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哲学いろいろ

サルトルと《神と人間》

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存在と無 上巻
存在と無 下巻
おとなり日記http://d.hatena.ne.jp/odat/20041026041026の中に 次のようなサルトルからの引用文を含む議論を見つけました。

そして 彼(J.-P. SARTRE)は この著書(《存在と無》)をこのように締めくくる。

あらゆる人間存在は 彼が存在を根拠付けるために また同時に それ自身の根拠であることによって偶然性から免れているような即自 すなわち 宗教では神と名づけられている自己原因者を 構成するために あえて自己を失うことを企てるという点で 一つの受難である。
それゆえ 人間の受難は キリストの受難の逆である。なぜなら 人間は神を生まれさせるために 人間としての限りでは自己を失うからである。
けれども 神の観念は矛盾している。われわれはむなしく自己を失う。
人間は 一つの無益な受難である。

解説者として解説すれば
この振る舞いはヘーゲルにたてついたキルケゴールのそれである。

id:odatさんのこの日の日記・つまり上の引用部分を含む全体の文章については いまの時点では 触れないこととします。一つには わたしが サルトルのこの著書にかんして十分な用意がないからですが いま一つには id:odatさんの議論が 必ずしも一般の読者に向けて表現されているわけではなく 別様に作成する論文のための草稿・覚書として書かれていると思われるからです。
 それでも 上に引用した一節(もしくは サルトルのひとくだりの文章)は 独立して 議論の対象になると思われます。
 とは言っても 現在の時点で それほど大きな議論を始めようとも思いません。《存在論》として重要なテーマですし またいづれid:odatさんの言説についても 考えさせていただくという心づもりとして きょうの日記に載せることを決めました。
 次の二点を覚書しておこうと思います。

  1. たしかに 《超経験(X) もしくは その無(non-X)》*1との関係を余儀なくされているわたしたち人間は――有限なる存在として その絶対(X=non-X)にあい対しているからには―― 自らの《存在の根拠を求めて》なんらかのかたちで 《あえて自己を失うことを企てるという点で 一つの受難》を経験せざるを得ないと考えられること。
    • わたしたちの存在が社会生活をおくるためには その倫理や法律が 最終的に 《絶対》によって裏打ちされているという了解が必要である。それゆえにこそ わたしたちは良心的になって倫理を考え 法律を守ろうとする。少なくとも 表向きには そのような姿勢と態度をとるのが 一般となる。
    • さもなければ 確かに 法律などは 罰則の規定にひっかからなければよいと考えるであろうし 違反行為があっても ただちに法律条文の解釈を変えさせればよいという人間が 圧倒的に多くなるであろう。
    • 従って この時もし 自分ひとりにとって法律遵守がそれほど大変な努力が要ることではないとした場合にも 一部に違反者が出れば その違反行為に対して どう対処するかは かなり大変な問題である場合が多いと思われるからです。単純に言って その場合に 被害者となってしまうなら それは文字通りに 受難となる。しかも この第一次の受難のあと その受難の解決・清算のためにも あたかも《自己を失う》というかのようにあくまで法律に従って 対処しなければならないからです。これを 人間は経験せざるを得ないはずです。
  2. とは言っても サルトルが 《神の観念は矛盾している》と述べたことは 矛盾しているのであって 上の(1)の《受難》は 決して《無益・無駄》であるとは考えられないということ。
    • 超経験Xなる《神》が もし《観念》であるならば それは 神ではない。そうではなく ほんとうに絶対なる神が 存在や社会倫理の根拠に想定されるということは わたしたちが そのことを考えて こしらえたものではないことを意味する。だれもが 納得せざるを得ないことがらであって 多少とも それを信じているのである。ただ考え想像した結果のものなどではないからこそ 信じているのであって やむを得ず何らかの受難を経験しても わたしたちはこれを耐える道を選ぶ。
    • わたしたちの存在の根拠を求めて 神を《観念》として設定したというのであれば それは 《むなしい》。法律や倫理の根拠を 人間の考えた観念に求めたのであれば もはや わたしたちは多少でも 良心的になるということもないのであって 上手に賢く法律をかいくぐることのみを考える人間のみの社会となるはずである。
    • 故に わたしたちは 自己のこころの安易な傾きに逆らって・また正直な感情を時には抑えてでも 多少とも自己を失う受難を経験せざるを得ないと考えられるとき この受難は しかしながら むなしいものではなく 無益だと片付けうるとは思っていない。むろん 残念ながら 被害の部分は残る。したがって この被害や受難に対するわたしたち〔自身〕の共同の自治というものが 必要である。 

不一   
(photo=TORAJA)

*1:《超経験》を表わす記号としての X については[愛]世界は愛に包まれているか(理論編) - caguirofie040914を参照。