caguirofie

哲学いろいろ

#11

――源氏物語に寄せて または 観念の資本について――
もくじ→2006-07-08 - caguirofie060708

章一 《光源氏‐空蝉》なる対関係――ナルキッサ空蝉批判――

さらに これらのことは 同じような意味あいになるが 次のようにも解される。

われわれは 市民社会学の始点を ナルキッサの社会的解放という命題のうちに持ち ここまで述べてきたとするなら おそらく 次の一論点に移りつつあるというべきである。
空蝉においては かのじょが すでに伊予の介(常陸の介)との婚姻関係にあるとするなら この現代にも通じる一夫一婦の対関係およびその共同体関係としての制度によって 必ずしも社会的に解放されたと見ないのであるが ひとまず ここで同時に 次の課題として この一夫一婦方式 または 対関係の唯一性形式という理念の問題にとぶことになろう。
ただちにこの点 輪郭を象ろうとするならば 源氏においては それを 《限りなう心をつくし聞ゆる人》である藤壺にではなく また かのじょに《いとよう似奉れる》――じっさい 藤壺の姪である――紫の上との対関係にでもなく この章一の継承としては 帚木以下の三巻のセットとして同じ体系の中に登場する夕顔との関係において 先に見出し考察しておくのが よいと思われる。章二は 夕顔論である。

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