caguirofie

哲学いろいろ

#51

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第六節b 史観は共同主観であるということ

ですから 唯物史観は 後者すなわち 《木や草やわらで建てる者〔として 火をくぐって来た者のように すくわれること〕》の主観を 否定するようにして 放棄したのです。
ですから 前者すなわち《〔火によって吟味され その仕事が焼けずに残ると言われる〕金や銀や宝石で建てた者》の主観はこれを 将来の(まさに来るべき)・未来の(いまだ来ざる)或る時点としてかれらが勝手に考える《あの裁きの日》に置いたのです。つねに そう置いているのです。しかし この《あの裁きの日》が キリストが死から 聖徒たちに 復活したまうたことによってのごとく まさにこの《火》とともに いま・または この現実に《この人生(だから主観)の期間内に果た》されないとことはありえないのです。というのは あたかもキリストの復活が使徒たちの人生の終わりに・もしくは かれらのその死後に 成ったのではないようにです。これが 人生であり 主観であり 時間であり 時間的な存在であり いのちであり 生命であり 共同主観であり 史観なのです。

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