ディアレクティーク
弁証法には ふたつの論点あり
1. 初めの初めとしてのテーゼは あるのか?
2. ない場合には テーゼは すでにかつてはアンチテーゼだったものである。
〔だから アンチテーゼは 大きく構えて見るなら ふるいアンチテーゼに対するアンチテーゼたりうる。つまりむしろ ジンテーゼたりうる〕。
テーゼも 昔は アンチテーゼだった。(2)の場合。
○ テーゼA←―アンチテーゼ
これの中身は 次のごとくでありうる。
○ テーゼA⇒ 古くなる。定説化して権威を帯びる。
あたかも あたらしい思想に対して抵抗しさらには抑圧するかたちになりうる。
よって
○ テーゼA≒〔部分的に〕アンチテーゼ←―アンチテーゼ
となる。この《アンチテーゼ〔と部分的になったテーゼA〕に対抗するアンチテーゼ》は 部分的なアンチテーゼにとどまる場合とそしてむしろテーゼAがもともとその基礎とした大きなテーゼに同じくもとづこうとしたところのむしろジンテーゼを表わしていることがある。
そういう意味では
○ テーゼA・・・・⇒ふるくなったテーゼA←―テーゼB=つまりかつての良きテーゼA・・・・⇒ふるくなったテーゼB←―テーゼC
といったかたちに見られ得る。ということは 論点(1)に行き着く。
初めなる変わり得ざるテーゼはあり得るか?
たぶん――結論を急ぐなら―― 人間の自然本性としては 《変わり得るよき身と心との一体なるすがた》があったと想定されるのではないか。
そして しかもこれが《よき姿・よき状態》であると言えるのは――言えるとするのなら―― それは 経験思考を超えたところの問題となる。
つまりは アートマン=霊我の次元の問題である。
アートマンとけっきょく同じものと考えられるブッダター(仏性)が 言わば潜在的なチカラとしていま述べた《移ろいゆき変わり得る自然本性》をささえている。と想定されるところから たとえば《われに還る》というときの《初めのテーゼとしてのわれ》が 無根拠において人びとの心におさめられている。ように考えられる。
すなわち その変わり得るがゆえにつねに元のわれに立ち還ることができるところのテーゼとしてのわれ これは 数として一で表わされる。
したがって
《わたしはわたしである》: 1=1
《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》: 1x1=1
《わたしは つねにわたしに立ち還る》:1x1x・・・・x1=1
すなわち 《わたし》なるテーゼは 自然本性の動態として 1^n=1 なる存在である。つねに一なるわれの自乗過程を通って生きるところの 一のベキ(冪)としてある。
これは コギト・エルゴ・スムでは必ずしもなく シ・ファロール・スム( Si fallor, sum.われあやまつならわれあり)という命題であると考えられる。(アウグスティヌス)。
人としてではなく 社会としての《初めの状態》は
基礎とするべきこととしては無いと考えるんでしょうかねぇ。
われがわれである人どうしの共生 せいぜいこういう状態でしょうか。
k_jinen
http://soudan1.biglobe.ne.jp/profile/answer/history/u1341098.html#tabs
医療技術士関係。
やり取りの例:
【Q:KY とは 草の根民主制への第一歩ではないか。】
http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7775052.html