caguirofie

哲学いろいろ

#61

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§13 M.パンゲ《自死の日本史》 b

§13−2

自死は有効でありうるかの基本の問い》に対する《第一答としての否》 これにかんするパンゲの説明は いま一つもの足りない。

キリスト教による自殺の断罪(* つまり《否という第一答》)は まづ五世紀に聖アウグスティヌスによって完成され・・・るようになるのだが その基本のところには 主権者たる神という仏教にはまったく存在しない観念が横たわっている。

  • 《神》が《観念》ではないと言っておかねばならない。たとえば 出発点の同感人の同感行為は 信仰をとおして 神とのつながりにおいても 判断されるわけだが これは 観念ではない。また 神は 精神ではない。精神であったなら それは 人間の能力である。人間を超えない。神との関係としての信仰が 横たわっていると言いたいのであろう。

そのような神は生と死の唯一の支配者なのであり 人間が神の行なう正義に絶望することは許されないのだ。こうして以後 人は・・・死ぬことの勇気を臆病と名づけ 生きて耐える勇気の前にそれを貶めるようになる。・・・自殺することは 人間にではなく主なる神にのみ属する至上の権利を――あるいはむしろその権利を委譲されて死刑を執行する正当な権力者の権利を 犯すことを意味する。・・・例外的なケース(* 《諾の第二答》)を除けば 《意志的な死》は主権者がその臣下に対してもっている権利を奪う行為であり 主権者を侮辱する行為なのだ。
(第八章)

この議論を聞いていると 戦前までの日本では 否と諾との二つの解答を入れ替えて 意志的な死が したがって 社会的に迎え入れられていたようなところがあるなどとも 感じられるが これは措くとしても いくつかの論点がある。

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