服したかに見えるそれでもやはりデーモン(――つまり 新しい別種の守り神でもあるのだろう――) こういったデーモンに対しても そうだし 前近代文明の旧いそれに対しても もし《精神 / 身体 の双対》(そこには なぞがあった)という文体の基本主観の先行に立つならば そういったデーモンに対しても むろん後行する条件として やはりプラグを抜かない。
なら 《身に蒙った衝撃》からは それによって影響はうけるが 自由である。むしろ この受動によって わたしたちは 文体を――なんなら音楽として――いだすのである。音楽としてというのは おそらく わたしたちのそういった文体の発信をこんどは受けたひとびとが そういう(音楽という波動の群れの)かたちで あたまの中に聞いているものなのであろう。かれらが笑い出すか泣き出すかは わたしたちは知らない。泣き悲しむにしろ 《笑いさざめく》にしろ わたしたちの・つまりファウストの閏土の阿Qの 基本主観(《精神と身体》)における生活過程としての受動を その笑いさざめきなどをもって見ている人たちが 《身にこうむった衝撃・受苦・情念・怨恨》だと 勝手に捉えるのである。
これに対してウェーバーは科学者としてあたう限りたたかった。魯迅は知識人としてたたかった。わたしたちは 後行領域で これらが経験現実であることを見ており知っているが そして確かに闘いであることに間違いはないが 何もしないたたかいである。閏土は――それだけではいけないが――黙々と生きたし 阿Qは――盗みをはたらいていたことに対する自業自得でもあるが――死にいたるまで〔作者・魯迅と〕お付き合いしたし ゲーテはしりごみせず ファウストはむしろ何のちゅうちょもなくメフィストのデーモンと関係をむすびさえしたし こうしてわたしたちは プラグを抜かないが(つまり 抜く抜かないから自由であるが) 精神の政治学において 何もしない。したがって なにもしない闘いである。これが あるいは 音楽の墓場に見えるのかもしれない。《ここ》から《外へ》出ていかないし 《外》などありもしないと思っている。精神の政治学を過程させる《わたし》という政府には 限りがあるけれども 自信もあるし 誇りもある。
(つづく→2004-12-23 - caguirofie041223)