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哲学いろいろ

J.Kristeva

J.クリステヴァさんの思想の営為をめぐって 勝手ながらお便りを差し上げます。お時間を拝借することになりますが よろしかったらお付き合いください。
数年前に 《セメイオチケ 1 記号の解体学》・《詩的言語の革命 第一部 理論的前提》・《記号の横断》・《ポリローグ》・《恐怖の権力―〈アブジェクシオン〉試論 (叢書・ウニベルシタス)》を読みましたが いつも どこかに しっくりいかないものを感じて しばらく遠ざかっていました。最近 何気なく書店で《初めに愛があった―精神分析と信仰 (叢書・ウニベルシタス)》と枝川先生*1の《クリステヴァ》(現代思想文庫)を買い求めて あらためて格闘を始めたところです。

基本原則

現代社会における人間のありかた(つまり生活ですが)に関して いわば最先端を行くと言ってよい分析把握をおこなっているということは 確かに初めから わかっていたことです。特にわたくしの場合 《Semeiotike: Recherche Pour Une Semanalyse》の冒頭の部分(《Faire de la langue un travail 》のひとくだり*2)に触れたとき 現代における思想の根幹にかかわる基本原則が煮つめたかたちでよく表現されていると 感じ入ったことを覚えています。ただし その後の部分やその他の著作では 必ずしもよく直接には肉付けされていないと感じられ 正直なところ その発展も 必ずしも直接のつながりにおいては 捉え得られませんでした。
肉付けは大いにされているのですが いわばそこで それぞれ事項ごとに鋭い分析を展開しつつも いまひとつ基本原則とのかかわりが わかりません。基本原則とは――わたくしの言葉では――

わたしたち人間が 社会的な独立存在であると同時に社会的な関係存在であるということ
また同じく この自由意志をもった主体が独立存在として自由であり かつ同時に関係存在として平等であるということ
そしてそこで わたしがわたしであるということ。

です。これが テクストをめぐって・つまりは広く社会的なコミュニケーションの過程で 実現するということ・持続するということ このようなことです。
したがって その後多くの著作活動をとおして それの発展も見るところなのですが どういうわけか 現実の生きた思想の場へ 登場して来たというような感覚を まだ持つことが出来ないでいます。何かしら そこに われわれ(わたし)との間に ずれがあると感じて来ています。ル・セミオチック*3の問題としては むしろ ずれのあるほうが 正解(正解の過程)であるということかも知れませんが。ともあれ わたしは その違和感を抱きつつ しっくり来ないできています。

問題のありか

このたび 《初めに愛があった―精神分析と信仰 (叢書・ウニベルシタス)》の《訳者あとがき》にある解説をよんで いくらか むしろそのような違和感なり疑問なりを持つということのほうが 納得いくことだと 正直に申せば 考えるに到りました。たとえば

表象不能とされ 《象徴的父》を通してしか顕現せず フロイトですら仮定的にしか語り得なかったこの《想像的父*4》をいかに措定するか
初めに愛があった―精神分析と信仰 (叢書・ウニベルシタス) p.137)

という《重要な問題》にかかわってのことです。もし乱暴にそして一面的になってしまうことを承知の上で言うとしますと この問題じたいに問題があります。すなわち 問題をこのように措定しているということをめぐって わたしには――勝手な――不満足の生じる原因があったのだとわかったことです。
それは 問題をこのように持ってくるならば 上に述べた基本原則 これが その実践というよりは その根源の領域へと分け入りあくまで研究の対象とされてしまう そういう結果となる こう考えたのでした。基本原則じたいを 具体的に捉えたり その全体としての実践過程を明らかにしていくといった作業ではなく いわば神学の領域へ入っていってしまったと考えられます。神学が悪いわけではないので さらに説明を付け足さなければなりません。

神を表象する?

もとよりこの問題すなわち

現実には 《記号象徴態le symbolique》を通してしか顕現せぬ《原記号態 le sémiotique》をいかに理論的に定立するかという・・・ジレンマ

は おっしゃるように

理論と臨床的実践との往復運動以外に解決されないと思われ・・・事実 クリステヴァは 境界例 恐怖症 ヒステリなどの臨床例を通じてこの問題の解決を図っているのである。
初めに愛があった―精神分析と信仰 (叢書・ウニベルシタス) p.137)

というとおりの事柄だと わたくしも思います。

  • さらに 何の用意もなしに あらかじめここで付け加えますと 《想像的父》の理論的な定立は出来ない / つまり臨床例を含めてもろもろの現象をとおして かいまみるだけだ / つまりは 現象をとおしてかいま見たことについての理論的な整理が出来るだけだ こう思っています。

ともあれ 精神分析の臨床の営みじたいに 文句のつけようは ないとまず言っておくべきかと思います。
しかしながら わたしの少なくとも希望するところは 別にあります。かのじょの一読者として――訳者・研究者の枝川さんに対してとなりますが―― 自由に述べることが許されるとしますと このように措定された一問題 すなわちあらためて《表象不能のものを表象し 語りえぬものを語るというジレンマ》は まず第一に あくまでわたしの措定した基本原則の問題の中の一部分だと思われてなりません。
表象不能のもの・語りえぬもの 要するに 究極の愛なる作用としての《想像的父》 これは いまの問題の根幹をなすものです。そしてこれを表象し 語ることは 問題の一部分だと考えられます。
また 大前提として そのように位置づけた上で その部分要素としてのジレンマ問題は 取り組むべきかと考えます。ヨーロッパ社会・またはいわゆるキリスト教の思想的な影響下にあると考えられる限りでの現代社会にあっては この原記号態の理論的な定立という一問題は まったく神学の問題だと言ってよいでしょう。神を人間のことばで捉えるという問題にほかなりません。

  • わたしは 初めから 不可能説に立っています。表象しえたなら それは 神ではないからです。

もちろん 精神分析の実践とそこから得られた経験に基づく思想の営為として この原記号態の理論的な定立という一問題は――そうは言うものの・つまり 一つの部分的な要素問題とは言うものの―― 分析主体のあいだの転移・逆転移の過程をつうじて体験されたところの たとえば《他者 l'Autre 》とそれをめぐる幻覚の構制として説明され そのような全体観の中に 捉えられています。わたしの言葉で 基本原則の中に捉えられています。一部分を全体とするものでないことは よくわかっています。
しかも――それどころか――このいわば分析主体間の話し合いの過程は そのような構造的であると同時に 分析治療の終えられるときには それこそ この現実の中でいまの基本原則を全体として・また一人格の全体として 生きていくというその意味での基本理論も うかがうところです。

精神分析からの視点が問題である

そうすると わたしの物言いは どうなるかと言いますと――ジレンマ問題とそれをそういうふうに措定するということに関する第二の事柄として―― 精神分析という一領域じたいのことを 問題としなければならないと思います。それは こういうことです。
もとより治療は治療として 一般に認められているし それはそれとして貢献するところがあると考えるのですが 精神分析の成果を社会一般の問題・つまり現代人一般に あてはめること この点に いくらかこだわりが出て来ます。わたしの言い分は 人間一般に関する思想を 精神分析の実践にも あてはめることが必要ではないか――いいえ これだけでは すでにそのことも実行されているでしょうから ほとんど意味をなしませんが 次のようなことです。
たとえば 《子どもと大人》(第八章)という主題の立て方があります。かんたんに言って 子ども(子どもに留まる状態)が 精神分析の領域であり 大人が社会人一般の領域ですから そして確かに 子どもから大人になる過程が 意味生成の過程*5として捉えられて 実際 両領域の双方向の交通・適応はなされているのですが これら両領域の全体を見渡す視点というのが じつは いまの《ジレンマ問題》を基礎として 設定されているのではないか こう思われます。つまりは 精神分析の領域という一つの――大前提となる――視点です。これが もともと初めに 暗黙のうちにかどうか分かりませんが 想定されているかに思われます。
要するに 記号象徴態と原記号態との二項が 精神的(または心理的)な構造として 対立しあっているという見方が あくまで前提されているのではないでしょうか。子どもとそして大人の二つの領域を通じて わたしたち人間の精神には――そしてそれは 心理の問題にすぎないとわたしには思われると あらかじめ申し上げるのですが―― 《象徴的父》と《想像的父》との互いに切り結びあう二項があって しかもこの二項の対立しあう構制が それのみが ほとんどすべての(人間観にかかわる)大前提となっているのではないかと。
早い話としては エディプス問題はもういいし ナルシス問題も 極論していえば 心理現象にすぎないというのが わたしの正直な思いですが それだけでは議論にならないわけですから さらに次のように考えます。

  • 心理の現象 心理の問題にすぎないということは 精神には なんら問題は起きていないという実際を言います。
  • 人は 心理的に影響は受けているが その要因に精神が左右されているわけではない これです。
  • オイディプスのコンプレックスに悩まされるとするなら こりゃあ その時間複合(コンプレックス)に陥ったな どうも そうであるわいと判断するのが 精神です。ル・セミオチックもル・サンボリックも 知らずにいても ほとんど――ほとんど と申し上げます―― 問題ないはずです。

確かに 《内なる中国》の問題として このエディプス問題のいわゆる伝統的な構制から自由な一視点を論じているところをも聞くわけですが(§4 クレド) これは いわゆる中国の文化や思想になじみの深いわたしたち日本人としては あまりにも粗雑な議論だと ほとんど理由説明なしに 言えると思います。
逆に言いかえますと そのように ともあれユダヤ・クリスチアニスムの《父》をめぐっての二項の《父》の対立およびその心理葛藤(あえてそう言います)から解放された世界とその視点を 志向しているのだとも うかがわれるわけですから この点をさらに――むしろ大前提において――追求してもらいたいとも 考えられるのです。そうすれば――かんたんに言うことが許されるなら―― いま問題として措定される《ジレンマ》は 消えてしまうとさえ 言い切ってよいのではないでしょうか。
ジレンマ問題の追求とそれにかかわっての精神分析の実践も――エディプスやナルシスの要素は それらもそれとして すべての現代人に見られることは まちがいないわけですから―― それじたい 重要なのでしょうが はじめの大前提としての《視点》が それとは別に重要であり むしろこの視点じたいが 取り組むべき今一つ別の問題として 存在すると思われます。

精神分析から自由な新しい視点

この新しい視点が それでは 具体的にどのようなものとして 存在しうるか これについて 最後に 触れます。
まず新しい視点によれば どういう有益なことがあるか。視点を想定することになる伝統的な構成を避けることができる。これについては 結局 《初めに愛があった―精神分析と信仰 (叢書・ウニベルシタス)》としてのクリステヴァさんの視点では 副題の《精神分析》と《信仰》とが まったく同じ一つの・精神の意味生成過程において 捉えられていると考えるのですが その意味での視点 これから 解放されると思われます。

  • その過程で やがて信仰の問題へと議論が進むと つまりは ドグマどうしの対立というところまで行くでしょうから そうなると そのときは そのときで あらたな問題が生じるようですが やはり ひととおり述べさせていただけますか。
  • つまり その新たな問題というのは 信仰あるいは精神分析 いづれか一つの立ち場から 自分の視点を提出するのではなく 互いの立ち場を綜合する地点から 新しい視点を形成していこうとしているようになっていますから 以前の問題と比べるなら 格段の違いです。
  • そのように言うことは――議論を先取りしますが―― 信仰の問題になれば 互いに視点を提出するにあたって むしろ互いが 対等の立ち場に立っているということを意味するはずです。合意に到るのは むずかしいかも知れないとしてもです。

たとえば まず明らかに

クリステヴァは キリスト教的信仰の核に分析的機制の働くのを見ている。(p.135)

と思われ これは 一つには 実際問題として・そういう大きな意味での一分析として 観察され導かれて来る事柄であるとは思うのですが もう一つには もしそれだけだとしたなら 結局のところ 《信仰》が 精神分析と同一の視点(つまり これは 精神分析じたいの視点)で そしてそれでのみ 捉えられていることになる こう思われます。

  • 少なくとも 論理的な可能性として そう言えるはずです。

わたしの考えでは そのように精神分析と同一の視点でのみ捉えられる信仰とは まさに教会関係の《クレド》の文章に限ってのことだと思うのです。
ここからは 確かに 二つのドグマの対立にまで発展しかねません。たとえばクリステヴァさんにすれば テクストを通じて意味生成の過程をたどるのであって その限りで精神分析(その視点)こそが女王であると言うかも知れず これに対してわたしの側では じっさいの信仰は とうぜんの如く《クレド》の文章を超えたところにあると言い張るでしょうから。
ですが それでも クリステヴァさんも 中国人の《信》の問題を かんたんながら クレドの信仰の機制から自由なあり方として 捉えようかというのですから 実際問題として キリスト信仰にも(キリスト信仰ではなく キリスト信仰にも そして他の信仰にも) クレドの文面を超えた実態があるのではないかということを 無視するわけにはいかないはずです。
事実 たとえば

文字は殺し 霊は生かす。
コリント人への第二の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教) 3:6)

というのですから かんたんに片付けるわけにはいかないはずだと思うのです。《霊》を《原記号態》ととれば 少なくともキリスト信仰の実践者は クリステヴァさんと同じ分析者の立ち場に立てる潜在力があることにまではなります。
結局――クリステヴァさんも反面で カトリックプロテスタントのほかに ユダヤ教徒ムスリムやあるいは神道信徒のそれぞれの《視点》にも触れていますが(§7の最後) そしてわたしは 自分がこのように物言いをつらねて《慇懃に身をかわして転移の危機をやりすご》(同上箇所)そうとしているのではないことを 願うのですが――結局 ここまで来ると ひとつには クリステヴァさんたちの精神分析を内容とするむしろ信仰と たとえばわたしのキリスト信仰とが 互いに理屈を超えた分裂と対立を呈すという事態にもなります。事実問題としてそうなるかも知れません。ドグマの問題に到ったというときにはです。
ただし 対立をしていても話し合いの過程は開かれているのですから 互いの関係における意味生成の過程はつづくと思われます。それについては 互いに前へ進むため 次の一点だけ お尋ねしてみたいと考えています。

けれども分析医はさながら冥界のダンテのごとく 彼らが激情にかられているか 苦痛の最中にあるのに出会いさえすれば 彼らに耳を傾けます。分析医にとっては まさにその聴き取りの行為を多種多様な文化や伝統に合わせるだけでこと足りるのです。
初めに愛があった―精神分析と信仰 (叢書・ウニベルシタス) §7 pp.86−87)

このくだりは かなり狭い見方が横たわっていると考えられてなりません。ひとことで言えば クリステヴァさんは この限りで――つまり揚げ足取りになれば話は別ですが―― わたしの言う基本原則を 一分析医の立ち場からしか見ていないということになります。
この《分析医》が ふつうの大人のことだとしたら こんな表現はしないでしょう。すなわち 《冥界》の問題に限るということは 言わないでしょう。すでに冥界を相手にするという前提で 《聴き取りの行為を多種多様な文化や伝統に合わせる》ということになるかに思われます。

  • 文章だけでは わたしのほうが 揚げ足取りをしているように見えますが 実際はどうなのでしょう。

従って同じくこの限りで 基本原則のことを・あるいはキリスト信仰を 《子ども》に対する如く 大人になり損ねた場合にのみ 取り扱うということになります。なるほどその時には 原記号態と記号象徴態または 想像的父と象徴的父の 二項関係の構制で 分析は足りるのかも知れません。しかもそれで世界のすべてを説明しうるとなった日には あらためて ドグマどうしの対立ということになるでしょうか。それにしても もともとクリステヴァさんは 患者の問題としてしか 議論をしていないということなのでしょうか。
それにしても――あと味の悪いという結果については恐れてはいるのですが―― 全体を見渡して受け止められることは 精神分析(とくにその大前提となっている視点)こそが あらゆる信仰を包摂して それぞれの信仰を分析し治療することができると言っているかのごとくです。地上の文化・文明のすべてに対しての統治者の位置にあると宣言しているごとくです。
これは――個々の分析や思想の営為とは別に この大前提となっている視点じたいについては―― 平俗なことばでいえば けんかを売っているということになりはしないですか。まるで八紘一宇の思想のごとくに聞こえます。極論したばあいには いわゆる悪しきキリスト教の生まれ変わりかとさえ恐れられます。
最後の部分では よけいなことを書いてしまいましたが 枝川さんはいかがお考えになるでしょうか。

  • なお わたくしの提出する新しい視点というのは 《文字(――原記号態の代理表現・それを固守すること――)は殺し 霊は生かす》という注意事項のことです。

基本原則で同感し 個々の分析でも 重要で鋭い指摘に出会うのですが その初めの視点――そして 別のことばでは 初めにあったというその愛――に関して 少なくともどこかに 自分の視点のみというかたちが見え隠れしているように感じられました。
ともかくわたしの主体的な意味生成の過程としては 一つの段階としてこう考えられ いま先生に お聞きいただいたということになります。勝手なことと承知で長々とつづってまいりました。取り上げるべきものが少しでもありましたら 幸いです。それでは ありがとうございました。


枝川昌雄さま

補論

《文字》を 原記号態の代理表現であるとして けっきょく《記号象徴態》のことだとすれば 《霊》が 原記号態のこととなり 想像的父なる愛となります。こう解釈すると 精神分析クリステヴァと――僭越ながら――キリスト信仰のわたしとは ここで問い求めてきた《あらたな総合的な視点》をめぐって 同じ立ち場に立っていると見られるかも知れません。
ひとつ違うのは こうです。わたしは 《想像的父なる愛 / 原記号態》 このように言葉で表現したときには もはや これらをも《文字》と見做すという点です。《霊》そのものではなく その代理表現つまり《文字》にしか過ぎないと見做します。
ですから この《原記号態》を理論的に定立するという作業 これも むろん自由ですが その成果が(つまり人間の言葉で表わされた研究成果が) 《霊》ないし《原記号態》なのではないと考えるという一点です。
たとえば 人生において ある日ある時 この《想像的父》によって その指で触れられたと表現したくなるような体験が 時として 人間にありうるとは思いますが その感触も 指と感じたそのことも 《父の指》と文字表現したときには もはや 当のものではなくなっていると考えるものです。
代理表現なのですから。もし ほんとうに表現しえたとすれば そうだとしても それは 神とその愛という意味での《想像的父・原記号態》ではないでしょう。もともと 《表象しえぬもの・語りえぬもの》だったのですから。
あたかも 《全知全能の神》と喧伝するキリスト教クレドと じつは科学行為をとおして 同じような《万能の原記号態 / ル・セミオチック》を導き出した。もしくは発見・再発見したという事態ではないかとも 素人として 思われます。あたかもというのは 油断すると キリスト教と同じ結果を生じさせかねないという意味です。告解・聴聞といった形式は――キリスト教でも効果があったように―― 同じであるようにも見えます。
恐れの側面のほうを述べさせてもらいました。

補論の補論

クリステヴァ自身の文章である。(註2の一部分)

Entre la mystification d'un idéalisme sublimé et sublimant et le refus du scientisme, la spécificité du travail dans la langue persiste, et même depuis un siècle s'accentue, de façon à creuser de plus en plus fermement son domaine propre, toujours plus inaccessible aux tentatives de l'essayisme psychologique, sociologique et esthétique.

われわれは 《科学を拒否》しているわけではなく 科学が あたらしい全知全能の神とされることを恐れている。
ただ言葉や文字としての神のもとに 人よ ひれ伏しなさいという《崇高な観念論とその神秘主義 la mystification d'un idéalisme sublimé et sublimant  》 これは 大雑把に言って 教会関係のクレドなる信仰だと思われる。要するに 道徳・戒律としての・また生活習慣となった宗教のことだと解される。それが持つ非に陥らないようにというのは クリステヴァとわれわれとで 同じである。
ただ われわれは 宗教ないしクレド信仰を超える内実をもった信仰は 存在すると言っている。言いかえると 《信仰》と言えば その種の――《文字は殺し 霊は生かす》の立ち場の――信仰のみを言うはずなのである。クリステヴァは この信仰を 必ずしもまだ捉えていない。自分の信仰 すなわち 言語分析をとおしての科学としての信仰( la spécificité du travail dans la langue )しか見ていないように思われる。そしてその原記号態をめぐる信仰が 全世界に君臨しうると思っているのかも知れない。
そのル・セミオチックをめぐる科学的研究はいよいよ進み深まった( de façon à creuser de plus en plus fermement son domaine propre )という。そのとき 他方では 自分たちのこの記号学・記号分析 sémanalyse をほかにしては もろもろの経験科学の研究によっては 遂に ル・セミオチックの彼岸にはたどり着き得ない( inaccessible aux tentatives de l'essayisme psychologique, sociologique et esthétique )と宣言している。
以上(補論の補論)は 字面の上での批評である。

*1:枝川昌雄:http://read.jst.go.jp/ddbs/plsql/knky_24?code=1000032611

*2:"le texte et sa science"  /// Faire de la langue un travail――ποιειν―――, oeuvrer dans la matérialité de ce qui, pour la société, est un moyen de contact et de compréhension, n'est-ce pas se faire, d'emblée, étranger à la langue? L'acte dit littéraire, à force de ne pas admettre de distance idéale par rapport à ce qui signifie, introduit l'étrangeté radicale par rapport à ce que la langue est censée être : un porteur de sens. Etrangement proche, intimement étrangère à la matière de nos discours et de nos rêves, la "littérature" nous paraît aujourd'hui être l'acte même qui saisit comment la langue travaille et indique ce qu'elle a le pouvoir, demain, de tarnsformer.              / Sous le nom de magie, poésie et, enfin, littérature, cette pratique dans le signifiant se trouve tout au long de l'histoire entourée d'un halo 《mystérieux》 qui, soit en la valorisant, soit en lui attribuant une place ornementale, sinon nulle, lui porte le double coup de la censure et de la récupération idéologique. Sacré, beau, irrationnel / religion, esthétique, psychiatrie : ces catégories et ces discours prétendent à tour de rôle s'emparer de cet "objet spécifique" qu'on ne saurait dénommer sans le ranger dans une des idéollogies récupératrices et qui constitue le centre de notre intérêt, opératoirement désigné comme texte.              / Quelle est la place de cet objet spécifique dans la multiplicité des pratiques signifiantes? "Quelles sont les lois de son fonctionnement? Quel est son rôle historique et sociale? ―― Autant de questions qui se posent à la science des significations aujourd'hui, à la SEMIOTIQUE, questions qui n'ont pas cessé d'attirer la pensée et auquelles un certain savoir positif accompagné d'un obscurantisme esthétisant refuse d'accorder leur place.          / Entre la mystification d'un idéalisme sublimé et sublimant et le refus du scientisme, la spécificité du travail dans la langue persiste, et même depuis un siècle s'accentue, de façon à creuser de plus en plus fermement son domaine propre, toujours plus inaccessible aux tentatives de l'essayisme psychologique, sociologique et esthétique. Le manque d'un ensemble conceptuel se fait sentir, qui accéderait à la particularité du "texte", dégagerait ses lignes de force et de mutation, son devenir historique et son impact sur l'ensemble des pratiques signifiantes.

*3:ル・サンボリック le symbolique : 記号象徴態》は 言語活動の社会性=伝達性を保証する記号=意味作用=述辞作用の場であり また それを支える定立的意識の場であり さらには 社会秩序を成立させている父=法の審級である。 つまり テクストの理解可能性の最終的拠りどころとなる枠組であった。      それにたいして 《ル・セミオチックle sémiotique:原記号態》はテクスト上にありながらもそれが隠蔽されてているという点ではいわば下部にあって 意味作用とは異質の 無限定でかりそめの分節がおこなわれているもうひとつの場であり そこではたえず《ル・サンボリック》の秩序を脅かし侵犯する否定性が跳梁している。     意味とはならないもの あるいは意味以上のものをテクストに書きこむことになるこの《異質なもの》は 通時的には記号=意味作用=述辞作用およびその主体の定立に先行する場である。 つまりそれは 言語習得以前 主体=客体の分離以前の 口唇段階にある幼児をつき動かしている 無定形な身体的欲動にほかならない。》――西川直子:《白》の回帰 pp.128−129

*4:想像的父》とは 想像界の父であり エディプス的な威嚇する父ではなく 愛する父であるとされる。・・・クリステヴァは《想像的父》を フロイトのいわゆる《個人の先史時代の父》 つまり 男女の性差を認識しない時期に特有の 両親に相当する父と同じものとしている。》――西川直子:《白》の回帰pp.137

*5:意味生成の過程 procès de la signifiance :《下方へと向かうクリステヴァの視線が    〓 記号=意味作用=伝達的言語活動の彼方へと赴けば 彼女の行程は詩的言語論となり    〓 主体=客体の定立以前 個体の生成の先史時代へと赴けば その行程は幼児精神分析 あるいは精神病・神経症・ヒステリーの精神分析となり さらに    〓 文化・宗教の生成をもとめて集団の先史時代へとおもむけばそれは精神分析的文化論とでもいうべき様相を呈することになる。     これらの行程はいずれも個々に切り離されてあるのではなく 互いに滲透しあい照応しあって 意味=主体=文化が形成される過程――クリステヴァのいわゆる意味生成過程――を描き出している。》――西川直子:《白》の回帰pp.127−128.

#16

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 * ――または 孤独―― (16)

愛欲の あるいは 性関係の さらにもう少し具体的な事柄を述べておかなければならない。この一連の作品で これまでに具体的に触れたことのあるテオドリックのその相手は コンスタンティノポリス宮廷時代の一女官エウセビアと もうひとり 帰郷の途中を同行した一ゴート女性オストラゴータとの二人である。まず述べておかなければならないことは 性関係というのであって エウセビアとの具体的には 無事という結びつきをも 含むということである。孤独〔という関係過程〕の問題であるから。性関係を 愛欲の そして基軸といったのは この意味においてである。言いかえれば 愛欲の触手が 動き・動かされ それらが それぞれの孤独の 基軸(河幅)に 関係しているか どうか 関係してくるなら ということであるから。

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