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哲学いろいろ

文体――第一章 文体とは

目次→2004-12-17 - caguirofie041217

第一章 切り口上――文体とは――

わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程である。
自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程である。わたしが一であるなら この冪は つねに一である。
わたしとは何か。わたしと名のる存在である。ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。一般に内面における自己還帰の確認は 広く自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。
内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いが 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。
かくて わたしの生きる過程は 文体として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme même.)

文体の原則(命題):

  1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。
  2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。
  3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 過程としてこの世界のすべてであろうと欲する。文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが多い。
  4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。
  5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを自乗・三乗して生きていく。 
  6. 文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は 世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。
  7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。

 

ここからわたしたちの持つ課題は

  1. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。
  2. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為以上の事柄があるのかも知れない。
  3. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 
ささやかなM.ウェーバー批判

文体と科学との関係にかかわって ウェーバーの方法にかんする吟味から入っていきたい。ウェーバーとしては 次のように表現することがらが 文体をめぐる問題である。

われわれの科学があらゆる科学と同様に研究に使用する概念の論理的な機能および構造は いかなるものであるか または 決定的な問題にかんしてもっと特別な言い方をすれば 文化実在の認識に対する理論ならびに理論的な概念構成の意義は 何であるか。
(M.ウェーバー:《社会科学的ならびに社会政策的認識の〈客観性〉》1904
富永祐治・立野保男訳《社会科学方法論》)

わたしたちの関心は 《文化実在・その認識・そこに使用する概念・概念構成としての理論》 これらを用い文化実在をめぐって自己表現する文体と その補助行為だと考えられる科学との 関係ということになる。
ウェーバーはと言えば 《文化認識の〈客観性〉の考察にあたって 方法上 興味ある問題》として 上の引用節の内容をもって 説明している。かれにとっては この論文に関する限り 《客観性》という観点が 一つの中心主題である。わたしたちのは 《文体》である。客観性のあとのことであり 客観認識をもちいての自己表現のほうに 重心がある。ウェーバーは この問題を《方法論》としておこなうと言っている。方法論は 《文体論》と同じだと考える視点があるはずだが ウェーバーの場合の方法論は わたしたちの見る補助行為としての科学のためのそれに重心をおいているように思われる。
ウェーバーの議論に長く付き合おうとも思っていないのであるが 初めに これを通過しておきたいという気持ちがある。少しくお付き合い願いたい。
ウェーバーは わたしたちの文体行為の過程性という一原則を 科学研究の過程性というかたちで言っている。たしかに――広げて捉えるなら――科学的な客観性が 文体ないし文化現実つまり要するに現実の歴史に 先行するものではないと言おうとして 次のように論じる。長いひとまとまりの議論を参照して これを検討していく。

例えばキリスト教の《本質》に関するすべての叙述(文体――引用者。以下同じ)は 経験的に存在せるものの歴史的叙述として見られることを欲するときは いつでもまた必然にはなはだ相対的なかつ問題的な妥当性しかもたない理想型にすぎぬが
これに反して それがもっぱらそれにもとづいて実在を比較し測定する概念的な手段として用いられるならば(――このことが 客観の 本質的な後行性を言っているとして 読むことができる――)
研究にとっては高い索出的(heuristisch)価値を有し 叙述にとっては高い体系的価値を有する理想型たるのである。かかる機能においては理想型(Idealtypus――要するに概念・ことば――)は正しく不可欠である。
ところがかような理想型的叙述には 通常その意義を一層錯綜せしめる今一つの他の要素が付着している。通常この理想型的叙述は 論理的意味においてのみならず 実践的意味においても 理想型的であろうとし 或いは無意識的にそうなっている。すなわち――我々の例では――キリスト教が叙述者の見解に従えばそうあらねばならぬもの 永久に価値あるものであるが故に 彼にとってキリスト教における《本質的なもの》(――そういう意味での客観的なもの――)であるところのものを含む模範型(vorbildliche Typen)たるのである。こういう場合には ――それが意識されていることもあるが また意識されていないことは更に多い――この叙述が含んでいるのは 叙述者がキリスト教を評価しつつそれに関係せしめる理想 すなわち彼がそれにもとづいて自己のキリスト教の《理念》を整頓するところの課題と目標とであって この理想は 同時代の人々〔かりに原始キリスト教徒〕がキリスト教をかかわらしめた価値とは無論非常に違っているかも知れない いな疑いなくいつでも違っているに相違ない。だがそうなると かかる意義においてこの《理念》は勿論もはや純理論的補助手段でもなければ それによって実在を比較しつつ測定する概念でもなく かえってそれは それからして実在を評価的に価値判断するところの理想なのである。ここで問題たるのは もはや経験的なものを価値にかかわらしめるという純理論的な過程ではなく キリスト教の《概念》の中に取り入れられた価値判断なのである。
(前掲《社会科学方法論》)

すなわち わたしたちにとってここで問題たるのは 《経験的なものを価値にかかわらしめるという純理論的な過程》である科学行為は 文体にとって 補助手段であり 現在過程である文化現実に対して 後行するということである。後行するというのは 時間的にもそうならざるをえないであろうし 考え方のうえでこそ 従属的であろうという意味である。
今の例でいわゆるキリスト者としての文体行為が 一方で 人々が共通に主観として保持しうる文化現実の基礎認識に欠けていたり それから逸脱していたりすれば それは そういう問題である。共同主観としての基礎が弱いということである。その指摘と訂正を求めることとを わたしたちは 発言していく。他方で やはり今の例を用いるなら 一キリスト者が 自らの自己到来を公的に表現したという現実が すでにあるとするならば それはそれで まず 文体行為が成り立ったと捉えなければならないということ この出発点のことを 問題にしたいと思う。
焦点は やはり《価値判断》にある。文体行為に価値判断はつきものであり その内容が客観性に乏しいことと 文体として成立しないとして斥けることとは 別だと考えられる。もしウェーバーも 全く同じことを含んで言ったとするなら その方法論は 科学行為の客観性を取り扱うことを 文体にとっての補助行為であると明らかに言ったことになる。
但し書きは 次である。引用文の中に 《模範型》という言葉が出てくる。例に取り上げられた一キリスト者の文体表現は 自己到来した自分がわたしする表現行為ではなく 自らの想像において描く理念像の表明になっているから 客観性を求める科学行為から逸れており それは 模範型であると捉えられている。わたしたちにあっても この理念の想像行為・それとしての模範 これを表明することを 自己表現としての文体行為であるとは 見ていない。文体行為たろうとしているものであろうが そこでは まだ 文体としては 成立していないと見なければならない。ただ細かく言うとすれば 逆に 模範型を 自己表現のなかに用いることは ありうる。模範や理念を模範や理念であるものとして(そうことわって) 表現のなかに用いる分には なんの支障もない。文体行為として成立するはずである。――抽象的には そのように捉えておくことができるであろう。
さらに焦点は次に絞られる。文体行為につきものの価値判断――自らの志向性の表明――のために必要な科学的客観認識 これは――そもそもやはり過程的なものでもあり しかしそうであること以上に――わたしたちが得ることが無理な場合が考えられるという点である。言い換えると 万人の主観に共通の客観認識が むしろ得られるかどうか 分からない場合である。客観認識の可能性が 可否いづれとも 客観的に知りえない場合である。文体行為が 自己到来を表出しようとするものであるからには その自己到来には 当然のごとく わたしといわゆる絶対者との関係がかかわっていると思われるからである。先の例で 一キリスト者が 絶対者である神との関係において 自己還帰したと表明したい場合 これには 科学という補助手段には 客観的な基礎構築のための力に 限りがあると言わざるをえない。
単純・簡潔にいえば 文体行為は 科学では論証し得ない部分領域を持つと考えられる。万人が共同主観しえない部分があるからと言って 文体は 科学に 後行し劣るとは 考えられない。一方で 科学にいわば信をおいて価値判断を〔つねに〕保留する文体と 他方で 科学以上のものに信をおいて――論証をなしえないのだが――価値判断をも表明する文体 これら二つの種類のあいだで 優劣を決めるのは 難しいと考えられるのではあるまいか。
ウェーバーも かれ自身 《価値判断――あるいは 生活の全体としての文体行為――》をしないとは言っていないのであるから もし批判という点では まだ微妙ではあるが ひとまず以上のように考えられる。

ウェーバー批判の補論として

あまりにもささやかすぎるので 以下少しでも補いたい。
ウェーバーは 次のように言うとき むしろわたしたちの文体の原則内容に合致して述べているとさえ考えられる。

理念型は一つの思想像であって 歴史的実在であるのでもなければ まして《本来の》実在であるわけはなく いわんやそれは実在(存在)が類例としてその中に配列されるべき一つの図式の役目を果たすためにあるのでもない。かえってそれは一つの純粋に理想的な(思惟としての)極限概念の意味をもつのであり 我々はそれによって実在を測定し比較し もってその経験的内容の中の一定の意義ある部分を明瞭ならしめるのである。かかる概念たるや 現実に即して訓練された想像力が的確だと評価するところの客観的可能性の範疇を用いることにより 我々がその中に諸連関を構成するところの形成体なのである。
ウェーバー:社会科学方法論)

従って こう言えるかもしれない:できるだけ多くの理念型を用いて 世界体験の全体に相応すると思われる自己到来したわたしの自己表現に迫るという行き方 これも 文体のあるべき姿の一つであるかもしれないと。わたくし個人としては 人が《わたしがわたしである》とき そこでは――理想や模範というよりは―― ひとつのドグマがかかわっていると思っている。たとえば 無神論の人が その無神論に立つときこそ《わたしがわたしである》と言うとすれば そこには 《無神》――絶対者の無――というドグマがはいりこんでいると思われる。先のキリスト者の例では 絶対者の有というドグマである。絶対は有か無か これを客観認識しえたなら 話しは別だが。相対性の世界における有か無かという概念による規定がなしえない領域(そういう想定)を 絶対とするのであるから。 
たとえば

しかしながら・・・学問的自制の最初の義務であると共に 欺瞞を防止する(議論の空回りを防ぐ)唯一の手段でもあるのは 実在を論理的意味における理想型(要するに 単純に 概念)に論理的に比較しながらかかわらしめることと 実在を理想から評価的に判断することとを峻別することである。
(社会科学方法論)

ウェーバーが言うとき その後者すなわち《実在を理想から評価的に判断すること》を 一般に文体行為は 回避しないということである。だが とはいうものの ウェーバーとて ニュアンスの問題としていえば 科学行為において理念型どうしを互いに絡ませながら用いつつ 実在のありようを把握し描こうとするだけで その科学行為者は 自らの価値判断をも反映させうるであろうし そのことをとおして 同じその科学表現を 自らの文体行為とすることさえ可能であると結局は 言っているのではあるまいか。たしかに最後の一点=ドグマの部分は伏せている・つまり 仏に魂は入れないままであるかもしれないが。そもそも 価値判断を禁欲すると言ったときに すでに その科学者は 自らのわたしの出発点・そこからの文体行為を 用意していると宣言したことになる。おそらく そこでも 文体行為は 科学行為に先行しているものと思われる。


文体の原則に次の項目をくわえるべきであろう。

文体の原則(命題)つづき:

  • 8 価値判断を回避しない条件として 答責性が伴なわれなければならない。客観認識しえないと思われる部分(ドグマ)はそれとして申告すること その他の部分では 自由な問いかけ・問い返しに自由に答えなければならない。
  • 9 答責性を伴なった自己表現・発言がいったんおこなわれたなら そのとき文体は 成立したと見なす。
  • 10 文体の成立を俟って わたしたちは 話し合いを行なえる。文体の成立を認めるゆえに もしそこに共同主観しがたい要素があれば これを自由に批判しあい さらに議論しあい 社会的な文体過程を継続し発展させていく。


最初に掲げたわたしたちの課題 これらについても ひととおり 概括的に・抽象的に 応えたと思う。次からは 世界過程としてわたしする過程を 具体的に その取り上げる例をわたくしの趣味に片寄りつつも その扱い方としては一般の主観共同化に耐えうるように――自由な批判に期待もしつつ―― 進めていこうと思う。
  
(つづく→2004-12-18 - caguirofie041218)