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哲学いろいろ

文体―第二十四章 男と女はどうして平等か

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie0412127
(photo=faust?)
2005-02-01 - caguirofie050201よりのつづきです。)

第二十四章 男と女はどうして平等か

自然本性として 文体を展開して生きるとき 《実際 ただしく生きる人はすべて どこへ向かって走るべきかを 捉えるであろう》という文の中の 《ただしく(義)》は 非経験的な絶対主観であります。つまり 経験科学ではないし その《なさ》のあり方は 経験科学として 無力であり ただし 無効だというのでもなく 無効というよりは 経験科学になじまないというかたちである。

しかし 〔文体展開の自然的な関係過程の場・つまり 社会 たる〕《競技場で すべての人は走るが 賞を得る者は 一人である。》(コリント人への第一の手紙 (聖書の使信 私訳・注釈・説教)9:24)というようにではない。
アウグスティヌス:《人間の義の完成》¶8〔・19〕・・・前章参照)

というとき アウグスティヌスは 上に述べたように非経験科学的に・そしてこの議論にかんする限りで 《コリントの信徒への第一の手紙》の著者パウロを 超えたわけである。《勝利》は 一等賞がひとりにだけ得られるというように 来るのではないと言ったわけである。
べつに パウロを批判したというものでもないであろうのであって しかも アウグスティヌスの文体は ここまで すすんだのである。マルクスは 政治経済学・社会科学ないし一般に経験科学の中で たしかに(第二十二章) この《勝利》ということを述べようとしたので さらに この点で アウグスティヌスを超えたのである。それは あくまで経験科学者としてであって そのように生活の共同自治のための補助手段の領域として そこまでさらに進んだというわけである。と同時に 一個の自然本性たる人間としては 相続したことになる。
で アウグスティヌスやさらにパウロにおいても 経験科学上の決定的な男女平等の理論を 用意していないとも見なければならないのと同じように マルクスにおいても 女性論の展開は まだであったか まだ途中段階にあったと 見られているようである。
わたしたちは この文体の性の問題で かれらを超えようとして さらに走るわけである。どこへ向かってかを捉えるのは おそらく かれらを 基本主観において 相続することによる。

エンゲルスの議論

ちなみに エンゲルスが 次のように述べるとき そこではまだ なぜ 男女平等がただしいのかは 論証されていない。

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