文体―第二十六章 日本国憲法
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(2005-02-03 - caguirofie050203よりのつづきです。)
第二十六章 日本国憲法
ここ二つの章では つづけて 思わせぶりふうに書いてきたけれども それは わたしが まだ 答え(過程として)を確立していないことによるものです。
もし 省みて そこにも 答えがあったとしたなら はじめ(第一章)から書いてきたように やはり 《なぞ》を言うことによってである。いまは そのようである。
男女の平等は 理念である。まだ 理念である。しかも この理念(また 基本主観の内容たる理念一般)は 性の存在しない先行する基本主観にあるとは言え むしろ基本主観が 全体として つながっているところの後行する経験領域(つまり 一般にいくぶんなりとも不平等)から特に 要請されてきた概念である。
もちろん理性の所産であり 理性じしんの概念である。理性は 基本主観(精神・こころ)の最高の部分をいうが そして理性概念つまり理念は 天使にたとえられるほとであるが 全体として 基本主観・自然本性・もしくは《わたし》の有(もの)である。自然本性になぞがあるとき その具体内容たる理念(またそれを表わすことば)に なぞがないのではない。ところが 理念は 基本主観の特に理性のその概念(ことば)として それとして 明確である。理性的になれと言うよりも 自由だとか平等だとか言うほうが 一般に そのいま起きていることがらの認識として 明確である。もっと粗雑な例をあげれば 人間というよりも 男または女と言ったほうが あるいは日本人とかアメリカ人と言ったほうが ことばとして明確で なぞがないかに見える。
《男女平等をのぞむわたし》と言うよりも そしてこれを客観理論するよりも 《わたしは男女平等を望む》というほうが 文体がまたその主題が 特定され その点で より明確である。
だが 理念には なぞがある。