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哲学いろいろ

文体―第二十三章 アウグスティヌス

全体の目次→2004-12-17 - caguirofie041217
2005-01-31 - caguirofie050131よりのつづきです。)

第二十三章 人はアウグスティヌスを乗り超えたか

《悪》とは 作用(デーモン)として 善の欠如であり しかも 善人・悪人という表現がありえても 人はみな その存在(基本主観)として 善人である というふうに考えていた(第十六章)。つまり 《善》とは 生きている・存在しているというにすぎない。つまり 自立すると 生きる・存在するとは 同義語であるのだと。なおかつ 次のように――。

つまり 悪人は能力を受けとると自分の邪悪な意志に対する有罪宣告にいたるのに 善人はそれを受けて自分の善い意志の証明にいたるということである。
アウグスティヌス:《霊と文字》¶31)

アウグスティヌスは 或る意味で 旧い概念を使っており または とうぜんのごとく かれの生きた時代と社会との条件のそのようなかたちでの指紋(或る意味で 化石だが)も残されている。前章の議論で 水田は それでよいと言ったし 同時に わたしたちは 現代のわたしたちの・そして個人個人の 指紋を 排除すべきではなく それなりに用いるべきだと言ったのだと考えられる。アウグスティヌスは 人麻呂との時間差が 三百年ほどあるが いづれにしても ずいぶん遠いから 具体的な文体の引用としては 離れることにしよう。
もっとも わたくしの文体は その直接も間接も 淵源は すべて アウグスティヌスのものだけれども。
ということは 《ひょうせつ》にかんしては それを受け取っているかどうか それを受けて自分の意志の証明に到っているかどうか・つまり 自己到来の証明として自乗しつつ過程しているか ここに 岐れ目があるのではないだろうか。
ここには 賭けがある。ことばの自由化として。

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