caguirofie

哲学いろいろ

イスカリオテのユダ小考(つづき)

2006-12-04 - caguirofie061204よりのつづきです。

イスカリオテのユダのちいさな物語

だから まったく別の角度から かんたんな虚構の物語をえがいて ユダの人となりを あきらかにしてみたい。そういう手法をとりたいと思う。

なお前提事項の再整理を

本論のユダ物語を もう少し待って欲しい。前提となることがらを やはりさらに整理しておくのがよい。

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った

正統派カトリックおよびプロテスタンティスムの側から 《人の子(つまりイエス)は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く》とイエスが言ったというとき それは 裏切りかどうか あるいは 十字架上の受難かどうかを 別にしても 要するにこの世から《去っていく》ということが言われている。だから その去り方の実現のために 仮りにでも《ユダの寝返ってのイエス引き渡し》が 必要であったとする見方が 出来ないこともないと言えそうである。
たとえば 最後の晩餐の席上で 裏切りをイエスが予告するように指摘する場面を 今度は ヨハネなる聖書記者は 次のように記している。

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#10

もくじ→2006-11-26 - caguirofie061126

《インタスサノヲ価格》の実際c

このプレ・スサノヲ的な判断形式は 或る種の〔精神または悪しき精神の〕インパクトを受けると 《もっぱらのアマテラス要因》として 作用する。価値創造の過程=主観内容の充足過程を 主観とは 切り離してしまっているからであり さらにその上で 事が起きるからである。このとき 単独分立するアマテラス価格が 決定される。
要するに 価格を――つまり人格の経済的な交通の側面を―― 主観がではあるが その主観は ただ《もっぱらのアマテラス判断形式》で 意思決定する。これは 《発展》を求めたものであるにもかかわらず 基体スサノヲ価値の発展であるかどうかを内に省みることなく まず 単独分立する利潤を追い求めるという判断形式である。つまり そのあとに 主観内容の充足が実現されると 今度は 内省しているのでもある。単独分立する利潤の増殖が 人間的な発展だと考えられていく。

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