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哲学いろいろ

第九章 ハイデガー

目次→2004-11-28 - caguirofie041128

[えんけいりぢおん](第八章−ツァラトゥストラ批判) - caguirofie041109よりのつづきです。)

第九章 少しくハイデガー

 少し堅苦しい――むしろ冗長なまでに堅苦しい――議論をとりあげておこうと思う。ハイデガーの《存在と時間》である。
 ニーチェとのかかわりで 初めに少し 次のような論考に触れておきたい。
 ハイデガーが 《いかなる哲学も挫折する。それは 哲学の概念に属する》と語ったことについて 《なぜであろうか》と問うてこれを明らかにする一つの論点に即してのみという形になるが 次のように論じられている。

 ハイデガーは《等しきものの永劫回帰》を主題とした一九三七年夏学期の講義で ほぼ次のような意味のことを述べている。つまり存在者(《わたし》と解せよ――引用者。以下同じ)の全体について一つの解釈を提出する哲学者は みずからの描き出すその世界のうちに おのれ自身(《存在者》=《わたし》なら当然)とその思想をも位置づけなければならないのであって 自分だけは別だということは許されない。哲学がおのれ自身による以外の基礎づけをもちえない(つまり 《経験思考から見て あるのは おのれの主観真実たる表現のみだ》ということ)は このゆえであるし 哲学にあって《立場からの自由》とか《無立場》ということのありえないのもこのゆえである。・・・
 (木田元ハイデガーの思想 (岩波新書)p.224 
ハイデガーニーチェ〈1〉美と永遠回帰 (平凡社ライブラリー) ニーチェ2 (平凡社ライブラリー))

決してこの研究論考を貶めるわけではない。わたしたちがこれまで述べてきた基調からいけば この それじたい妥当だと思われる一つの見方をも ここでただちに転回させておきたいと思う。
 (1) われわれは 存在の思想にかんしてその系譜の中で いま・ここなるわたし個人から 出発している。生物自然としての誕生だけではいけないと規範的にさえ語っている如くであるが そうとしても そのように語るのは この自然誕生としての人間生物たるわたしにほかならないし そこに その上 ほかの何ものかを 人間みずからの思考や努力の問題として 付け足してはいない。これが 一貫している。従って 《哲学》を立てるか否か これは 基本的にわれわれの与り知らないところである。
 (2) 従って また一つの難点であるかの如きものとして 《わたし》にかんする《存在》の問題は 表現の問題であるというとき しかもその表現の上では 《存在せしめる者》とわれわれ存在者との関係構造が出来上がるかに見えるということである。見えるのであるが しかもこれじたいも あくまで表現の問題としてのみ(また いま・ここなるわたしの主観真実としてのみ) 扱っているのであるから 哲学の如く 《存在》と《存在者》あるいは《現存在》などなどの区別を 初めの基本出発点にあって なしたりしない。

  • つまり 逆の例では ニーチェの《人間と超人》との二重性は 哲学の方面から 発するごとく思われる。
  • ということは さらに逆に言って もし表現の上でそのほうが主観真実に適合するということであれば いわば二次的・付随的に そのような《存在/存在者などなど》の二項なり三項なりの概念整理のもとに 思索することもありうるであろう。だが おそらく たとえば基本出発点とその持続過程と言って済ますとき そこでは いわゆる《本質存在=エッセンティア》と《事実存在=エクシステンティア》というような区別は どうでもよいと見るであろう。言い換えると 《経験領域がそれじたいで閉じられていず 非経験の領域へ開かれている》という表現じたいの問題のもとに それを確認することもあるであろう。

 従って もし第一義的に大前提として 《存在》(いわばこの場合 非経験のこと)と《存在者》(人間)とを区別して立てるなら その経験思考としての哲学にあっては どこまでも 概念とその思考の問題およびその構造のもとに すべてが 表現されて来ざるをえないものと思われる。――たしかに われわれの単純な存在思想においても その基本出発点を立てていることは たとえば《生物自然としての第一の誕生》と《ある日ある時における第二の誕生》とが同じように二項をなすものとして 含まれることにもなる。これにかんしては ここでは 個人が主観真実としてすでに生きていることから出発しており そのとき ほかに何ものをも付け加えていないということ あるいは言い換えるなら むしろ《第二の新たな自己生誕》の事件のあとのこととして すべてを語っているということ このようにして答えることができると思われる。
 われわれにとっては 自己還帰たる第二の新たな誕生が すべてなのである と第一の自然の誕生のもとにあるわたしが いま・ここで 語る――いわば これのみなのである。このとき 表現としては この新しい誕生を《与えられた》というふうに〔も〕語る。その限りでは 《存在せしめる者》を表現上引き合いに出してきて これと《われわれの自己存在》とが 表現構造の中では 二つの関係項をなしていることにもなる。だが ここには 哲学にありうる経験思考の対象となる概念とその思考操作などは なにもないと言える。わずかに 話し合いの過程では そのわたしの存在思想の説明のために このためには 一般に経験科学上の概念を用いることになる。説明のためには この概念思考をもおこなっている。すなわち このような概念を用いての思考をとおしての説明は 《第二の誕生》が成ったという時にこそ おこなわれることである。もちろん 他者だけにではなく そして第二の誕生に至る以前からも 自己自身に対しても 思索をおこない 説明をなすというのは 言うまでもない。
 (3) ただ ニーチェも 《力への意志》あるいは《等しきものの永劫回帰》という思想表現で 《超人》に付随していた自己存在の二重性・規範性あるいは哲学性を 克服しようとしたと言われる。いわば かんたんに言ってしまうならば われわれの自己に還帰した自己 そしてこれの無限の自乗という持続過程 このことが 《永劫回帰》などの表現で とらえられようとしたものかと思われることになる。
 よく解釈すれば かれは哲学から出発するかたちとなったと見られる限りで われわれの新しく誕生した自己・または誕生すべき自己 これへの《回帰》という見方と表現になったのみだとも考えられる。必ずしも哲学上の概念であるにとどまらず また目指すべき目標・理想像としてとらえるのではなく その《大地・大河たる自然生成力としての・またその意志としての〈超人〉》を この永劫回帰ないしいま自己還帰として ほとんどまったく同じ内容として とらえたと解することもできるのかも知れない。
 この場合には――やはりすでに触れたように――わずかに 《力ないし権力(自然生成力とか生命力の如く解せられるが)への意志》として なお規定するところに 二重構造・模範形態・また哲学性が かかわっているのではないかと考えられる。われわれには たとえば《哲学ないしそれを克服すること》は 初めから なかった。《権力への意志》の《第四編 訓育と育成》の《?? 永劫回帰》で 次のようにも語っている。

〔1059−3〕
 ・・・すべての価値の価値転換。・・・
 もはや《原因と結果》ではなくて 不断に創造的なもの。もはや保存の意志ではなくて 権力。もはや《すべてのものは主観的であるにすぎない》と謙虚に言うのではなくて 《これもまた私たちの作品!――私たちはこのことを誇ろう!》ということ。 
 (ニーチェ:権力への意志1059ニーチェ全集〈12〉権力への意志 上 (ちくま学芸文庫)ニーチェ全集〈13〉権力への意志 下 (ちくま学芸文庫) )

 このうち 《〈原因と結果〉ではなくて》という見解は われわれのものでもある。《誕生せる自己》は 経験領域での因果律をこえた《非経験》にかかわったと表現するのであるから。そしてわたしたちは この自己にとどまるのであろうと考える。とどまって 自乗していくぶんには これを 大地や大河とも言いあらわす自然生成の生命力と表現しても ほとんど同じことだとさえ考える。わずかな違いは この力への意志を 表現としてだけでも 持ち出すところである。これは 自乗としての持続過程(そこにおけるわたしの意志)と 同じものであるのかどうか。
 《誇るべき〈私たちの作品〉》とは 何を言うのであろうか。われわれなら 自乗を持続したところの自己の弱さの保持 これを 《作品》とも言うかもしれない。ニーチェのばあい 何を言うのであろう。われわれには 受容的な自己存在のほかに 誇るべきものは ない。

  • 具体的に細かいこととしては 闘い=話し合いの過程で その内容が進展したと見るなら これこれの一段階にまで到達したということにかんして その《ここまで来た》という感慨とある種の誇りが 伴うかもしれない。しかも げんみつには これは 誇るべき作品ではない。自己自身の無限の自乗が 問題なのだから。

 また この意味では 誕生を自己への還帰とはいうものの もはやそこには 実質的にいって 過去への回帰ないしその反復といった内容は ない。その意味では――どこまでも誕生せる自己にとどまる自乗としての―― 前進があるのみである。この自己は 関係性の世界においてつねにその現実の場と情況に直面している。そして 前進のみがあるとき この自己のおかれた情況を不可避のものとしてやはり受け容れ むしろそこに 自由に 自己拘束(いわゆるコミットメント・アンガージュマン)していく。したがってそれは いわば手ぶらなのであって 自然生成力たる超人であることのもとにでもなければ その力への意志にもとづき 誇るべき作品を創造するためにでもない。

  • むろん個々の具体的で社会的な行動に わたしの動機・意図・目標そして努力がなにもないということではない。

 こうして 超人としての存在思想とのあいだには かなり大きな現実の隔たりが生じるものと考えられる。わたしたちから見て一言でいえば ニーチェの思想は 哲学ないし経験思考一般〔に閉じこもる・または 反転してそのことを克服しようとする〕という一つの出発点が さいごまで尾を曳いているというように考えられる。
 もし仮に われわれの言う《誕生せる自己とその持続行為》すらも 広く一般に《力への意志》として行なわれるにすぎないと解釈されるとすれば その時にはもはや超人思想は 《この世の中は 成るようになる》と語ったことになる。それにすぎない。そして結果的には そこにおいて同じように《非経験/思考しうべからざる領域》に開かれたという姿を現わす。要するに 超人なり力への意志なりのことを 言っても言わなくても 変わりないということになろう。
 (4)《存在者の全体について一つの解釈を提出する哲学者》 このような姿で われわれは 生きていない。ということは いわゆる人生の旅の過程で 《わたしは生まれた》ととらえる出来事に ある日 出遭うということのみだと言ってよい。だとすれば 《みずからがこの世界を その解釈のなかで 描き出す》ことは――経験科学そのものの仕事としては別とすれば―― どうでもよいと考えられる。すなわち 《その解釈された世界のうちに おのれ自身とその思想をも位置づけなければならない》ということも 少なくとも出発点としては 無縁であるか あるいはその方向が逆である。
 それは 初めに 生物自然として誕生したからには生きているのであり すでに現実世界からその自己の立ち場を採って来ているのであり その時 新しい誕生に出あうというのみであるから もともと――言うとすれば―― おのれ自身を 解釈以前の現実世界に位置づけており そこで 誕生の思想が あくまで表現として 得られるのであり もし仮にこの思想表現が 一つの世界解釈の提出であるとしても そこで 自己還帰は すべて――動態的に―― いったん完了し またあらたに完了するという過程であるにすぎず そのあとさらにこの世界像の中に自己が自己をどう位置づけるかなどという問題は 自己存在にかんする限り 起こらない。哲学などとの闘い(話し合い)の場では 具体的に・そしてその哲学をも勉強しつつ 説明して見せなければならない その意味での 自己の位置づけは やはり表現として 生じ伴われるにしてもである。
 第二の誕生のあとは その基本出発点をも・あるいはそのような表現物さえ 意識せずに自己を うんうんと押して生きて来ており 生きていくのみであり そのとき 人から見れば たとえば絶えず永劫にその等しきものへ回帰しつづけているはずなのだよと言われたとしても はいそうですかとでも答えるほかない。わたしはわたしであり その《わたしはわたしである》ことを 一人ひとりの個人に当然のごとく認めるというのであれば あとは 表現上のちがいの問題に尽きる。それは 永劫回帰の哲学が 決して 先行してはいないという条件が 不可欠だということである。――もっとも そのあとの経験領域での思考と行動とには やはり上で考えられたような違いが 大きく生じるとは思われるのだが。また 経験世界での存在思想に限れば わざわざ《永劫》ということもなかろう。
 なお 信仰ということであれば 無限・永遠――無時間――については あくまで時間的に生起した《自己の誕生》の延長として かかわるというのみで 答えることとしよう。すなわち その意味では 《第二の誕生》がすべてなのである。

        *

 考えちがいをしていたと気づいたなら どうするか。そのときには 間違うなら我れありと言ってのように 訂正する。他人の思想表現(つまり詩篇イザヤ書新約聖書などなど)に接して 自らもそれを 仮にまちがって受け容れたのであるならば やはりそのまちがいに気づき その時には 欺かれるなら我れありと言ってのように 修正もしくは撤回する。まちがいに気づいた時こそ 真実の自己の新しい誕生なのである。
 逆に このような意味では このように過程する自己存在にかんしては わざわざ大きく何か一つの概念前提として 永劫回帰すべき《等しきもの》を立てる必要もない。試行錯誤を伴いつつの自己の持続の過程 これが 単一だと説明するのみである。どうしてもこれを なおその概念をおおいかぶせるようにして 《等しきもの》と言いたいというなら それはもはや哲学屋の仕事である。あなたはその《等しきもの》を見たのか と問い返しておけば すむことである。
 また 過去は過去だと知るべきである。これは 許されている。また 人間のちからによっても 許し合われていく。 
 《過去》の問題が出たところで 次に《存在と時間》である。
 結局この《時間》というのは 自己の持続過程ということ そして特に 現実世界の中での闘い(話し合い)のことである。表現行為じたい たとえばヒョウゲンと発音するとき そのヒョ・ウ・ゲ・ンと音節ごとに明らかに 時間が過程しているということだ。すなわち 存在問題は 表現の問題であり これは実際上 時間の問題である。表現というからには わずかにそこに 非経験(無時間)と経験(時間)との関係構造が 現われている。ここから哲学は わざわざ概念整理して 《存在と存在者》ないし《本質と現象》などなどをそれぞれ区別する前提を導いたり それのもとに思索を展開したりする。それは あらゆる可能性を考えようとするのであろう。その必要・有益性を受け容れた上で言うとすれば すべての思索・すべての判断材料を提出したあとでこそ わたしがわたしであることが 正しい選択のもとに 可能になるとは 限らない。そして それよりも わたしたちが生きていることは 時間の問題でもあるというのに あらゆる可能性の探求をどうしても優先させなければならないとすれば それはむしろ 自分勝手に 自己の生きた時間を そのあいだ とめていることでもある。・・・
 哲学ないし哲学の克服という論点では この種の議論がなおつづくものと思われる。この点 もう少し次の章をあてたいと思う。
(つづく→[えんけいりぢおん](第十章−《存在と時間》) - caguirofie041120)