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哲学いろいろ

文体――第三十一章 インタスサノヲイスム

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie0412217
2005-02-10 - caguirofie050210よりのつづきです。)

第三十一章 インタスサノヲイスム

民主主義を 内的な基本主観の問題として(つまり その一理念として)語ろうとすることは たとえば男女の両性が平等であるという関係過程のそこにおいて見られるであろう相互の意思決定(知解と判断)の理念形態が この民主主義なのであろうから すでに 経験領域とつなげて 語っていることである。
あるいはむしろ 経験領域の問題として 民主主義(自然本性の主体の 経験的な 有効性。ないし有力までを含むかもしれない)の理念が言われているとき これを わざわざ強引に 内的な基本主観の一理念へ引き入れるかのようである。
この強引さが 理論的に無罪と保証されるのは 経験領域と基本主観とに共通な分野においてか または 行為能力としての意志(愛)においてかである。言いかえると 民主主義ということばを 自覚せずに・自覚してのいづれにもかかわらず 基本主観による生活〔のたたかい〕を自然本性たるわたしたちが これまで行なってきたとしたなら そのときその結果として獲得された理念としてであるか それとも 経験科学によって理論的にも明らかにしながら 実現した理念としてであるかである。だから この生活の歴史では 基本主観の内に その理念として 潜在的にしろ もともと 見られたものだということが 保証である。
男でも女でも その思想・表現が自由であり その両性は平等であると 経験科学によって明示的に言ってきたかどうかを問わず これらの自由や平等の理念の実現されることをめざしてきたその基本主観には 同じく明示的でなかったとしても(ということは 必ずしも知解行為を優先させずとも) 意志があり その理念は 民主主義というものであった。という見方である。

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