caguirofie

哲学いろいろ

#4

もくじ:2010-09-17 - caguirofie100917
2010-09-29 - caguirofie100929よりのつづき)


 (A)から(B)への過程において 短歌の象徴主義を排するに至る考え方を 大岡は次のように述べている。 


    * これを なお明らかにしておくことは たとえば桑原武夫の《第二芸
     術論》の焼き直しにのみは終わらないと言えるだろう。


 短歌のアマテラシスムの立ち場が 赤彦の経験の示すように 《一向に面白おかしくない》作品に行き着くであろうとして明らかに大岡がそれを捨てた理由は 次の点である。すなわち 結論だけを取り上げるなら 大岡は 赤彦の――円熟しきったと言われる晩年の赤彦の――歌を掲げながら そこには

   万葉詩人たちのあの大らかさ・それこそ物心相触れた状態の所産であるあれ
  ら血肉の感に満ちた力強さ

がないと断言することによってである。(この点 桑原の所論と内容を異にすると思われる)。つまり 別の表現においては (A)の第一段階の次元からのみ見た場合の そこに獲ち得られた象徴主義の美学も 倫理学と相通じ同じ次元のものとなってしまっては 赤彦の例のように

   古今集以後の勅撰集において堕落の主要素のひとつだとして 軽薄な主観語
  の使用などを警戒し 抑圧するあの歌の柄が 総体に萎縮してしまう

からだと言う。(この点は 桑原説に通じる)。
 ここで もう少し この倫理と没倫理――言いかえると あたかも互いの《突き合い》とそして《ただくっ付き合うという意味での 付き合い》―― この両義性の問題について見ておくならば 大岡は 赤彦について次の文章を引いて 赤彦のは 《被抑圧者の論理》でありそこでは 《対立的観念の解消》した《〈堕順〉の心》しか成立し得ないと説く。


  (つづく→2010-10-01 - caguirofie101001)