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哲学いろいろ

《 Voir le Dieu / le Sacré 》についての断章

終末――われわれはどこへ行くか
[愛]終末は分からなくて構わない。 - caguirofie040923
関連記事もくじ→2005-05-07 - caguirofie050507

終末は 分からなくても 構わない。
終末が分かる人は もはや 信仰は要らない。

        ***

さて 自分自身によって 神を観想し神に密接に結合されるほど清められると思っている人がいる。そのような人を汚すのは とりわけ高ぶりそのものである。
 ・・・
しかし 不遜な人にとって また このゆえに木(十字架)の船に乗るのを恥じる人にとって 遠くから海を越えて存在する故国を望み見ることが 何の役に立つであろうか。逆に あの不遜な人がそれで運ばれるのを軽蔑する木の船に乗って祖国に行く謙遜な人にとっては このように遠くから祖国を見ないことがどうして不都合であろうか。*1

       ***

さらに主はモーセに言われる。

あなたは私の顔を見て 生きることは出来ないであろう。なぜなら 人間は誰も私の顔を見て 生きることはないからである。

また 主は言われる。

見よ 私の傍らに一つの場所がある。私の威厳がそこを通り過ぎるやいなや あなたは岩の上に立つであろう。私はあなたを岩の頂上に置こう。私が通り過ぎるまで 私の手であなたを蔽うであろう。私が手を除けるとき あなたは私の背面を見るであろう。私の顔はあなたに現われないであろう。*2

*3

超経験( X )は 見る・考えるものではなく 信じるもの・そちらへ開かれるものである。
その《背面を見る》とは 言われている。

        ***

今 私たちに見ることを欲しさせ 信じさせ 将来見るであろうことを望ませ そして私たちが前進する限り 〈今は鏡をとおして謎において見〔てい〕る〔が かの時には〉*4明らかに見ることを得させる神の愛を他にして 神の礼拝とは何であろうか。〕*5

たしかに鏡において見ているものは似像(にすがた)〔代理表現〕に他ならない・・・。*6

実に使徒パウロ)は 《今 私たちは鏡を見ている》と語るのではなく
今私たちは鏡をとおして見ている*7》と語るのである。*8

        ***

そうして 励ましの言葉が添えられる。

しかし非物体的であるだけではなく 最高に不可分離的であり 真に変化しないこの神の三位一体を 《顔と顔を合わせて》と私たちに約束されている神直視(visio)が訪れたとき 私たちの現在の状態を示すこの似像よりもずっと明らかに確実に見まつるであろう。
しかも 《この鏡をとおして》《この謎において》 この生において見ることが許されている限り 見ている人々は私たちが詳論し提示したあの三つの能力〔割愛している。*9〕を その精神において認める人々ではなく その精神をいわば似像として見る人々であり そのようにして彼らが見るものを精神がその似像であるお方に或る仕方で関係させ得るのである。
そして彼らが認めることによって似像をとおして予感することによってではあるが 神を見得るのである。まだ 《顔と顔を合わせて》神を見ることは出来ないからである。・・・。*10

同じ使徒は このことを次のような言葉で意味表示している*11

私たちは顔蔽いなくして主の栄光を鏡に映すようにして見つつ 栄光から栄光へ 主と同じ似像において いわば主の霊によって変えられるのである。*12

  • 例によって 悪文(取り合わせ方が)であるが 《神を見る》に関して なにがしかのことを示唆しているかと思われる。

*1:DE TRINITATE アウグスティヌス三位一体論 vol.4 ch.15

*2:Exodus 33:20-23→http://ebible.echurch-jp.com/

*3:TRIN.vol.2 ch.16

*4:1Corinthians 13:12→同上

*5:TRIN. vol.12 ch.14

*6:ibid. vol.15 ch.8

*7:《L’oeil perce et franchit le miroir.〔l.12〕》

*8:TRIN. vol.15 ch.24

*9:精神の三つの能力:精神の秩序としての記憶 精神が精神する知性 知性と記憶とを合わせて発現する精神の意志。社会次元で 司法・立法・行政。

*10:ibid. vol.15 ch.23

*11:TRIN. vol.15 ch.8

*12:2 Corinthians 3:18→同上

#8

――ボエティウスの時代・第二部――
もくじ→2006-05-04 - caguirofie060504

§1 豹変――または国家の問題―― (8)

ここで 以上これらの命題を 綜合してまとめるならば まず [γ]と[ε]とは われわれの住む《世界》を 的確に表現して あの出発点としての基本的な場を指し示していると考える。これが 国家という視点と かかわっている。繰り返すなら 《有限ないし相対的であり 法と不法とから成り それじたい 自身の内において固有の(人間の経験的な)自治を持つ》といった位相の《世界》。このようにむしろ与えられた世界の上に しかも この位相と よく かかわって 国家の視点が 登場する。

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