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哲学いろいろ

文体―第二十章 万葉集・巻三(人麻呂のつづき)

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2005-01-28 - caguirofie050128よりのつづきです。)

第二十章 万葉集・巻三(人麻呂のつづき)

自然本性をどのようにうたうか

《自然》には 始まりがあった。(ビッグ・バン?)たぶん 終わりもあるのだろう。人間にも 初めがあって終わりがある。わたしたちは そのような自然本性として 環境自然および環境社会において また これらに対して 同じ自然本性の人びととともに 生きている。
《柿本朝臣人麻呂歌集》のなかから万葉集・第三巻に載せられたうた(244番) 《三吉野の御船の山に立つ雲の 常にあらむとわが思はなくに》は ただ 上のことを 言っているにすぎない。人間は 生まれ やがて死ぬ また そういう人間として 生きる と言ったにすぎない。もしくは 《立つ雲のごとくに》というその《立つ雲》が 《経験行為としてなされる文体》のことだと解釈すると この文体が過程的(それは 動態であり また 可変的)だというわたしたちの第一原則を語ったにすぎない。
しかのみならず 実際のところ わたしたちが 観念的なうただと評した243番つまり《王は千歳にまさむ 白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや》も 作者・春日王は わたしたちの自然本性の歴史過程性(つまり有限性)・あるいは 文体行為のそれを しかしながら 概念的にではなく なにやら観念的に 確認しようと勇みこんだものである。
弓削皇子が 《山の上の雲》と《下に流れ落ちている滝》とを対照させて なにやら自己の 基本主観ではなく 経験領域つまり情感・情念のわだかまりを 見つめている そのように こころが沈んでいる ところへ 春日王は 上のうたをもって 答えたのだから つまり勇みこんだようなのだから そのような観念・念観の或る種の鬼は 互いに あいまって 帳消しにされるであろうゆえ 罪はないと言う人が いるかもしれない。つまり 気休め・なぐさめの一手段だと評価する見解である。
わたしは この見解は あきらかに まちがっていると言ったのだ。なぜなら 人麻呂歌集のうたのように 自己の認識・いな自己の到来を 語っているようでいて ただ観念的に確認しようというにすぎないからだ。そのこころは 応答者・春日王は 自分も じつは 心にわだかまりがある でも 自己を自然本性として 《白雲も絶える日がないであろうように 千年も生きつづけるであろう》とかんがえ 元気づけているのだと 答えたにすぎないからだ。ここでは 自己の経験領域の或る停滞を ただ そのような観念として確認し そのような観念の放射線に乗せて 輸出しているにすぎない。はじめに 弓削皇子から輸入してきた観念(情念)と 今度 逆に 輸出した観念との差額を 自己に有利にもたらそうと(つまり 自己保身をしようと)しているにすぎない。したがって これは 重商主義のデーモンなのである。

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