caguirofie

哲学いろいろ

#1

もくじ
#1:本日
#2:2010-09-18 - caguirofie100918
#3:2010-09-19 - caguirofie100919
#4:2010-09-20 - caguirofie100920
#5:2010-09-21 - caguirofie100921
#6:2010-09-22 - caguirofie100922
#7:2010-09-23 - caguirofie100923
#8:2010-09-24 - caguirofie100924
#9:2010-09-25 - caguirofie100925
#10:2010-09-26 - caguirofie100926

両義性の分かれ道

もくじ
#1:2010-09-27 - caguirofie100927
#2:2010-09-28 - caguirofie100928
#3:2010-09-29 - caguirofie100929
#4:2010-09-30 - caguirofie100930
#5:2010-10-01 - caguirofie101001
#6:2010-10-02 - caguirofie101002
#7:caguirofie101003
#8:2010-10-04 - caguirofie101004
#9:2010-10-05 - caguirofie101005
#10:2010-10-06 - caguirofie101006
#11:2010-10-07 - caguirofie101007
#12:2010-10-08 - caguirofie101008
#13:2010-10-09 - caguirofie101009
#14:2010-10-10 - caguirofie101010
#15:2010-10-11 - caguirofie101011
#16:2010-10-12 - caguirofie101012
#17:2010-10-13 - caguirofie101013
#18:2010-10-14 - caguirofie101014

  *


 あいまいさとは
 西洋人の考えでは

  その周囲をうろつくことだ
  そのものに直接あたらない
  ひいて 両義性 多義性を意味する

  ちなみに 曖も昧も 暗いことだ

  *

 大岡信が かれを含めて《第三期の詩人》たちについて 曖昧さが見られるというとき 決して 東洋の漢民族の意味するところで あいまいなのではない。

 何に明るいのか。もちろん自分たちのあいまいであることに明るいということがその中心だなどと茶化すつもりはない。(茶化してもいいのだが)。或る自分を見るとき つねにと言っていいほど もう一方に 別の自分を置いている。だからである。
(つづく→2010-09-18 - caguirofie100918)

纒向遺跡に桃の種2千個

…3世紀、祭祀に使用?

読売新聞 09月17日21時51分

 邪馬台国の有力候補地とされる奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、3世紀中頃の穴から桃の種約2000個や竹製のかご6点が出土したと、市教委が17日発表した。

 桃の種が1か所でこれほど大量に見つかる例はないという。桃は、古代の中国や日本で不老長寿などの効果があると信じられ、祭祀(さいし)に使われたとみられる。

 桃の種は、昨年11月に出土し、邪馬台国の宮殿の可能性もあるとされた大型建物跡から約5メートル南の穴(南北4・3メートル、東西2・2メートル、深さ0・8メートル)で見つかった。大型建物を区画する柵跡を壊しており、建物の廃絶後に掘られたらしい。当時の桃はピンポン球ほどで、果肉が残ったものや未成熟のものもあることから、食用ではなく、かごなどに入れて供えたとみられる。

愛は おそれを知らない。・・・

愛は おそれを知らない。愛のあるところに おそれはない。しかも 相手に自分勝手な欲求をぶっつけているだけではないだろうかという清らかな不安を感じ 相手に対する単なるおしつけの愛になってはいないだろうかという清らかなおそれを つねに 持っている。

ここまでが 人間能力としての理性のできることである。この領域を超えては みこころのままにという祈りになる。

きよらかなおそれは あなたに 決してくじけない弱さを与える。崇高なしなやかさを身につけさせる。