――シンライカンケイ論――
もくじ→2005-04-07 - caguirofie050407
第二部 シンライカンケイについて――風の理論――
(2005-04-16 - caguirofie050416よりのつづきです。)
第三十九章 好悪原則の社会は 《イジメ‐イジメラレ》の循環によって均衡を得ているのだろうか。
(1194・11・20)
三十五章から触れてきた《普遍的な原理》または《世界宗教》の問題 これについて考えておきたい。
これはまず初めに 積極的にこの《普遍的な原理》が存在するというために 議論するのではない。必ずしもそれを論証しようと思ってのことではない。第一種の好悪原則や第二種の偽善原則では 立ち行かないであろうと思われること しかもそれらに代わる別種の考え方・生き方が存在すると思われること これは 人びと一般に共通のものであり 実際に課題となっているのではないか こういったことのみ まずは確認しようと思う。そのようにしてこれは これまで保留していた《神もしくは言語(つまり むしろ 表現とその過程)あるいは 世界宗教(やはり 表現の問題として)》のことにつながる。
この章では 現在の社会において 別種の考え方が要請されているのではないか 第三種の考え方がありうるのではないか そのことをめぐって 現実の情況を確認することのみおこなう。
たとえば最近の新聞記事から直接 その問題状況に触れた内容を引用し それをもって共通の認識としたい。
はてな質問
1989年の天安門事件は中国の民主化を進める上で歴史的に価値があったのでしょうか?つまり民主化を求めながらも,訒小平を退陣させる結末に至り,江沢民を台頭させてしまいました.江沢民時代からは極端な反日教育が始まったのだが,民衆はそれを受け入れてしまっているし,メディアの報道への免疫力も相当低いように感じます.そのことを受けて考えると,天安門事件を起すことになったあの民主化運動は全く無駄だったのではないか?あの時の犠牲を踏み台にして更に民主化が進んだのではなく,あの犠牲を無視して党主導の偏りのある民主化だけが進んでいるのではないか?といったことが頭をもたげます.党にとってはあの事件は大失態でしたが,民主化運動家側にとっても大失態だったのではないでしょうか?そしてその両者の失態の経験を生かしているのは,党側だけなのではないでしょうか?ご意見ください.
- なんと言っても 一党独裁の問題だと思う。