caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考(つづき・その5)

2006-12-07 - caguirofie061207よりのつづきです。

ユダは裏切ったのかという問い返しから(つづき)
intermezzo

もう一つ 言い残していたこと。
申し訳ないけれど このもう一点のほうを失念してしまった。いま どうしても思い出せない。(困ったことだ。)
いま議論は 次の叙述に来た段階で 前提事項の但し書きを 幕間の話として述べていたところだった。

いや 断じて ユダは ほかのペテロらのような腰抜けの弟子ではなく 信念の人でもあり それどころか イエスによって ただ一人 その真意を理解する者として遇されていたという方向が現われたものと推し測ることができる。この推測は 不自然でも 無理やりのものでもないであろう。

但し書きとしてのもう一点は 思い出すまで 待って 次の議論へすすむこととしよう。

ユダのこころの物語

すぐ上に再掲した叙述は 次の事情にしたがって 推察したものである。

おそらく わたしの感覚では 一同の会した食事の席上 あのように明確に《おまえは裏切り者だ》と指摘されたのなら わたしなら 怯えあがってしまうと思われる。ばれていたのか!と。そして こころが錆びついてしまう。わびしくなって わびるであろう。

ところが ユダは それでも 前々からの計画を実行したのである。

こころが錆びつき わびしくなるのではなく 前々からの信念だか計画だかを 続行した。そのゆえに ユダに味方する人びとが現われたのではないか こういう情況である。そのユダに明かされたイエスの秘義は 必ずしも はっきりしないのだから いまは ユダの《信念の強さと勇敢さ》が讃えられたという恰好である。

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#13

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

補遺a

このとき――インタスサノヲ価格の実際のとき―― 規範(道徳)として挙げるなら むさぼるなかれ・盗むなかれが なお 有効であるだろうが これを 経済学的な《はじめ》としているのではない。また しては ならない。
規範をはじめとしていると 価格という指標 これにもとづく所有が 主観を離れてのように 交通整理の第一の主体となる。おかしな言い方だが そうなる。
基体スサノヲ要因の発展のためにと言って 単独分立したアマテラス価格の再生産へ 自己を 鋳型取っていく。客観認識が 主観とされて これは 価格指標(その所有)が 交通整理の中心となる。そして このときは 必ずしも――言ってみればヨーロッパ社会におけるような 個人的なものではないとすると―― 主観関係そのものとしての 価格の再生産のことである。

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