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哲学いろいろ

文体‐第三章 ファウスト

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2004-12-18 - caguirofie041218よりのつづきです。)

第三章 ドクトル・ファウストの物語

ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテは 学者ファウストをして 自分は《ふたつのたましい》を持っていると叫ばしめたし ファウストの弟子ヴァーグナーをして《〔学問する〕精神のよろこび》ということを言わしめたので――それらの原文の用語との照合を抜きにしても―― 《魂》とか《精神》とかの言葉を 定義しておかなければならない。ウェーバーが――つまりウェーバー問題は なお尾を曳くのであって わたしたちは このウェーバー批判をいまの問題のかぎりで徹底的におこなおうと思っている そのウェーバーが―― たしかに《精神》とか《天国》あるいは《目指すべき星》などのことばにかかわって かれのたとえば《職業としての学問》を説くという手はずであるようだからだ。
《精神》とは こころである。《こころ》とは 霊魂である。精神が 精神という霊でもあれば 魂でもある。いまこれは便宜的な定義なのだが――したがって 他の解釈を予定してもいるのだが―― 《霊》は 精神の精神であり 《魂》は むしろ感性のほうを言うのがよい。《身体》は 精神の基体(《身》)であり うつわ(《からだ》)である。身体は 《感覚》にかかわっている。これを感性と呼べば 《たましい》であるだろう。《こころ》は たましいでもあれば たましいを捉え これを導くちから(精神の記憶力・知解力・意志力)である。わたしたちは こころを通して 生活における肉体の運動を よく考えよく思う。そして みちびく。そして みちびく方向をおもうことと その思ったように導きうることとは べつである。

  • これらの用語は 互いに重なるところがあるということで むしろそのことを活かすために 定義してみた。

《ふたつのたましい〔の相克〕》とは 従って 精神の 霊と魂との二つであり 文体は ここから出てくるか それとも ここにかかわって出てくる。このように言った場合は たしかに《たましい》を別様に広く解釈して 《こころ》とか《精神》とかの全体にひとしい総括概念であるとも見ていることになるのだが。

  • このようにいまの概念については 許容される解釈・定義に 柔軟なはばがある。
ファウストの《ふたつの魂》とウェーバーの《学問の星》

精神は――つまり《わたし》は精神によって―― 《あの永遠のひかりを飲もうと いそぐ》。また じっさいこれは 精神が おのれ・すなわち精神の霊〔に到来すること〕を目指すということでもあり それにもかかわらずこのとき――表現としては―― 《永遠のひかりを飲んだ》のである。そして 《星をめざしてすすんでゆく》ことではない。《ひかり》を飲んだ人に わざわざ《星》をふたたび目指すことは 必要なかろう。科学とか学問とかを言うことによって その次元での星・すなわち《それのみが 自己の労作に意味と方向とを指示することができるところの星》を目指して進んでゆく と言って言えないことはなかろうが 基本的に言えることは そのときには文体が 焦点を科学行為に当てて第二次的な形態をとっており ちいさくなるのだと思われる。
じっさい 《自己の労作に意味と方向とを指し示すことができるところの星》を知ったなら すでにこの星をも精神の胃袋で飲み込んでおり かれは 《わたし》の自乗過程をすすむのであって もういちどこの星をあおぎ見て 目指すこともないであろう。少なくとも いちど何らかの星を知ってこれを飲み込んだなら こんど たとえあおぎ見ることがあっても その星はすでに 位置が変わっていることであろう。ということは じっさい 《めざすべき星》のように見えて存在するということがあったとしても 表現だけとして言えば めざしているのは 星々ではなく 光であろうし 実質的に言って 自己をみちびいているのは 星ではなく 星をとらえ飲み込む自己である。実質的な後者の部分が それだけでは 単なる自同律の空回りだとすれば 表現上 ファウストとともにわたしたちは 《ひかりを飲もうと いそぐ》のである。
ウェーバーもそう言ったのかも知れない。そして いつも 誤解の余地を残している。
わたしたちには 精神と身体とが たがいにどのように結びついているのか 分からないのであるが つまりそこには なぞがあるが なにかの星をめざすというと この謎がなくなる恐れがある。経験領域にある科学にとってなら 謎のない星でも いいではないか。そうだとすると もはや 文体論ではないと ことわって欲しい。――いや 星がそもそも謎であるではないか。けれども この星をいうことによって――学問する精神のよろこびを言いこれを立てることによって――職業としての学問が 一義的にまた固定的にそして独立して さだまるものだとすれば そこでは 謎が消えかかっているし ファウストのドラマを認識したことにはならないのではないか。ふたつの魂の相克のほうにこそ 主題はある。
わたしたちは ウェーバーの方法を徹底的に批判する。
或る主観への文体の帰属 すなわち 文体の成立の問題は 科学としては 継続過程であったのだから――しかも この過程に押し流されることを意味しない であったのだから―― むしろ経験科学〔の成果〕をとおして 謎において わたしたちは〔成立を〕見ている。《星》――そこには なぞがある――を言うことによって 科学の研究としては しかし 謎を取り払おうとしているのではないか。ちいさな謎へと移ろうとしているのでは?生活者であるとき その文体には 謎がある。文体は 成立していく。さもなければ 人は 職業――殊に科学行為という専門職――があって初めて 文体としての生活が成立すると言ったことになる。存在(生活)に職業が先行するといった意味においてである。意識(これは たましい または精神一般としてもよい)が 生活によって規定されるのであり 生活が職業意識によって規定されるのではない。意識を 精神一般としてもよいというのは その場合には 規定と被規定との関係ではなく 生活(存在)とその精神〔の霊〕とが 同一のものであるからだ。文体は ここから 現われる。

  • 職業意識によって ときには 精神がその自由を奪われてしまったのではないかと思うほどに 心理の面で 影響を受けることは 事実であろう。職業意識とそれに影響を受けた自分の心理とによって 圧倒され 精神は 最も弱い状態にあったからといって 規定されつくすわけではない。蒸発してしまうわけではない。さもなければ もはや 文体論じたいが 無意味となる。

《精神(霊魂)=こころ》《感性←身体》などの定義は 他の解釈があるかも知れない。他の解釈の場合でも 《職業としての学問》論 したがって 生活においては まったく同じかたちで《職業としての政治》論 これらは 上のような結論におちつくものと――この点では 威張って――思われる。

さらに 《たましい》やらの議論

ファウスト》には 学問論のほかに そしてそこにも概念としては含まれていたものとして 《天国》だとか《永遠のひかり》の議論がある。
文体論として そしてヨーロッパの人びとの精神ないし文体を捉えようとするには 必要・有益だと思われる観点から 取り上げたい。
《天国》というのは 《国》というからには その言葉として わたしたちの国家すなわち政治とかかわっていると考えられる。人間の文体として そうであるだろう。ウェーバーは じっさい 次のような脈絡で これに触れている。

およそ政治をおこなおうとする者 とくに職業としておこなおうとする者は・・・すべての暴力の中に身を潜めている悪魔の力と関係を結ぶのである。無差別の人間愛と慈悲の心に溢れた偉大な達人たちは ナザレの生まれ〔のキリスト・イエス〕であれ アッシジの生まれ〔の聖フランチェスコ〕 インドの王城の出〔のブッダ〕であれ 暴力という政治の手段を用いはしなかった。彼らの王国は《この世のものにあらず》ではあったが それでいて彼らは昔も今もこの世に影響を与え続けている。〔トルストイの描く〕プラトン・カラタエフやドストエフスキーの描く聖者の姿は 今なお この人類愛に生きた達人たちの最も見事な再現である。自分の魂の救済と他人の魂の救済を願う者は これを政治という方法によって求めはしない。政治には それとまったく別の課題 つまり暴力によってのみ解決できるような課題がある。政治の守護神やデーモンは 愛の神 いや教会に表現されたキリスト教徒の神とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きているのである。
ウェーバー職業としての政治 (岩波文庫) 1919 脇圭平訳 pp.99−100)

わたしたちのこの第三章は かかるウェーバーの見解への批判が 焦点となる。
先に論じたように このようなウェーバー理論では すでに謎がなくなる――あやまったかたちで 謎がなくなり また 小さくちぢこまる――という点にある。
政治家が それの力と関係を結ぶと言われたところの《すべての暴力の中に身を潜めている悪魔》とは ファウストにとって メフィストフェレスである。ゲーテの文体においてそれである。

メフィストフェレス:博学な先生 ごあいさつ申しあげます。           (1325)
          ・・・・・
ファウスト:名はなんというかね?
メフィスト:              けちな問いですね。
      ・・・・・・
ファウスト:・・・・
      まあ よい。いったい きみは何ものだ?
メフィスト:常に悪を欲し                           (1335)
      かえって常に善をなすあの力の一部です。
ファウスト:そのなぞめいたことばの意味は?
メフィスト:私は常に否定する精神です!
      それも至当です。なにゆえなら 生起するいっさいのもの(存在)は
      ほろびるにあたいするのですから。                 (1340)
      ・・・・・・
      そこで あなたがたが罪悪だ破壊だと呼ぶもの            (1342)
      つづめて言えば 悪とお呼びになるいっさいのものが
      私の本来の成分です。
ゲーテファウスト〈第1部〉 (ワイド版岩波文庫)〈書斎〉)

ウェーバーの文体においては 政治家が そしてむしろ政治家〔の文体〕のみが この悪魔と結託すると 言っている。そう聞こえる。ゲーテの文体においては このメフィストフェレスと ファウストも 結託する。そして さいごに ファウストは勝っている。
かんたんにここでも結論を言うべきであろう。政治家も 文体を持っている。人間である。その謎をなくして どうして 《無差別な人間愛と慈悲の心にあふれた偉大な達人たち》と 政治家とを 二分するのであろうか これである。《偉大な達人たち》という理想型は 単なる客観認識である。文体の帰属が ない。それを言ったウェーバー自身にも帰属していないと言える。

  • ウェーバーに帰属するという場合を考えるなら それは 例に挙げられた人たちが 互いに 必ずしも同等に扱ってよいのかという疑問を提出しなければならないときである。

それとも わざわざ帰属の手続きの必要のないほど すべての人びとに 一人ひとりの主観に 帰属しており 文体成立しているというのであろうか。むしろ これなら わかるのであるが。もしそうであるなら この《偉大な達人》であるわたしたち一人ひとりが 政治家に政治を信託しているのであるから その政治家が悪魔と手を結ぶというなら けっきょく わたしたちが 悪魔と結託するということを言っている。それとも 政治家は 人間・人類に属さない特殊な生物だと言うのであろうか。ゆえにウェーバーは 先の文体で 謎をなくしている。もしくは わけの分からない謎を提起した。
それでももし この《偉大な達人たち》を言う文体が そのウェーバーに帰属し ウェーバーは その文体どおりに生きた または その文体の星をめざして進みきった と言うとするのなら このウェーバーは 《ファウスト》のゲーテにしてみれば ウェーバーがそう議論しつつ じっさいには 大政治家として 悪魔と結託し しかも これに打ち勝ったということになるであろう。国家の政治を直接あずかる立ち場にいなかったとしても インドのブッダやロシアのドストエフスキーも たしかに悪魔と闘ったのであるから そのかれら達人たちの文体の系譜に ウェーバーがつらなると言うとするなら そうであろう。つまり ゲーテの議論は まちがっていない。――と見てくることは 新たな段階の一つの理想型であって どの主観にどう帰属するかは まだ 明らかになっていないのであるが。そして 主観帰属が明らかに成立するとすれば それは さきほども触れたように わたしたち一人ひとりが 例外なく この《偉大な達人たち しかも 大政治家であるその系譜》につらなるという文体内容となっているはずである。そのとき ウェーバーの引用文では 理想型も生きるし なによりも文体が帰属し成立し 生きたものになること 請け合いである。
じっさい どうも そういうたぐいの議論になりそうである。ウェーバー自身 《ファウスト》のなかの《おぼえておきなさい。悪魔は年寄りですからね / 悪魔を理解しようと思ったら 年をとりなさい!》(ファウスト〈第2部〉 (ワイド版岩波文庫)〈第二幕 高い丸天井の狭いゴシックふうの部屋。6817−18)というメフィストのせりふを引用して 次のように 政治〔にかんする文体〕を議論している。

自分の都市や《祖国》(――こころみに《星》のありかと解してみよ・・・引用者――)は 今日ではもはや万人にとって一義的な価値ではないかも知れない。しかし諸君がこれに代えて 《社会主義の将来》や《国際平和》を口にされる場合でも いま申したと同じような問題が出てくる。

  • つまり わたしたちが上に引用したところの《政治の守護神やデーモンは 愛の神・・・とも いつ解決不可能な闘いとなって爆発するかも知れないような そんな内的な緊張関係の中で生きている》というその意味での《闘い》の問題。

なぜなら 暴力的手段を用い 責任倫理という道を通っておこなわれる政治行為 その行為によって追求されるすべてのものは 《魂の救済》を危うくするからである。しかしこの《魂の救済》が純粋な心情倫理(――要するに こころ――)によって信仰闘争の中で追求される場合 結果に対する責任が欠けているから この目的そのものが数世代にわたって傷つけられ 信用を失うことになるかも知れない。なぜならこの場合 行為者はそこに働いている悪魔の力に気づいていないからである。悪魔の力は情け容赦のないものである。もし行為者がこれを見抜けないなら その行為だけでなく 内面的には行為者自身の上にも 当人を無惨に滅ぼしてしまうような結果を招いてしまう。《悪魔は年をとっている》。《だから悪魔を理解するには お前も早く年をとることだ》。
ウェーバー職業としての政治 (岩波文庫) p.101)

すなわち イエス・キリストやゴータマ・ブッダを例とする《偉大な達人たち》という理想型は わたしたちから見れば たんなる客観概念だと思われたものが ここでは その理想型の発案者ウェーバーに たしかに帰属して しかも 偉大なる達人たちは――だからそこに ウェーバーも加わって―― そのかれらの固有の文体において 基本的に言って《政治に 魂の救済を求めはしなかった》が 同時に言って《政治に対して闘った》と 宣言しているのである。その闘い方は 《純粋な心情倫理による信仰闘争》なのではないのだと。そうでなければ かれウェーバーは ただの老婆心 ただのお節介を焼いただけ という純粋な心情倫理を吐露したにすぎないであろう。
つまり わたしたちの初めの認識は まちがっていた。《天国・魂の救済》と《地上の国・政治(責任倫理)》とは たしかにわたしたちが《心情倫理》的にさえ この経験過程的な文体の問題においては 二分されてはいないと言い張った同じことを ウェーバーも述べている。ゲーテの・ないし《ファウスト》の基本線(《ふたつの魂》とその統合)に ウェーバーも 立っている。
ウェーバーのしめくくる最後の結論を くどいように長くなろうとも 引用してみなければならない。

政治とは 情熱と判断力の二つを駆使しながら 堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは およそ可能なことの達成も覚束ないというのは まったく正しく あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。しかし これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく――はなはだ素朴な意味での――英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも 人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと いま 可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて 現実の世の中が――自分の立場から見て――どんなに愚かであり卑俗であっても 断じて挫けない人間 どんな事態に直面しても《それにもかかわらず(デンノッホ)!》と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への《天職(ベルーフ)》を持つ。
職業としての政治 (岩波文庫) pp.105−106)

こう締めくくったウェーバーの文体 これを人は どのように 受けとめるであろうか。
わたくしにしてみれば――てっていてきにウェーバーを批判するという意思を持っており―― 第二章でと同じように かれに こう問い返さなければならない。
あなたは 生活者か それとも 政治〔研究〕家か。あなたは 実践者か 指導者というものなのか 実践を指導するという政治家なのか。――すなわち この文章の内容は 誰に どのように 帰属するのか。発言者ウェーバーに どのように(生活者としてか・科学者としてか)帰属し 文体として成立するといえばよいのか。この問題が残る。(いわゆる評論家として 言い放ったというべきか。)
《断じてくじける人間》 こういう人も 生活において 文体を成立させており そこに 政治している。これが 〔原理的に〕先行する主観基本なのである。いわゆる政治 もしくはこの政治の研究 ないしそれをとおしての政治行為への指導 これらは 後行する事態である。ウェーバーがこううたいあげた《それにもかかわらず》。
ウェーバーは 科学的な客観認識としての理想型 ゆえに 《純粋な――〈ただひとつの魂〉の――心情倫理》に陥ってはいないか。
わたしたちに必要なことは 《くじけどおしでは いけない》――なぜなら 文体は過程的で かつ 過程に押し流されない――ということのみなのである。なんなら《職業としての生活》――それは 《生活(存在)》に後行する――すなわち 具体的な仕事の場をとおして ということのみである。政治家だけではなく わたしたちは この社会生活で 悪魔と結託してもいるかも知れない。ゲーテの《ファウスト》は 《それにもかかわらずdennnoch!》 いうとすれば《天国》をあおぎ見つづけた。それは ゲーテにとっても わたしたちにとっても 依然として なぞであるが この謎をなくすことのほうが より混迷にみちたなぞである。
ウェーバーは ここで 《どんな事態に直面しても 〈デンノッホ!〉と言い切る自信のある》人造人間を作り出そうというのではあるまいに。ヴァーグナーの《ホムンクルスHomunkulus》!

ホムンクルス(《人間ちゃん》):自然のものには宇宙も狭く
       人工のものは くぎられた空間を望みます。
ファウスト〈2〉 (新潮文庫) 6883−84)

《くぎられた空間》から 《星を目指す》のではないだろうか。かんたんに言えば 《英雄〔の出現〕》をとおして初めて 政治することができるという考えである。(この点で わたしは 次の章で 魯迅の文体をとりあげる)。

嘗て私は――とヴァレリが ゲーテについて言うところを聞こう―― 或る精神の政治学というようなことについて語ったことがあります。私はこのかなり漠然として神秘めいた表現を自分で作ったのですが それは私にとっては われわれが己(おの)が裡(うち)に抱いている欲望 回想 予見 神話及び評価の宇宙と 各人 各々の或る人との関係の総体 われわれの現実生活の殆んど全部がそれらに浸透され支配されているところの想像的な心力に対するわれわれの賛同と抵抗との総体を 意味するものであります。
・・・
ゲーテは 人生を判断し評価する極度に詩的な在り方の帝国を世に課した人びとの一人であります。彼は人生に対し 出来事の認識と思考に対して 見事に計算され 執拗に続行される 巧妙にして最高の政治を実行しました。
(ポール・ヴァレリ:ゲーテ 1933
佐藤正彰・寺田透訳《私の見るところ》所収)

この一節の引用だけでは まだ単なる客観認識であって ぴんと来ないかもしれないけれど これを――つまり《精神の政治学》を―― 次章に追っていこう。ウェーバー批判の必然的な帰結として そうなるはずである。もし ウェーバーという星を飲み込んだ場合でも そうならなければおかしいものと思われる。わたしたちは ウェーバーに苦しめられているかに見える。
(つづく→2004-12-21 - caguirofie041221)