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哲学いろいろ

第十四章―仏教

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

[えんけいりぢおん](第十三章−ヨブ) - caguirofie041125よりのつづきです。)

第十四章 仏教について

ブッディズムに 一章を割こうと思う。

 

この書物から なるべく一般的な議論となるように引用して 話を進めていきたい。そのつど 注釈をほどこしつつ 読んでいこうと思う。

ブッダアートマン(自己・自我)の存在を肯定も否定もしなかった。彼は 哲学の限界を認識できるほど十分に哲学的であれと人々に説いた。身体が幾つかの機能をもつ組織の名称であるのと同じく 魂はわれわれの心的存在を構成する状態の総体に付けられた名称である。そのような機能を除いて魂は存在しない。

この非我の教説・・・。ブッダ自身は魂を否定せず それについてはひたすらに沈黙を守った。そればかりか 普遍的規範に合致するわれわれの道徳的行為において現われる《真実の自己》なるものは認めていたようである。つまり ブッダ形而上学的実体としての魂の存在を想定することはなかったが 実践的で道徳的な意味における行為の主体としての自己の働きは認めていたのである。

  • 《実践》つまり《現存在》なり《実存》なりが じつは出発点と深くかかわることはすでに捉えてきたところであるが(――すなわち 存在の問題が 表現の問題であることを介して 時間の問題であるという意味合いで とらえた*が――) この《真実の自己》を われわれは《道徳的行為》には見ておらず その根拠たるべきという《普遍的規範》を立てることもなかった。ただし われわれの見方に引き寄せて捉えるなら この《普遍的規範》とは 経験存在であるところのあらゆる人が そのわたしにおいてそれぞれ 《非経験》へと開かれているというそのことを指すとも解釈しうる。従ってそのときの《道徳〔的行為〕》とは 単純にいわゆる実践または 社会関係における普通の時間的な行為のことを指すとも読める。そこから――基本出発点としては――倫理規範の部分をすべて 取り除くということである。そうすれば いまの議論についていける。
    • *→やはり上記の第九章&第十章

・・・ブッダがより関心のあったのは非我(無我)の教説の実践的で道徳的な意義であり それについての形而上学的な議論には関心が薄かった ということになろう。そして その道徳的な意義は全仏教史を通じて強調されてきたのである。・・・この点に関して ブッダは 《私および私のものという主張》をすべて慎もうと努めたのであった。

  • 表現上 かなり違いが見出されるが まだ一致点をも共有している。すなわち ここで《道徳》というとき たとえば《〈私および私のものという主張〉をすべて慎もう》という点では・つまり無我の地点にかんしては・さらに詰まり《非経験とのかかわり》に発すると見られる点では われわれの《わたしの誕生》と共通するところに立つと言ってもよい。(かなり乱雑になるが。)《非我・無我》と 《我れが我れである》とが 基本出発点にかんする存在思想として 互いにそれほど違わないように捉えることとする。――次には キリスト・イエスによる存在思想が例示的に触れられている。

キリストの説諭についても ほぼ同じことが言えるであろう。《もし私に従おうとする者がいれば 彼自身を否定させ 彼の十字架を背負って 私について来させなさい。》(マタイ福音書 (希和対訳脚註つき新約聖書) 19:16−30?)《この世の生命を嫌う人は 永遠の生命のためにそれを取って置こうとするだろう》 だが《その〔この世の〕生命を保持しようとする人は だれでもそれを失うだろう》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 12:24−26?)
〔この前提に立って〕しかしながら ここで考慮すべき問題がある。・・・仏教とキリスト教の両方で 人間の状況についての診断に従って どのような治療の方法ないし方策が立てられていたかという問題である。

  • ここから 論点に入る。

仏教の目標は涅槃である。・・・取りもなおさず 仏教とは涅槃にいたる道のことなのである。・・・
仏教の宗教的実践の目的は自我の迷妄を除くことである。・・・
仏教の中心課題は 正しい道を歩んでいけば 自分自身を人生の束縛から解放でき 最高の真理を実現することができるということである。悟りを得ることは涅槃と同じである。すべての仏教徒は 悟りが彼らにとっての目標であり それは正しい道を行なうことによって得られる との考えで一致している。

  • 《正しい / 真理》などについて 説明がないので よく分からなくなってきた。もう少し聞いてみよう。

・・・涅槃は永続する幸福と平和であり 《激情の火》を消しとめ《苦悩》を止滅させることによって現世で得られるものである。それは最高の幸福であり 過ぎゆくことのない至福である。そこでは死ですらその痛みを失う。生に伴なうあらゆる困難と労苦が 全く安息のなかで永久に消え去ってしまうのである。

  • なおよく分からない。辛抱強く聞こう。

よく知られているように 四つの聖なる真理(四聖諦)という仏教的分析の最後には 八つの聖なる道(八正道)が説かれている。その道は厳しい思索ないし知的な修練を意味し そのためには無知を克服すべくたゆまぬ努力が必要である。なぜならば 仏教の見解では 人間の現状とその展望に関する無知は 目標にいたることを妨げる主要な障害の一つだからである。
修練はすべからく道徳的なものである。
比較思想から見た仏教―中村元英文論集 (翻訳シリーズ 1 中村元英文論集) pp.66−83)

このような論旨は 特殊でも例外的でもないはずで また ここで引用を打ち切ったあと 重大な素晴らしいことがらが 説かれているとも思われない。だとすれば われわれとの 存在思想上の異同は 明白だと思われる。
それでも たとえばこのあと この《無知の克服》という道徳的な修練にかんして 《キリスト教にも似たような表現がある》という。

エスが《汝は真理を知るだろう。また真理は汝を自由にするだろう》(日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 8:32)といったのは 仏教の次の章句に対応する。《バラモンが彼岸に達した(完全になった)ならば 一切を知った彼には すべての束縛は消え失せるであろう(ダンマパダ・法句経)。》
中村元比較思想から見た仏教―中村元英文論集 (翻訳シリーズ 1 中村元英文論集) p.84)

これは 確かにここではっきりと 違いが出ていると思われる。言うならば まるでジグソーパズルのように 仏教とここで言う《キリスト教》との間に表現をあてはめているかの如く捉えられる。聖書では たとえば次のように言われる。

エスは 自分を信じた(すなわち 存在思想における《〈自己の誕生〉が実現した》というかれの声を 心でも同意しつつ 受け容れた)ユダヤ人たちに言った。《わたしの言葉にいつも聞き従うならば きみたちはほんとうにわたしの弟子である。きみたちは真理(非経験の領域)を知り 真理はきみたちを自由にする。》
日本語対訳 ギリシア語新約聖書〈4〉 ヨハネによる福音書 8:31−32)

《自由》は もともと 存在思想に含まれている。《わたし》の誕生は 時間過程に従い そのことじたいが 相対性のもとにあって 自由であることを示し そのことに基づき 各自が答責性を伴なうという自由のことでもあった。ここでは 《真理》という表現が 問題になる。問題となるが この上の引用文の全体は けっきょく《わたしの誕生にかんする存在思想の系譜》そのことであるにほかならない。また 真理とは 表現上 存在せしめる者=ヤハウェーのことである。そしてこれは 代理表現である。
すなわち ここイエスの言葉をめぐっては―― 一つの重大な違いとして―― 《知の有無 / 無知の克服という修練 / そこにおける意味での普遍的・道徳的な規範》などにかんする要請は ない。(むろん 経験現実での自己の持続過程では 社会関係・倫理問題に つねに直面している。)この修練の道にかんする意味での《すべての束縛は消え失せるであろう》という目標などは 問題となっていない。他のすべてを別として 自己が誕生するかどうか 誕生したと表現するか否か これのみが問題であって そこからのみ われわれは 出発する。
《真理》問題は 誕生せるわたしとその実現にかんする確信や自負の問題である。つねにその《いま・ここ》での問題であり いうとすれば 《束縛》や誘惑や疑いなり不安なりは それとして 時間的な持続過程には 必然的に伴なわれると認識している。
新しく誕生したという時間の側面では もはや恐れは何もない――わたしがわたしであるのだから―― しかも その時間過程の側面では 自分が 自分自身のなかにも入り来る敵対者サタンの訴える声にさらされているとき いうなればこれに対する清らかな恐れを持っている。つねに弱さを誇ろうという。実体的な・あるいはそうでなくとも 認識しうる・認識すべき知の対象としての《普遍的規範(ダルマ=法?)》とは 無縁であるゆえ――経験思考によって生まれたのではないゆえ―― この清らかな恐れに包まれている。
このとき わたしは 《わたしの誕生のさらに実現》というかれの声を 精神においても身体においても 聞いている。《わたしは真理を知り 真理はわたしを自由にする》ということがらは まだ 精神=身体においては 分からない しかも この今の段階でも わたしは 聞いて受け容れている。誕生したわたしに 恐れはないからである。つまり時間過程で つねに〔きよらかな〕おそれに包まれているからである。経験的な時間過程における因果律からの自由 その因果応報としての存在思想からの自由 つまりこれらとしての表現行為の自由 これをわたしは見たからである。この自由が わたしの誕生として自由だと主観真実において捉えられるその理由は そのわたしが いま・ここで 時間過程なる現実情況に 束縛され その恐れを持っているからである。
だから涅槃であるとかないとか そこに達したとか達しないとか また 達すべきかどうか あるいは そのための《正しい道》だとかそれとしての《道徳的な修練》だとか これらに関しては まったく どうでもよいと思っている。だから 努力はまったくしないということにはならない。《何もしない闘い》は 基本出発点のことである。《わたしの誕生》にかんしては それの持続ということを除いては その誕生にいたるまでの過程においても 確かに 自己の努力は 問題とならない。つまり それが あってもよいし なくてもよい。一般に《真理》の詮索といったような理性的な努力は 不必要であろう。ただ 社会全般の中で 生きることにかんして とうぜん 努力は伴なわれなければならない。とくに 真実と真実との闘いとしての話し合いでは 勉強もし より妥当な表現を求めて――それこそ《昼も夜も》――努力する。


けっきょくここでは 存在思想から視た仏教と言うことで その一例を取り上げたのであるが 事がもし 信仰のことに関するとなれば――存在思想はまったくそのようであることが 現実であるから―― たとえば次のような表現に接して 自らの誕生に立ち会うという人がいれば そのことにわれわれは とやかく言うことも まったくないわけである。ちょうど 旅人が 二人の友人の情けに接して その生誕のうたをうたったときのようであるのかも知れない。

慈悲ないし愛はサンスクリット語ではマイトリー パーリ語ではメッターといわれるが いずれもミトラ(友人)という語から派生した言葉である。だからどちらも文字どおりには《真実の友人らしさ》を意味する。もし慈悲の徳を自分自身のなかに 育もうする気持ちがあれば みずからを損なうことはもちろん 他人を害することもなくなるであろう。このようにして 自分に属すると見なしている領域を広げることにより 利己的な感情や利己的な愛を減少させていくのである。すべての人の自己を自分自身の人格のなかに溶け込ませることによって 自己と他人とを隔てていた障壁が取り払われるのである。
中村元比較思想から見た仏教―中村元英文論集 (翻訳シリーズ 1 中村元英文論集) pp.121−122)

これは 一般的にむしろまじめな世間の知恵であって われわれはただ この種の表現そのままで 自己の持続過程を歩むことは 基本出発点の問題として ないというのみである。けれども そのように自己の考えと思いのまま 歩むことはできないことも われわれは 知っている。

わたしは 善いことをしようという意志はありますが したいと思う善いことは行なわず したいと思わない悪いことを行なっているのです。
パウロローマ人への手紙 (新聖書講解シリーズ (6)) 7:18−19)

という経験現実の情況を知っている。わたしの誕生というのは 

《わたしは信じた。それで わたしは語った》(旧約聖書 詩篇 (岩波文庫 青 802-1) 116:10)と聖書に書いてあるとおり・・・
パウロコリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 4:13)

というふうに この存在思想の系譜につらなって――道徳としての慈悲やそれとしての愛にかかわりなくと言ってよいほどに―― 自己の歩みを推し進めていくのみである。その試練についても すでに考えた。(ヨブ)
少し勝手な議論をするとすれば 仏教は もっともっと けなしてこそ そこから新しい存在思想としての可能性が現われてくるかも知れないと思われる。たとえば 親鸞
(つづく→[えんけいりぢおん](第十五章−F.ドルト/欲望の理論) - caguirofie041129)