caguirofie

哲学いろいろ

toujours la fémininité  

谷泰&D.H.Lawrence論の補遺(bragelone )

人間イエスについて誤解があるという重大な論点を言い忘れていました。

《欲望を抑える》という問題は 寅さん(bodhisattva)にはないということ

次のような《欲望を抑える不自然な人間的生の追求》はありえないという事柄です。

・・・雌鳥を追いかける・・・まさにその雄鶏の姿は 性の いや生の旺溢の象徴であり イエスはその姿を眺めつつ 自分がいかに不自然な理想を追い求めてきたか という感慨におちいる。それは一見欲望を抑えた崇高な生であったかにみえつつ しかしいかにも不自然な人間的生の追求ではなかったか。こういう自分の生への反省

性関係をめぐる基本原則

愛・結婚はもちろん 性愛も 基本的に両性の関係の問題だという原則です。
すべて自由な男の意志 すべて自由な女の意志 すべて自由な二人の意志の同意*1 これらの自由な選択の問題だと考えます。
この基本原則以外には むしろ原則はないという考え方です。

そのこころは なにか。

極端な事例をとりあげるとよいかも知れません。
強姦が 基本原則のもとに〔捉えられるかたちに〕あるという考え方です。
二つの場合に分かれます。
(1)不可抗力であった場合。このときには 蚊が刺したという事態があったということ そのほかには何もなかったという現実認識です。(犯罪者を人間と見なさないという意味です。)存在じたいは とらえておかないといけないという考え方です。
(2)それ以外の場合。このときには いかに残酷な見方になろうとも 二人の合意があったと見做すことになると認識します。
ですから 一方で 欲望の氾濫という事態も (1)の場合のように 無効と見做されるなら 現実の事態ではないですし 他方で 欲望の抑制ということも この基本原則のもとには 何らないという結論です。

むすび

聖と俗 この見方は起こりません。
《欲望を抑えた崇高な生》なる聖の観念 それが不自然ではないかという反省 あるいは 自然の追求の過剰なる俗の観念 これらは まぼろしです。
(聖などの観念につながることのない日常生活の上での節制――あるいは 逆に 浪費など――は 別の問題となります。)
以上 自由意志どうしの関係だという原則でした。

《トマスおよびピリポによる福音書》でのイエスマグダラのマリアとの《伴侶》関係は 《肉体的なものではなく・・・》という見解だったこと( bragelone )

これらの福音書外典――思想として《グノーシス主義》と呼ばれる――の研究者・荒井献によると――と谷泰は書いている――

接吻を媒介とした主(イエス)とマグダラのマリアの関係に グノーシス主義者が

肉体的なものではなく清いまじわりと それによる霊的子孫の増殖との元型を見出したことは確実である。
(荒井献:原始キリスト教とグノーシス主義) 

と。
もちろんこれらの福音書の語り口は 象徴的であり 《新婦の部屋》の記述(省略)は 秘儀のなかでのできごと( sic )記述であって われわれが考えるような現実的性の交わりとは区別されねばならない。
ただそれにしてもここで問題とすべきは むしろ象徴的にせよ 男性原理(アニムス)とともに女性原理(アニマ)が対等の対(つい)として語られていることであり マグダラのマリアによって象徴される女性原理を イエスの対 そして伴侶として示していることである。
(谷泰:キリスト教とヨーロッパ精神――とりわけ女性的性をめぐって―― 民族の世界史 (8) ヨーロッパ文明の原型

  • 他の方のブログを不用意に引用してはいけないと悟りました。

このあと谷は しかしながら この女性原理は 神学としての三位一体論とは別ものだという公式見解が出されてからは やはり低く見られ ともすると抑えつけられたと見る。そのとき 一方で 神学の問題としては あくまで女性原理とは別だとする――性の存在しない領域としての――三位一体論が妥当だと捉えられるが 他方では この神学によると 一夫一婦制に帰着するのも実際だと あらためて議論を展開する。

  • 《世俗的要請への最大限の譲歩として キリスト教は一夫一婦の性的結合を認めた》(M.ウェーバー)が引かれている。

《性的交わりに最大限の譲歩として 子を産むという生物的機能は認めても それ以上の性愛的な性欲は肯定されえない》うんぬんと続く。大雑把にいえば この或る種の抑圧に対抗して とうぜんのごとく多くの動きがあったし 時代を飛んで D.H.ローレンスに《死んだ男》の現実における性的な交わりを書かせたのも この《抑えつけられたアニマ》の反動であるだろうと。
《近代ヨーロッパ精神史を考えるとき いくら世俗化したとはいえ なおキリスト教を無視して考えることはできない》そうだ。
ところで 谷は すでに評論の初めに 問題提起の中で いまの問題は ロラン・バルトの文章を引合いに出して 《意味の問題》だと指摘している。

西欧では性欲はごくわずかに違反の言語活動にしか適していません。しかし性欲を違反の場とすることは 依然として それをある二項対立(賛 / 否)のある範列のある意味のとりこにしておくことです。
性欲を闇黒大陸と考えることはなお それを意味(白 / 黒)に従わせることです。性欲の疎外は 意味によって 意味の疎外と同質的に結びつきます。
むずかしいのは 多かれ少なかれ 絶対自由主義的企図に従って 性欲を解放することではなく 意味としての違反をも含めて とにかく意味から自由にしてやることです。
ロラン・バルト:逸脱 in 物語の構造分析 1979)

これはロラン・バルトが 東洋というものを意識しつつ 日本で行なった講演のなかの一文である。
西欧が 性欲を意味(白 / 黒)に従わせているという指摘は 性欲というものについての価値的弁別を意識し そこに賛否の徴しを付すということといいかえてもよい。・・・弁別的意味づけから自由になったとき 疎外も解放の要求もない。バルトのこのような主張のうちには 性欲の解放に賛意を表するか それをなお抑えるべきとするか その立場の差はあれ 西欧が明らかに性欲について意識のとりこになっているという自覚がある。・・・
(谷泰:ibid  pp.273−274)

この引用文に自らを語るに任せよう。

*1:自由な意志による判断・選択・決断そして意思表示:これが かつてわたしの恋愛相手には 肝心なところで まったくなかったのでした。まるで猫をでも襲えというかのようでした。短大英文学の講師の道を進んでいた女性ですよ。カトリックの洗礼を受けました。修道院へと・・・日本人の社会においてコミュニケーションが成り立っているというのは かなりの誤解があります。《ヘイ!ポーラ物語》にしていますが どうでしょうかねぇ お気に召すかどうか・・・。

#23

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§3 バルカン放浪 ** ――または 家族論――

まず あの問題解決の展開過程としての《場》は この家族関係の形成過程に その限りで ひとしいと思われる。家族どうしと言えども その人格(愛欲の主体)としては 互いに 別のものであるというのは そのさらに以前の大前提である。孤独は 独立主体である。
したがって 当然のごとく 愛欲の複岸性は この家族関係として現われる。それは 現実(一元性)的に および 超現実(複岸性)的に の両面においてである。言いかえると 個人のそれぞれの事業論を含めたところの社会の 現実と超現実とのいわば相克は――なぜなら それが 問題解決の展開過程であるのだから この相克は―― 単純基本的には この家族関係における 現実と超現実との相克の過程にほかならない。われわれは それぞれこのような十字架を背負っている。
むろん 事業論における資本一元論ないし皇帝論は その資本多元論との関係として 大きくこの現実 対 超現実との相克であるように思われる。つまりそのように 愛欲論 家族論 および 事業論は おのおの通底していると考える。愛欲の複岸性の矛盾は 家族論をとおして 事業の皇帝一元支配論と結び合わさっていると 一つの見解として 提出することができる。
テオドリックの重婚のようなかたちに見る限りそうである。そしてわれわれは 《豹変》の章での議論にもとづいて この不法をやり玉にあげるのではなく 家族論ないし事業論の 現代的な展開を ――むしろ かれの時代と 場ないし局面を 同じくしていると見てのように――井戸端会議していこうということであった。
《現実》または《超現実》の問題は 《時間》の問題であると考える。事業論として言うならば もちろん 労働・生産の問題である。――なお いまだ この生産の問題をここでは 社会全体の仕組みといったような事柄への議論を入れずに 個人的な水準で 考えようとしている。このような想定は そこに殊に現代では 限界があるとことわっておけば 議論としては成り立つものと思われる。ここでは 限界が見えたならば むしろそのことによって いわゆる社会科学的な議論と政策が 要請されるとさえ 虫のいい言い方で ことわっておきたいと思う。
このような仕方で議論をすすめていき すすめていくなら そこに要請される社会科学による解決策が 基本的な問題の所在として明らかになる というところまで推し進めようと思う。つまり現実と超現実との相克であると むしろこのわれわれの全体的な場を とらえるというならば このような仕方による議論でも 議論としては 成り立っていると思う。そしてなぜなら そうでない場合には われわれの言う愛欲論ないし家族論が 外的な事業論ないし資本論によって ――前者の二つが もはや社会的な経験領域ではないかのように(または つねに それら後者のあとに まわされるように)―― 押し潰されることを恐れている。
むろん 社会科学というのものは 前者二つを 圧しつぶさない――基本的に 前者二者の場の 客観的な交通整理をおこなうものであるから 圧しつぶさないことを だから それらに仕えるものであることを 役割としている――ものなのである。等々。
ちなみに 事業論――労働――が 現実であり テオドリックがここで 家族論として 超現実との葛藤を持っていたとするなら その原因は かんたんには かれ〔ら〕が 労働へと入ってゆかずに ただ掠奪を遂行する移動=侵攻という時間(または無時間)の世界にあったからだと 言って言えなくはない。これは すこし きつすぎる見方であろうので――たしかに 定住生活をもって 生産している ので―― かれの彷徨といういわば空位期間も まったく時間を伴なわない超現実の世界であったとは 言えない。
テオドリックの家族論において 時間過程が 焦点である。
(つづく→Fluctuat nec mergitur - caguirofie060529)