はてな質問−人間関係における萎縮
- 以前同じように次の質問があった。「およそ人間は、自殺をしてはならない」って主張があったとして… - 人力検索はてなそこでは 人間の社会性 その関係性が絶対であるという出発点のことを述べた。回答#11→
人間は社会的な存在であって 個人としての自由意志とその発現(意思表示と行動)とは あくまで人間関係の中で・特に信頼関係の中で 現実となり 意味を持ってくるようになります。その意味や存在の重さは 人それぞれの一生を通じて・従って結局その全体を捉えて 評価されるのだと考えます。
このとき問題は 他殺・自殺あるいは事故死など寿命を全うしなかった場合に どう評価するかになると思います。もし一生が中断されたと見るなら 評価は中途半端になると思われます。
言い換えると その人と周囲の人々との間の 互いの関係が 半端なものに終わってしまう。この事態を 自殺によって意図的にもたらしたとするなら それは 親しい人に対しても・ひいては社会一般の人々に対しても 失礼なのではないでしょうか。付き合うにあたいしない・信頼するに値しないと 勝手に(人生の途中で) 一方的に見なしてしまうことになりますから。
茶化した言い方をしますが もし自殺を選ぶ場合は よほど人を納得させる理由を発表することが 最低限のエチケットになるのではないでしょうか。
- 2005-06-21 - caguirofie050621
- わたしは 二人の妹とともに 両親はそろっており ふつうの家庭の中にいたが 孤独の青少年期を過ごした。孤独というよりも 人間関係あるいは信頼関係が欠如しているというような言ってみればその強迫観念の中にもあった。これが一応おさまったのは 関係の絶対性*1という事柄に出あったときである。これは ひじょうに観念的なもので 何がどうだといって 中味は むしろ分からないしろものである。けれども この考えかたが やがて わたしの生活態度そのものにまでなって 知らぬあいだに 孤独ではなくなった。精確にいえば 孤独に耐えるちからが あたかも自然にそなわっていた。
- もし と振り返ってみる:もし いつまでも なんの事件にも出あわなかったとしたなら・・と。確かに その時には たとえば自殺というようなことも考えてみたかもしれないのかなあと。だが 欠如感 これは いったい何なのかと その問い求めで精一杯だった。その出会いの事件のあとは この自殺の考えであるとか 要するに弱気一般からは 遠ざかっている。(弱気ではないけれど たいへん受け身に偏った姿勢ではある。押しが弱いであるとか その点では すべて 《弱い》という側にいるのだが。)
- 何が問題なのか。若い人びとに 今どんなことが 起こっているのか。――なきたいほど なにも分からない。