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哲学いろいろ

        ――シンライカンケイ論――

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第四部 風と象と羊とねじまき鳥と――村上春樹をめぐって――

2005-05-05 - caguirofie050505よりのつづきです。)

付録・その一 あらためて《風》の理論について

(90) 題名《風と象と羊とねじまき鳥と》の中の各項目について かんたんに理論的な整理をおこなっておこうと思う。
(91) 《風》が 想定上・話の都合上 中心となっている。ほかの《象 / 羊 / ねじまき鳥》は それぞれ《風》の(あるいは《風の歌》の)具体的な説明表現を構成している。
(92) 風は 経験存在であるわれわれ人間( Z )にとって 《非経験・非思考・非対象》( X )の領域を想定した上で それ(X)を表わす。想定であるから むろん決して実体ではなく ひとつの代理表現である。X とか非経験とかも 実際には 代理表現である。つまり X が実体であるかどうか(絶対として存在するかどうか) 考えても分からない。わかるか・わからないかが わからない。われわれ〔の理性と思考〕によっては 決めることができない。そしてここには 表現の上で 虚構を要請する所以がある。初めの想定を認めるにしても 虚構表現をとおしてしか 伝達されえない。
ということは 経験事実( Y )の領域で われわれが考えてわかることは 決して最終的に確かなものでないと言うのと同じである。逆に言えば そのようにこの経験世界( Y )は 当然の如く 有限・相対的であると言えば済むことであるが わざわざこれを言いかえて 風( X )を想定上立てる。その意味は たとえば具体的に人間(1〜n)の真実( Zi )が 主観的にして相対的であることを示すために わざわざ想定上の絶対的な真理( X )を立てるということである。あるいは 信頼関係なり愛なり志なりが おのおのの主観真実( Zi )であって 空しくなりうるということ しかももし真実であるとか信頼とかの言葉を用いる限りでは そこに希望がある。そしてこの希望は 幻想であるかも知れないから 想定しておいた真理ないし風( X )とのかかわりにおいてのみ 成り立つ。従って 逆にもはや愛も幻想であり 信頼も空であると言う人は 風( X )の想定の上で そう宣言していることである。

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