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哲学いろいろ

#1

全体の目次→2004-12-07 - caguirofie041207

§1 この世に留められた霊という不幸a

――梅原猛吉本隆明共著《日本の原像》――

対話 日本の原像

対話 日本の原像


〈遥かなる世界からの眼を〉を読ませていただきました。
新しい世界観 すなわち むしろ古代のそれの再生 つまりは狩猟採集時代の人類の持った世界観の――現代における――新しい普遍性というもの これを アイヌ文化のなかに見出し もはや 認識するだけの問題ではなく まさしく現代人が実践するものとして 提案なさっておられる。
今はむろん 狩猟採集生活の時代ではないけれど その昔の――根本的に人類にとって 普遍のものだと考えられるような――生活態度は 痕跡としてでも(あるいは もう少し強くいえば 残像たる一つの経験現実として) われわれ現代人のあいだに 受け継がれて来ているし だとすれば それは ただ 過去の歴史経験の認識であるにとどまらず 実践可能なものだし また 価値判断をまじえるなら いまに実践するべきものであると すすんで これを明らかにし 提唱しておられます。
人は 質問する(あるいは 批判する)ときのほうが しばしば議論がかみあうだけではなく 同感も大きい(もしくは 深まる)といったタテマエで 申し述べさせていただくとすれば――また このことは タテマエの内容を もっと知りたいということにも なると思うのですが もし お時間を割いていただくとしますと―― つぎのような事柄については いかがでしょうか。

〔狩猟・漁労・採集の生活を送っていた時代の人びとは――アイヌ文化から ないし 農耕を持ったとはいえ沖縄の宗教儀式から 察するに―― その考え方において〕 この世とちがったこの世より高い世界である天は存在しているが 地獄・極楽は存在しないのである。
(p.202)


ここでの不幸は 罪の制裁が待っている 地獄へ行くことではなく 霊がこの世にとめられて天へいけず 従って生まれ変わることができないことなのである。
(上の引用文に先立つ箇所)
対話 日本の原像

こういう考え方は まちがいでないと思うのです。そして しかも――わたしには――もし言うとすれば 

おそらく農耕牧畜社会が生まれ きびしい身分社会が生じてから・・・人類はこういう本来すべての人間が行くはずであった天の世界を特定の人間の行くところとし それに対して 他の人間の行くところである地獄を想定すること
(同上・承前)

になったという・そのときの一つの新しい考え方 これも じつは 《霊がこの世にとめられて天へ行け》ないところの《不幸》を 自覚し ひいてはけっきょく 天のことを人に想起させるということだと思われるのです。思われるからには この点では はじめの人類の世界観と同じものであったと言っていいのではないでしょうか。
たしかに 別様に 《地獄を想定》し はじめの天なる《死の世界を》天国あるいは極楽だというふうに 上に想定した地獄との対立物としてしまって 《人間の我意で汚したように思われる》(承前)という議論には そうかもしれないようなのですが もし考え方(世界観)の表現手法の問題を別にすれば――別にできるなら―― けっしてその内容が 初めの考え方から 変わってしまったとは 思われません。
すなわち 狩猟生活を去って農耕生活が始められてからも その過程で 《地獄》を想定しだしたとしても それは もともとの 《霊がこの世にとめられて天へ行け》ないところの《不幸》と同じものだと考えられないではないわけです。
この地獄が 死後のこととされたこと すなわち 死んでから或る人びとは 《地獄へ行く》というふうに 表現されるようになったこと ここには 表現手法のちがいだけではなく 明らかに 世界観の内容も変わっているのを見るのですが ところが 早い話 天国とか極楽とかのほうは それほど その概念が 変形されていないのではないでしょうか。
言いかえると 狩猟採集生活をおくる人たちのあいだにも 罪を犯すことがあり その罪の制裁があったのだとするならば それとして 《霊がこの世にとめられて天へ行け》ない不幸だということでしょうし この不幸は――その時代にあっても―― 《他の〔特定の〕人間の行くところである地獄を想定すること》と ほぼ同じ内容を 持っています。つまり そのときには 地獄が死後のこととされたとしても 現在(現世)の不幸の自覚 すなわち したがって 初めの天の国の想起を 依然として うながす世界観を受け継いでいるとまでは 見ることができるようです。これは 事後的な一解釈ですが 解釈するとならば そう考えられもします。
(つづく→2007-12-19 - caguirofie071219)