caguirofie

哲学いろいろ

#49

もくじ→2005-05-13 - caguirofie050513

第二部 唯物史観への批判

第二章 史観が共同主観であるということ

第五節b 概念としての言葉に対する共同主観

まづ語義としては ギリシャ語《 Kuriakon 》とは 《主〔の家〕〕という意味であり 《 ecclesia 》とは 《召集された〔民会〕》という意味です。後者の《民会》は 都市国家の中において 必ずしも明確な一民族全体から成るナシオナリスムとしての《A圏‐S圏》連関体制を想定しなくともよく むしろ《S圏(ヤシロ)》の自治態勢(都市)としての共同自治の全体(または 代表)会議としてよいと思われます。
ですから 現代の情況から言えば 諸自治態勢の連合と諸生産態勢の連関から成る(インタムライスム=インタキャピタリスムの基盤である)《ヤシロ(S圏)》を この《市民会議 ecclesia )》の語をもってあててよいのではないか。これが 共同観念を担わないわけではなく むしろその社会的な基礎でもあると考えるのですから これは 回りまわって 《主の家》である《キュリアコン Kuriakon 》=《やしろ Yasiro 》の 第一次領域としてよいのではないか。この意味での 概念的な対応をここで設定しておきたいと思うのです。

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