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哲学いろいろ

川端康成〈神います〉

掌の小説 (新潮文庫)

掌の小説 (新潮文庫)

(引用は 新潮社《川端康成全集第六巻:掌の小説》1969 pp.127−130)

夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。
湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬から落ちた。
《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》
見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。
《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》
《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりましてな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。
若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へた美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。
《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》
《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》
《さやうですか。》
鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。
《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》
彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。
茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》
鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。
《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》
《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。
(あの少女だ。)
彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。
鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。
《さあ 一ぺん沈め。》
妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。
そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとうかがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶつてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して傾いてゐた。
泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつかないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうまで不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。
鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判になつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩として誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来ないので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。
湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出て 妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせて 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつたりしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんでやつた。
帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原はほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。
鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。
《神います。》
自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。
《神よ 余は御身に負けた。》
彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で聞いた。

  • いい話である。まず 主題がいい。小説の問題ではないところがいい。小説の技巧を施したところで 主題は 人生の人間の問題であることに変わりない。《神》あるいは《神います》などという言葉を使わなかったら さらにいい。使わずに表現しえていたら なおいい。
  • 主題:
  1. 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。
    • 身の程を知らない考へであることが分つた。
    • 人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。
  2. 彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。
    • 傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。
    • 人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。
  • 論点:
  1. 《人が 人を 不幸にすること》は ありうるか。それは出来ないことか。
  2. 《不幸にすること》がありえない場合も 人を《傷つけること》はあるようだ。そのとき 《傷つけた者が 傷つけられた者に許しを求めること》は すべきや否や。
    • すべきかどうかを別として そのように《許しを求める心》は 《驕り》であるか。
    • 矛盾するようだが あらためて問うて 《人が人を傷つけること》はできるか。
  • 日常・通常の社会生活のなかで 傷つけること(もしくは 傷つけられたと感じること)あるいは 不幸にすること(不幸になったと感じること)は ありうる。大いにありうる。
  • この感覚・常識とは いくらか別の視点に立って 考えているのであろう。言いかえると 日常の通常の視点を超える(覆う)視点というものは 現実にありうるか。ここから考えていくのであろう。

#13

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§2 バルカン放浪 *――または 孤独―― (13)

たとえば マルクス・アウレリウスは 《自省録 (ワイド版岩波文庫 (77))》の中で 次のように書いている。

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