caguirofie

哲学いろいろ

福士選手

ブログのいくつかを眺めてみると 推測で八割ほどが 感動したという感想である。(大阪国際女子マラソン)。
なんで????
せめて まだ若いのだから 今後に期待するくらいの軟らかい小言を言ってやるのが 愛ってものではないか。
練習の少なさは 問題ではないだろう。本人がそう決めたのだから。
けれども せいぜい ハーフまでで 二時間八分くらいで突っ走って その後失速したのなら ああ惜しかったなぁという気持ちになるが けっきょく ふつうの選手だったということなのだから そのことを まづ言わなければおかしいと思う。
もし その話しっぷりの気持ちわるさを持ち出すなら そのくらいでは済まないのだから。

#42

全体のもくじ→2004-12-07 - caguirofie041207

第二部 踏み出しの地点

§11−1(つづき)

このように思想の出発点を問うて図式的に整理したものは 現代では――上に見る第(2)段階にあるとするなら―― じっさいには解明されており まさに どう実践しているかが 問われなければならないのだが われわれはあえて ここに 滞留している。これを確認しつつ つまりあるいは この確認じたいをも自由に争いつつ 現代においても進んでいってよいと思われる。
で こういった構図に対して なおも整理しつつ進もうというわけだが まづ 一つの行き方として アメノミナカヌシ理論による説明の行き方をとる場合には 思弁的に言って 同感人が異感人になるというのは はじめの背感によるとされる。原罪。はじめの 虚偽となるうそ。または 《はじめの暴力 violence fondatrice / 基礎づくりの殺害 meurtre fondatrice 》。ジラールはまた 《模倣 mimésis ・模倣する欲望 désir memétique 》といった心理要因でも捉えており ちょうどドゥルーズガタリとに重なるかのように この心理欲望が ありがたいものとされ それが 同感人・隣人となろうとする精神や意志なのだと見なされるという分析としても 語られた。異感人の状態にある人も 自己がそして人間が 同感人であることを知っていて ただしわづかに その知解の実践を〔二重の出発点のようにして〕 自己の外に求めてのごとく 人を真似る そうすれば和解する同感人・隣人でいられるであろうと考えるというのである。

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