悪の問題
難しい問題ですが 批評・批判をいただきつつ 少しづつでも 考えを深めていければよいかと思います。
関連記事もくじ→2005-05-07 - caguirofie050507
(1)悪とは何か。
ひとつの定義として
- 存在を否定することは悪であり 存在が自らを表現すること(意思表示の機会)を否定し 〔その意思表示された内容を〕無視することは悪である。
もしこの定義に従うならば
- 存在が善であり 存在を維持することも善である。
となる。要するに
- 生命が善であり 生きることが善であり よく生きることも善である。
と考えられます。
- 《よく生きる》の《よく》とは 初めの定義に基づけば 《表現の自由》を意味します。自他ともに《意思表示の機会を奪わず 確保する》また《表示された意思内容について 互いに 応答責任*1を果たす》ということ。
基本の内容として また一例として このように定義してみました。
そうしますと 西欧の伝統として示される定義に これは相当しているかと思います。
- 悪とは 善の欠如である。存在するものは 善〔のみ〕であり 悪は実際には存在していない。善の欠如なる現象として 悪は起き 起こされる。
従って たとえば
- 表現の自由という命題を知らない場合・または知っていてその命題に違反する場合
これは
- 人間が社会的な独立存在として生きるという善が 欠如している状態であり その欠如状態から意志が示され行動に表わされた事態
だろうと考えます。この状態と事態とは 悪であると言えると思います。
最も基底にあることは
- 存在とその意志に対する差別・排除および抹殺
であろうと思われます。従って おそらく この根底の悪に関して対処するという限りにおいては 表現の自由を行使することは それがプライヴァシという自由を侵害するという恐れのある場合にも 許されるかも知れない。
実際の具体的なことがらは また細かい点があろうかと思いますが いまこの定義に立つならば 今度は次のような問題が起き上がると思われます。
- 利己心・利他心という場合 それらは悪といかに関わるか。
- 存在・生命・生きるという善は 人間の自由意志によってまっとうすることができるか。
- 言い換えれば 人はその自由意志によって 善の欠如という悪に対抗し打ち勝つことができるか。
- ことを成し遂げることの出来るのは 経験しうべからざる絶対(X)の愛(X)に依拠しなければ 適わないと考えた([愛]自由意志ということ - caguirofie)のだけれども そのあたりの事情を どのように説明するか。
- 悪をおこなうのは 人間の自由意志によるものか。
- 善をおこなうことは 絶対(X)なる恩恵(X)によって わたしたち人間の自由意志が建てられたとき 適うと考えられるが 悪は〔存在しないとは言っても それが現象するという場合〕 自由意志やまた絶対の愛(X)とは いかなる関係にあるのか。
(未完)
*1:欧文《responsibility》自体が 《応答〔to respond〕しうるということ》ですが。