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哲学いろいろ

城島明彦:恐怖がたり42夜―携帯サイトの怖い話 (扶桑社文庫) 

もくじ→2004-12-29 - caguirofie041229

ゾクゾクッ ゾクゾクッ うぅーんと考えたりする。

 
HPでの発表の頃から読んでいたが 今回 さらに多くの話も加わった。

ショートショートの作品集である。話の進行から言って長くする必要があれば それに応じて じっくりと物語られているものもある。

最初に掌編小説と言っていたときの作品は もちろん こわーい要素もあるが 何故か読み終わったあと考えさせられた。なぜ 不幸なことになったかなど。悪いことをした者でも その主人公に感情移入さえしていた。なかなか 面白い話がつらなっている。

それに比べると 新しい作品群は 怖さの要素が徹底されていると思った。作り話なのに どうしてこんなにゾクッとするのか。夏にはもってこい。ただし 物語としては わたしは 最初の作品群のほうが 断然 いい。ほのかなあたたかささえ感じられる。

そんな小説集である。恐怖ということで 42夜ぶんそろっている。

#91

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第七章 理論としてのキリスト史観(3――前提をさらに理論化したものを さらに愛する 言いかえると 愛からの理論)

第六節b まとめ――蝶はもはや蛹の時代を思わなくなるであろう――

新しい主観共同化の形式は 一定の共同主観をその時代の典型的な内省=行為形式とはしない形式である。デモクラシという一定の共同主観が 基調として趨勢であるという一時代のような時代ではない。これは人間の行為として 精神・記憶・その精神の秩序・その社会的な組織の原理として 観想され生起することである。(デモクラシが古いということではない)。キャピタリスムという一定の共同主観が 支配的な基調であるという一時代のような時代ではない。これは 人間の行為の中の 知解行為・知性・これによる生産行為ないし経済学の原理として 観想され生起することである。新しい時代は これらデモクラシとキャピタリスムのそれぞれ行為原理を内に容れて むしろ中軸として 共同主観が一定の理論としては固定的ではないことを基調とするような形式と時代である。

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